俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
宿屋の最上等な個室。その中央に置かれた大きなベッドの上で、勇者タチバナは静かな寝息を立てていた。
僧侶のセシリア・ホワイトリリーは、ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、両手を胸の前で固く組み合わせて、その寝顔を祈るような思いで見守っていた。
(タチバナ様…。本当にお疲れ様でございました)
セシリアの翠緑の瞳に、温かい涙が滲む。タチバナの純白の衣服は、激しい戦闘の痕跡を物語るようにあちこちが裂け、泥と埃に塗れていた。彼の頬や腕には、いくつもの痛々しい切り傷が走っている。
セシリアはすでに自身の回復魔法でそれらの傷口を塞いだが、彼がその身に受けた「痛み」の記憶まで消し去ることはできない。
(あの方は、たったお一人で…私たち全員を守るために、あの恐ろしい魔人と死闘を繰り広げられたのですわ。私たちが無力であったばかりに、このような重荷を背負わせてしまって…)
セシリアの心は、深い罪悪感と、それを遥かに凌駕する圧倒的な尊敬と慈愛で満ち溢れていた。
並の人間であれば、四天王と名乗るあの巨躯を前にしただけで、恐怖に心を壊されていただろう。だが、タチバナは逃げなかった。いや、彼は『逃げられない』という責任感の重さに耐え抜いたのだと、セシリアは信じていた。
指導者として希望の象徴として、彼は自らの命を削ってでも立ち向かうしかなかったのだ。その理不尽なまでの自己犠牲の精神が、セシリアの母性本能を強く、痛いほどに刺激する。
「ん」
不意に、ベッドの上のタチバナが小さく身じろぎをした。セシリアは弾かれたように身を乗り出す。
タチバナの重い瞼が、ゆっくりと開かれた。彼が虚ろな目で周囲を見回し、やがて視線の焦点が定まる。その瞬間、部屋の外──宿屋の階下や、通りに集まっていた街の人々から、待ちわびていたかのような地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。
「おお…! 英雄がお目覚めになられたぞ!」
「神よ、感謝いたします! 奇跡だ!」
街の長が声を震わせて叫ぶ。その声に呼応するように、歓声はさらに大きくなった。セシリアは、自分のことのように嬉しくなり、両手で口元を覆って溢れ出す涙を堪えた。
「ああ、よかった…! 本当によかった…!」
涙ぐむセシリアたちを前に、タチバナは少し困惑したように目を瞬かせた後、ゆっくりと身体を起こした。そして、痛みを堪えるように僅かに顔を顰めながらも、限りなく優しく、憂いを帯びた笑みを浮かべてみせた。
「ああ。心配を、かけたな。もう大丈夫だ」
その、気丈に振る舞うかすれ声。セシリアの心は、その一言だけで完全に満たされた。ご自身の身体が一番辛いはずなのに、真っ先に私たちの不安を取り除こうとしてくださる。なんてお強い、そしてお優しい方なのだろうか。
やがて、街を救ってくれた英雄を大々的に称えるため、宿屋の一階にある大食堂を貸し切って、盛大な祝勝会が開かれることになった。セシリアは、喧騒と熱気に包まれる食堂の少し離れた席から、輪の中心にいるタチバナの姿を、この上なく誇らしい気持ちで見つめていた。
祝勝会の会場となった大食堂は、街中の人間が集まったのではないかと思うほどの熱気に包まれていた。テーブルには山のような肉料理や果実が並べられ、樽から直接注がれる酒の匂いが立ち込めている。
その中心──一段高く設けられた主賓席に、タチバナは座っていた。
「兄ちゃん、マジですげーな! あの化け物を一人で倒しちまうなんてよ!」
酒で顔を赤くした屈強な男たちが、次々とタチバナの元へやってきては、その肩をバンバンと乱暴に叩いていく。セシリアは「ああっ、タチバナ様のお体が!」とハラハラして見ていたが、タチバナは嫌な顔一つせず、穏やかな笑みを浮かべて男たちの荒っぽい祝福を受け入れていた。
