俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
王国暦七四二年、春の早朝。東の空が白み始め、夜陰の冷気を孕んだ朝靄が地表を這うように流れる刻限。王宮騎士隊長ガレイン・フォン・ヴォルテックスは、兜の奥の冷徹な碧眼で、眼前の光景を厳密に査定していた。
「…報告にあった座標は、ここで間違いないか」
ガレインの低い問いに、副官が短く頷く。彼らが包囲陣を敷いているのは、辺境の村のさらに外れに建つ、粗末な木造の小屋であった。風が吹けばきしみ、雨が降れば漏りそうな、およそ「英雄」の住処とはかけ離れた掘っ立て小屋。
だが、王宮諜報部が徹夜でまとめ上げた極秘資料によれば、昨日この村で伝説の「聖剣」が抜かれ、その所有者となった男がここに住んでいるという。
ガレインは、無駄のない動作で自身のガントレットの位置を調整した。彼の身を包むのは、王家の威信を示す純銀のフルプレートアーマー。その表面は鏡のように磨き上げられ、昇り始めた朝日の光を鋭く反射している。
対して、周囲の景色はどうだ。土の臭い、家畜の鳴き声。防壁もなく、歩哨もいない。軍事的な観点から見れば、戦略的価値など皆無に等しい、完全に平和に慣れきった集落。
こんな場所から、世界の命運を握る者が現れたなどとは、軍人としての論理がにわかには信じようとしない。
(だが、事実は事実として処理せねばならん)
ガレインは感情を排し、冷徹な理屈のみで思考回路を回す。彼の任務は、「勇者の確保と王城への護送」。
それは単なるお迎えなどではない。国家の最高戦力となるであろう個体を、物理的に確保・管理するという極秘の軍事作戦である。ゆえに、彼は最精鋭の騎士十名を選抜し、完全武装でこの場に臨んでいた。
「隊長。周辺の村人の動きが奇妙です」
部下の囁きに、ガレインは視線を巡らせた。早朝にもかかわらず、小屋の周りには村人たちが続々と集まってきている。通常、完全武装の王宮騎士団が突然現れれば、農民たちは武力に恐怖し家に閉じこもるものだ。
しかし、彼らの目は違った。恐怖ではなく「期待」と「興奮」、そして一種の「信仰」に近い狂熱を帯びて、このみすぼらしい小屋を見つめている。
(…なるほど)
ガレインの中で、対象への評価が一段階上方修正される。調査報告によれば、対象の名はタチバナ。定職に就かず、村の女たちに世話を焼かせて生活している「穀潰し」であるとの記述があった。
だが、この村人たちの反応はどうだ。
単なる穀潰しに、これほどの求心力が集まるはずがない。あの視線は、彼らがこの小屋の住人を、自分たちの精神的な上位存在として完全に崇拝している証拠だ。
表向きは無害な無職を装いながら、裏では極めて高度な人心掌握術を用い、村一つを自身の支配下に置いているということか。
いずれにせよ、只者ではない。
「…出るぞ」
小屋の扉が、軋んだ音を立てて開いた。ガレインは背筋を伸ばし、威儀を正す。部下たちも一糸乱れぬ動きで踵を揃え、包囲の厚みを増した。
現れたのは、一人の青年だった。黒い髪に、黒い瞳。そして何より、その肉体の異様なまでの貧弱さ。
ガレインの練り上げられた観察眼は、瞬時に対象の肉体スペックを解析した。肩幅は狭く、胸板は薄い。腕に発達した筋肉の隆起は見られず、掌には剣ダコどころか、農具を握った痕跡すら皆無。白く滑らかで、まるで深窓の令嬢のような手だ。
(…これが、勇者?)
一瞬、ガレインの思考にノイズが走る。戦士としての覇気はおろか、生存本能すら希薄に見える。風が吹けば折れそうな、脆弱な存在。扉を開けた瞬間に硬直したその視線は、明らかに動揺して泳いでいる。
だが、ガレインはすぐにその第一印象を、己の論理で否定した。「見かけによらない」というのは、真の強者が好んで用いる典型的な擬態だ。肉体的な強度が全てではない。
むしろ、この無防備すぎる姿こそが、いかなる奇襲にも対応できるという絶対的な自信の表れに違いない。青年──タチバナは、目の前に展開する銀色の鉄壁と王家の馬車を見て、あんぐりと口を開けている。
(周囲の戦力と退路の分析に入ったか)
ガレインはそう判断し、一歩前へ進み出た。まずは、王命を伝える。相手の出方を見るのはそれからだ。
「勇者タチバナ殿とお見受けする。国王陛下より、招集の命を受けて参上した。直ちに王城へご同行願いたい」
ガレインの声は、兜の反響を含んで重々しく響き渡る。タチバナの肩がビクリと跳ねた。普通の人間なら威圧感に飲まれるところだが、彼はすぐに愛想笑いのような表情を張り付かせ、腰を低くした。
「あ、いやぁ…ご苦労様です、騎士様。わざわざこんな辺境まで…。でもですね、ちょっと人違いと言いますか、勇者だなんてとんでもない。それにですね! 実は俺、今朝からすっごく腹の具合が悪くて! 伝染病かもしれない! 俺に近づくと騎士様の高貴な鎧に菌がついちゃうかも!」