「勇者様、素敵ですわ! 私、一生ついていきます!」
「この街の、いえ、世界の英雄よ!」
今度は着飾った美しい町娘たちが群がり、頬を赤く染めてタチバナの腕に絡みついていく。
セシリアは、娘たちがタチバナに無遠慮に密着するのを見て、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
タチバナは鼻の下を伸ばすような下品な振る舞いは一切見せず、困ったように眉を下げながらも、決して彼女たちを邪険に扱うことなく優しく応対している。
(タチバナ様は、本当にすごいお方…。あのような絶大な力を持っていながら、決して驕ることなく、こんなにも人々に愛されて…)
その姿は、セシリアが幼い頃に修道院で読んだ教典に登場する、民に愛され、民を導く聖王の姿そのものに重なって見えた。
誰もが彼を求め、誰もが彼を称賛する。セシリアは、自分もあの光り輝く輪の中に入り、「私もタチバナ様のお役に立ちたい」と伝えたい衝動に駆られた。
同時に「私のような未熟な僧侶が、あのような英雄の御側に気安く近寄るなどおこがましい」という強い躊躇いが、彼女の足をその場に縫い付けていた。
(私は、戦いで傷ついたあの方を癒すのが役目。今はただ、あの方がお酒を飲みすぎてお体を壊されたりしないよう、ここからしっかりと見守っていないと…)
セシリアは、自分にそう言い聞かせた。彼女は、手元に置かれた薄い果実酒の杯に少しだけ口をつけながら、喧騒の中心で微笑むタチバナの姿を、ただひたすらに、慈しむような目で見つめ続けた。
祝勝会が深夜に近づき、宴の熱が最高潮に達するにつれ、セシリアの仲間たちにも明らかな変化が表れ始めていた。王城での厳しい規律から解放され、さらに「死の恐怖」という極限状態を乗り越えた反動からか、アリシアとメグの杯の進みは、セシリアの予想を遥かに超えて早かったのだ。
セシリアが小さく息を呑んだのは、普段は誰よりも真面目で己を厳しく律している王女騎士、アリシアの行動だった。
アリシアは、いつの間にかタチバナの座る主賓席へと移動しており、とろんと潤んだ目で彼の隣にすとんと座り込んでいた。そしてあろうことか、タチバナの肩に、こてんと自分の頭を無防備に預けてしまったのだ。
「タチバナ様ぁ…。今日のあなたは…本当に、お強くて…素敵、でしたぁ…」
甘く、とろけるような声音。さらにセシリアの目を釘付けにしたのは、アリシアの服装だった。彼女は鎧を脱ぎ、私服に着替えていたのだが、アルコールの熱のせいか、その胸元のボタンが普段よりも幾分か大きく開かれていたのだ。
タチバナの肩に寄りかかる姿勢になったことで、その布の隙間からは、抜けるように白い肌と、女性らしい柔らかな渓谷の影が、はっきりと見て取れた。
(ア、アリシアさん…! なんて大胆な…!)
セシリアは、見てはいけないものを見てしまったような羞恥心に襲われ、カァッと顔を熱くした。王族であり誇り高き騎士である彼女が、あそこまで無防備に男性に身を委ねるなど、普段の彼女からは到底考えられないことだ。
驚きはそれだけでは終わらなかった。
「勇者様の膝、気持ちいー…」
今度は、天才魔法使いのメグが、アリシアとは反対側からタチバナに近づき、あろうことか彼の太ももの上に、ごろんと仰向けに寝転がってしまったのだ。
「ねーねー、今日のあたしの魔法、どうだったぁ? 褒めて、もっと褒めてー?」
メグはタチバナの膝の上で頭を擦り付けながら、上目遣いに甘えている。彼女が身をよじったことで、ただでさえ短いローブの裾がさらに大胆にめくれ上がり、健康的な太ももの素肌が、宴の灯りに照らされて露わになっていた。
(メグさんまで…! は、はしたないです…! あのような格好で殿方の膝に乗るなど…!)
セシリアは慌てて両手で顔を覆い、指の隙間からその光景を盗み見た。しかし、そんな二人の規格外の甘えぶりに対し、タチバナは怒ることも、逆に下卑た笑みを浮かべて手を出すこともなかった。
彼は、少し困ったような、それでいてどこか嬉しそうな苦笑いを浮かべながら、二人の体を優しく支え、その場を受け入れているように見えたのだ。
その光景は、まるで年の離れた兄が、幼い妹たちの我侭を大きな器で受け止めているかのような、非常に微笑ましく温かいものとしてセシリアの目に映った。
(タチバナ様は、仲間に対してあんなにもお優しい顔をされるのですね…)
その微笑ましさの裏側でセシリアの胸の奥を、言葉にできない小さな針のようなものがチクリと刺した。
(私も…。私もあんな風に、タチバナ様のお側に行って、甘えてみたい…なんて)
ふと湧き上がった己の感情に、セシリアはハッと息を呑んだ。神に仕える身でありながら、特定の男性に対して独占欲にも似た感情を抱くなど、あってはならないことだ。
セシリアは、真っ赤になった顔を冷ますように、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
宴の喧騒が遠のいていくような感覚があった。仲間たちの様子を遠くから見守り続けていたセシリアの意識は、慣れない果実酒の甘さに誘われるように、徐々にふわふわとした、輪郭のないものへと変わっていった。
(あれ…なんだか、頭が…くらくらします…。お酒、少し強かったのでしょうか…)
視界の端が白く滲み、天井のランプの光が幾重にもブレて見える。重力に逆らうのが億劫になり、セシリアはテーブルに肘をついて、ゆっくりとまぶたを落としかけた。
その時、ぼやける視界の先に、タチバナの顔が見えたような気がした。彼がこちらを見て、何かを言っている。彼の口が動いているのは分かるが、周囲の騒音と自身の意識の混濁により、その声は全く耳に届かない。
「タチバナ様…大丈夫ですか…? 少し、お休みになられた方が…」
セシリアは、ふらつく頭を必死に支えながら、そう声を絞り出した。自分が彼を介抱しなければ。彼が無理をして倒れてしまわないように。そう思ったのは覚えている。だが、セシリアの記憶の糸は、そこでぷつりと、完全に途切れていた。
次に彼女の感覚が機能した時、彼女は圧倒的な「心地よさ」の中にいた。宴の喧騒は消え去り、静寂が満ちている。そして何より、彼女の全身を、信じられないほど優しく、そして温かい何かが包み込んでいた。
硬い木製の椅子の感触ではない。まるで春の柔らかな日差しの中で、雲のベッドの上に横たわっているかのような、極上の浮遊感と安心感。そして、鼻腔をくすぐる微かな頼もしい誰かの体温の匂い。
(なんて温かいのでしょう。全ての不安が、溶けてなくなっていくようです…)
それが夢なのか現実なのか、セシリアには判断がつかなかった。ただ、本能が「ここは安全だ」と告げていた。彼女は、その得体の知れない心地よさに完全に身を委ね、小さく幸せな寝息を漏らしながら、再び深い、深い眠りの底へと、ゆっくりと落ちていった。
■
「ん…」
小鳥のさえずりと、窓の隙間から差し込む朝の陽光が、セシリア・ホワイトリリーの意識をゆっくりと覚醒の淵へと引き上げていった。まぶたの裏で白く弾ける光を感じながら、彼女はふうっと静かな寝息を吐き出す。
昨夜の果実酒による酩酊や、頭の芯を揺らしていたような感覚はすっかり消え失せていた。それどころか、これまでの人生で最も深く、良質な睡眠をとれたような、完全なる疲労回復の兆候が全身を満たしている。
(あれ…? 私、自分の部屋のベッドまで、どうやって戻ったのでしょうか…?)