タチバナは腹部を大袈裟に押さえ、前かがみになって苦悶の声を上げ始めた。
(…愚かな)
ガレインの冷静な分析回路が、タチバナの演技を瞬時に解剖する。まず、本当に立っていられないほどの激痛があるなら、脂汗が滲み、呼吸が極端に浅くなるはずだ。だが彼の肌は乾燥しており、声量も十分にある。
次に、「伝染病」という言葉の選択。これは明らかに、我々を遠ざけるための稚拙なブラフだ。彼は嘘をついている。
なぜか? ガレインの脳内で、いくつかの仮説が検証される。単なる恐怖からの逃避か。あるいは、自身の価値を吊り上げるための、意図的な遅延行為か。いずれにせよ、ここで彼のご機嫌取りをするのは非合理的だ。国家存亡の危機において、個人の腹痛(それも仮病)になど構っていられない。
必要なのは、「説得」ではなく「通告」だ。我々には、強制力があるのだという事実を、論理的かつ物理的に理解させる必要がある。
ガレインは無言のまま、腰に帯びた長剣の柄に、ガシャリと音を立てて手を置いた。抜くつもりはない。これは騎士礼法における「決意の提示」だ。『我々は、任務遂行のためならば武力行使も辞さない』という覚悟を、鋼鉄の音に乗せて伝達する。言葉よりも雄弁な、軍事的な圧力。
「体調不良か。ならば好都合だ」
ガレインは淡々と言い放った。タチバナが間の抜けた声を上げる。ガレインは構わず、用意していた論理的な「詰み」の選択肢を提示する。
「王城には、王国最高峰の治癒術を修めた者たちが控えている。貴殿の腹痛ごとき、瞬きする間に完治するだろう。…もちろん、痛みが酷く、自らの足で歩けないというのであれば、我々が手足を縛り上げ、荷物として馬車へ運ぶことも可能だが?」
抵抗すれば公務執行妨害であり、勇者といえど拘束の対象となる。さあ、選べ。自らの足で尊厳を持って歩くか、囚人のように運ばれるか。ガレインの鋭い眼光が、タチバナを射抜く。
その瞬間だった。タチバナの雰囲気が、ガラリと変わったのは。彼は腹を押さえていた手をスッと離し、丸めていた背筋をピンと伸ばしたのだ。
「あ、いや、不思議なことに今の一瞬で痛みが綺麗に引きました。奇跡的な回復力です。やはり勇者たるもの、身体も丈夫にできているのかもしれませんね、ハハハ…」
(速い!)
ガレインは内心で舌を巻いた。なんという切り替えの速さか。自身の不利を悟るや否や、瞬時に損得勘定を済ませ、最も合理的かつダメージの少ない「恭順」という選択肢を選び取った。凡人ならば、ここで無様な言い訳を重ねたり、感情的に反発して事態を悪化させるところだ。だが、彼は一瞬で「状況」に適応した。
さらに、「さすが勇者」という軽口。これは、我々の武力を前にしてもなお、ユーモアを口にする余裕があるという示威行為か。腹痛という茶番は、やはり我々の「本気度」を測るためのテストだったに違いない。
「それは重畳。では」
ガレインは顎で馬車をしゃくった。タチバナは──先ほどまでの重病設定など忘れたかのように──そそくさと馬車へと向かう。その背中に、周囲で見守っていた村人たちから、悲鳴のような歓声と涙声が飛んだ。
「タチバナ…! 王様のお迎えなんて、すごすぎるわ!」
「行ってらっしゃい! 立派な勇者様になってね!」
ガレインは、その光景を見て確信した。この男は、異常なまでに愛されている。彼がこの村を守るために、何か見えないところで尽力してきたからこその、この信頼と涙なのだ。
そして、タチバナの態度はどうだ。彼は、村人たちの声援に一度も振り返らなかった。手も振らず、別れの言葉も告げない。ただ黙々と、用意された馬車へと歩を進めていく。
(…見事だ)
ガレインは、その冷徹なまでのストイックさに感服した。振り返れば、決意が鈍る。故郷への未練を断ち切り、修羅の道へと進む覚悟を決めた男の無言の背中。「待っていてくれ」などという甘い言葉は、死地へ向かう戦士には不要なのだ。
タチバナが車内へと身を沈めたのを確認し、ガレインは重厚な扉を閉めた。バタン、という音が、村の日常と英雄の非日常を隔てる境界線として響いた。
「総員、配置につけ! 王城へ帰還する!」
ガレインの号令と共に、騎士たちが一斉に馬上の人となる。馬車が砂煙を上げ、王都への道をひた走り始めた。
ガレインは馬上で揺られながら、背後の馬車を一瞥した。今頃、あの車内でタチバナは何を思っているだろうか。おそらく、これからの戦略を練り、孤独と重圧に一人静かに耐えているに違いない。その高度な知性と覚悟に、一介の武人として敬意を表すべきだ。
王宮騎士隊長ガレインの、「論理的」かつ「完璧」な状況分析。その全てが、タチバナの「保身」と「ただの恐怖」によって生み出された虚構であることに、彼が気づく日は…おそらく永遠に来ない。
馬車の密室の中で、勇者が頭を抱えて「帰りてぇ…」と涙目で絶望しているなどとは、露知らずに。
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