セシリアの寝起きの思考が、ゆっくりと論理的な状況把握を試み始める。彼女は昨夜、祝勝会の喧騒の中で意識を手放したはずだ。ならば、誰かが自室まで運んでくれたと考えるのが自然である。
背中に感じるのは、最高級の羽毛が詰められたふかふかのマットレスの感触。身体を覆うのは、滑らかな絹のシーツ。ここまでは、宿屋の設備として矛盾はない。
しかし、彼女の優れた感覚器官は、いくつかの明確な「違和感」を脳へと報告していた。
第一に、枕の硬さである。頭の下にあるものは、確かに適度な弾力を持っているが、羽毛や綿のそれとは根本的に構造が異なる。もっと密度が高く、うっすらとした筋肉の隆起さえ感じられる。
第二に、熱源の存在だ。自分自身の体温とは明らかに違う、力強くも穏やかな熱が、身体の前面、特に顔のすぐ下からじんわりと伝わってくる。
第三に、振動。トクン、トクン、という極めて規則的で力強い鼓動のようなリズムが、彼女の頬を一定の周期で揺らしているのだ。
(おかしいですわ。私の部屋のベッドには、このような熱を発する構造も、脈打つような仕掛けも存在しないはず…)
セシリアは、まどろみの中で眉をひそめ、その「違和感の正体」を確かめるべく、ゆっくりと重い目を開けた。
視界が徐々に焦点を結んでいく。まず目に飛び込んできたのは、白いシーツではない。健康的な肌色をした、引き締まった鎖骨。そして、規則正しい呼吸に合わせて緩やかに上下する、たくましい胸郭であった。
「…え?」
セシリアの思考が、一瞬だけ完全に停止した。彼女は、自分の頬が密着している「熱源」と「枕」の正体を理解するため、恐る恐る視線を上方へと向けた。
そこにあったのは、無防備な寝顔だった。少し癖のある黒髪が額にかかり、普段の頼もしさとは裏腹な、どこか幼ささえ感じさせる穏やかな表情。間違いなく、勇者タチバナの顔であった。
(タ、タチバナ様…!? なぜ、あの方が私のベッドに…?)
否、違う。部屋の調度品や広さから推測するに、ここはセシリアの部屋ではない。タチバナにあてがわれた、この宿屋で最も広い最上等の個室だ。つまり、セシリアがタチバナのベッドに潜り込んでいるのである。
さらなる事実確認のため、セシリアは自身の身体の状況を俯瞰した。彼女は今、タチバナの身体の上に、まるで馬乗りになるような体勢で覆いかぶさり、その広い胸板にぴったりと抱きつく形で眠っていたのだ。そして、彼女の視覚は、もう一つの、そして最も致命的な事実を捉えた。
肌に触れる空気の、妙な冷たさ。普段身に纏っている、重厚な純白の法衣の重量感の欠如。視線を己の身体へと下ろせば、そこにあるのは、申し訳程度の布面積しかない、薄く質素な下着一枚のみに覆われた自身の素肌であった。
「(…っ!!)」
セシリアは、ベッドの脇の椅子に視線を走らせた。そこには、彼女が昨夜まで着ていたはずの法衣が、しわ一つないように極めて丁寧に、几帳面な四角形に畳まれて置かれている。
状況証拠から導き出される論理的な結論は、あまりにも残酷で、そして破廉恥であった。自分がタチバナの部屋で、彼の上に馬乗りになり、あろうことか下着一枚という無防備な姿で抱きついて一晩を明かしたという、動かしようのない事実。
これがどのような経緯で発生したのか、彼女の記憶は完全に欠落している。だが、客観的な状況が示す「絵面」の破壊力は、清廉潔白に生きてきた彼女の精神許容量を、コンマ一秒で凌駕した。
「ひゃっ!? ひゃああああああっ!?」
セシリアの口から、彼女のこれまでの人生において最大音量となる、悲鳴にも似た可愛らしい絶叫が爆発した。その悲鳴が部屋の空気を震わせたとほぼ同時のタイミングで。バンッ!! という乱暴な音と共に、重厚な木製の扉が勢いよく蹴り開けられた。
「セシリア!? どうしたの!」
「敵襲か! 何かあったのか!」
部屋に飛び込んできたのは、朝の支度を終え、タチバナの様子を見に来たのであろうアリシアとメグであった。二人は武器こそ構えていないものの、完全に臨戦態勢の鋭い目つきをしている。
しかし。扉を抜けた二人の視線が、ベッドの上で展開されている光景──すなわち、下着姿でタチバナに馬乗りになり、顔を茹でダコのように真っ赤にして涙目でプルプルと震えているセシリアの姿──を捉えた瞬間。
アリシアとメグの動きは、まるで時間停止の魔法をかけられたかのように、ピシリ、と完全に硬直した。
一秒。
二秒。
三秒。
恐ろしいほどの沈黙が、部屋を満たした。アリシアのサファイアの瞳は限界まで見開かれ、メグの口は金魚のようにパクパクと開閉を繰り返している。やがて、二人の優れた頭脳が、目の前の状況証拠から「最も論理的で、最も衝撃的な結論」を導き出した。
「「きゃあああああああっ!?」」
今度は、アリシアとメグの口から、セシリアのものとはまた違う、強烈な悲鳴が上がった。
「セ、セ、セシリア! あなた、なんて格好を!」
アリシアが、顔を真っ赤にして指を指す。
「ど、ど、ど、どういうことなのよ、これー! あたしを差し置いて抜け駆け!?」
メグが、半狂乱になってベッドへと駆け寄ってくる。
「い、いえ! 違うのです! これは、その、誤解でして!」
セシリアは慌ててタチバナの上から転がり落ち、シーツを掻き集めて自身の豊かな身体を隠そうと必死にもがいた。
「私が気づいたらこうなっていて…! 決して、決してやましいことなど!」
「言い訳は聞きません! 敬虔な僧侶であるあなたが殿方の上に跨って、しかもそのような…破廉恥な姿で! これは大問題です!」
アリシアが騎士としての規律と、得体も知れない強烈な嫉妬心を爆発させてセシリアの肩を掴む。
「まさか、酔った勢いで勇者様の寝込みを襲ったっていうの!? そういうのは一番ダメだってアカデミーでも教わったでしょ! ずるいずるいずるーい!」
メグも加わり、セシリアの腕を引いてガクガクと前後に揺さぶる。
「そ、そんなことはありません…! でも、でも本当に記憶が…!」
セシリアは、二人に揺さぶられながら、パニックで視界を涙で滲ませた。
(どうしよう、どうしよう! 私、タチバナ様に、なんてことをしてしまったの…! お酒の力に負けて、あの方の寝所に忍び込み、あまつさえ衣服を脱ぎ捨てて抱きつくなど…神よ、この罪深き私をお許しください!)
彼女の理屈では、タチバナが自ら彼女の服を脱がせてベッドに引き込んだという「変態的な真実」など微塵も思い至らない。すべては酔って自制心を失った自分の責任であると、完璧なまでに自分を責めていた。
その極限の混乱と羞恥、そして罪悪感の嵐の中心において。セシリアの胸の奥底に一つのとても小さく、けれど確かな温かい感情が芽生え、花開こうとしていた。
(でも…。タチバナ様の胸、すごく、すごく温かかった…。あの方の鼓動の音を聞いていると、どんな魔法よりも心が安らいで…)
羞恥と罪悪感。それをすべて飲み込んでしまうほどの、抗いがたいほどに甘いときめき。
セシリア・ホワイトリリーの、これまでの人生で一度も経験したことのない「初めての恋心」が、史上最悪の修羅場の中で、完璧な形で自覚された瞬間であった。
「ちょっとセシリア! 何うっとりした顔してんのよ! 正直に吐きなさい!」
「タチバナ様に何をなされたのか、詳細な報告を求めます!」
アリシアとメグの激しい追及は、一向に収まる気配がない。部屋の中は、三人の乙女たちの怒号と悲鳴が入り乱れる大惨事となっていた。
その騒音と修羅場の中心であるベッドの上で。
当のタチバナだけが、周囲の地獄絵図など一切関知していないかのように、幸せそうなだらしない笑みを浮かべたまま、すうすうと平和な寝息を立て続けているのであった。
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