俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
世界の最果て、太陽の光すらも届かぬ厚い雲に覆われた不毛の大地。
その中央にそびえ立つ、黒曜石を削り出して造られた巨大な城郭。魔王城の最深部に位置する「玉座の間」には、肺を押し潰すような重く張り詰めた沈黙が満ちていた。
広大な空間の最奥、数段高い場所に鎮座する玉座。
そこに座す「影」から放たれる魔力は、ただそこに在るだけで空間そのものを軋ませ、周囲の物理法則を歪めてしまうほどの圧倒的な密度と質量を誇っていた。
その絶対的な支配者の御前、冷たい石の床には、三つの人影が恭しく片膝をつき、深く頭を垂れていた。
一人は、身体の線を強調した露出の多い衣服を纏い、紫色の長い髪を揺らす妖艶な長身の女。
一人は、神経質そうに細い指を組み、知性を感じさせる外套を羽織った痩身の男。
そして一人は、頭から爪先までを装飾の一切ない分厚い漆黒の鎧で覆い隠した、岩山のような巨躯を持つ寡黙な騎士。
彼らこそ、魔王軍の最高幹部であり、魔族の頂点に立つ最強の戦力、「四天王」と呼ばれる者たちである。
今日この場に集まった彼らの数は、本来の四つから一つ欠けていた。
「魔王様。お待たせいたしました」
静寂を破り最初に口を開いたのは、知性を司る四天王、“知略”のインテリオであった。彼は痩けた頬を僅かに動かし、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、冷徹な声で報告の口火を切った。
「先ほど、人間の王都周辺へ派遣していた空間転移の魔導部隊より、報告のあった『物体』の回収を完了いたしました。現在、この玉座の間の後方に安置しております」
インテリオの言葉に従い、三人の背後、玉座から少し離れた床の中央に、一枚の粗末な布が掛けられた巨大な物体が横たわっているのが確認できた。それは、つい数日前まで彼らと肩を並べ、共に魔王への忠誠を誓っていたはずの同胞、“剛拳”のブライアンの成れの果てであった。
「して、インテリオよ。我らが誇る脳筋ダルマの死体は、いかなる無様な有り様であったのだ?」
妖艶な女、“幻惑”のリリスが、くすくすと毒を含んだ笑い声を漏らしながら問いかけた。
「あれだけ大見得を切って『新たなる勇者の実力を見極めてくる』と息巻いて出立したというのに。人間の小娘どもに囲まれて、油断して足元でもすくわれたのかしら?」
「ふざけるな、リリス」
リリスの嘲笑を、地を這うような低い重圧に満ちた声が遮った。漆黒の鎧の騎士、“黒騎士”ヴォルファングである。
「ブライアンは、決して油断などせぬ。奴の戦い方は単純だが、その肉体の強度と破壊力は我らの中でも随一。並の魔法や剣撃で致命傷を負うような脆い男ではない。奴が死んだという事実は、即ち、奴を凌駕する『純粋な暴力』がそこにあったという証左だ」
ヴォルファングは兜の奥の赤い双眸を光らせ、インテリオへと視線を向けた。
「インテリオ。奴の亡骸を検分したのだろう。致命傷は何だ? どのような大魔術、あるいはいかなる攻城兵器を用いれば、あの岩のような肉体を破壊できるのだ?」
二人の四天王の視線を受け、インテリオは再び眼鏡の位置を直し、極めて理解し難い事実を述べるように、ゆっくりと首を横に振った。
「それが、今回の回収任務における最大の『不可解な点』なのです、ヴォルファング」
インテリオは淡々としつつ、僅かに当惑を孕んだ声で報告を続けた。
「彼の肉体には、激しい戦闘の痕跡と見られる外傷が、ほぼ皆無でした。皮膚の裂傷、筋肉の断裂、骨の粉砕…そういった、彼の肉体を破壊するに足る物理的ダメージの痕跡が、一切見受けられなかったのです」
「なんだと?」
ヴォルファングが低く唸る。
「あるのは、ただ一つ。彼の強靭な胸骨と大胸筋をすり抜け、心臓を寸でのところで貫いたと思われる、極めて鋭利な刃物による『ただ一つの刺し傷』のみです…問題はここからです」
インテリオは言葉を区切り、より一層慎重に言葉を選んだ。
「その唯一の刺し傷は、彼の生命活動を完全に停止させた後…何者かによって行使された極めて高位の『治癒魔法』によって、内臓から皮膚の表面に至るまで、完全に塞がれ、綺麗に修復されていました」
その報告がもたらした意味を理解し、玉座の間は再び異様な静寂に包まれた。リリスの口から先ほどの嘲笑とは質の違う、引きつったような笑い声が漏れた。
「あら…? どういうことかしら、それ。敵の心臓を正確に貫いて確実に殺しておきながら、その直後に、わざわざ極上の治癒魔法をかけて、傷口を綺麗に塞いであげたってこと? …随分と趣味の悪い、お優しい勇者様もいたものねぇ」
「…侮辱だ」
ヴォルファングの周囲から、濃密な殺気が黒いオーラとなって立ち上った。
「戦士に対する、これ以上の冒涜はない。死力を尽くした相手の死に顔を綺麗に整えるなど、それは弱者に向ける同情だ。ブライアンほどの男が、これほど傷一つない綺麗な姿で、弱者として扱われて死ぬなど、ありえん。これは我々魔軍全体に対する勇者の…いや、人間どもの明確な侮辱だ!」
激昂するヴォルファングと、薄気味悪さに笑みを消したリリス。二人の反応を確認しインテリオは、決定的な事実を突きつけるために報告を続行した。
「…怒る気持ちは理解できますが、我々が直視すべき真の脅威は、彼に対する同情の有無ではありません。最大の問題は、彼の魂の底に残されていた『感情の残滓』です」
インテリオは、魔術師としての高度な解析技術を用いて死者の魂から読み取った情報を、一つずつ紐解いていく。
「通常、殺害された者の魂には、強い怨念、無念、あるいは生への執着が残ります。しかし、私がブライアンの魂の残滓を霊的に解析したところ…彼が死の間際、最後に抱いていた感情は、二つしかありませんでした」
インテリオは信じがたいものを語るように、僅かに声を潜めた。
「一つは、底知れぬ存在に直面したことによる『理解不能な恐怖』。そしてもう一つは…強者と出会い、その理不尽なまでの力に圧倒されたことに対する、ほんのわずかな『武人としての歓喜』です」
その言葉が玉座の間に落ちた瞬間、リリスもヴォルファングも、明確に表情を強張らせた。
恐怖を感じたということは、理解できる。相手が四天王を遥かに凌駕する化け物であったならば、ブライアンとて死の恐怖を抱くだろう。
「歓喜」とはどういうことか。
「つまりインテリオ、貴様はこう言いたいのか?」
ヴォルファングが、兜の奥から搾り出すように問う。
「ブライアンは、敵の圧倒的な力の前になす術なく敗れ去り、己の死を理不尽な暴力としてではなく…自らを凌駕する完璧な『武』として受け入れ、むしろ歓迎して死んでいったとでも言うのか?」
インテリオは冷たい汗を一つ流しながら、静かに首を縦に振った。
「そうとしか、論理的に説明がつきません。彼に、死の恐怖と同時に、これほどの歓喜と畏敬の念を抱かせた相手。そして、心臓を穿つという確実な殺意と、その直後に傷を塞ぐという相反する不可解な行動を平然と、あるいは無意識のうちにやってのける存在」
インテリオの眼鏡の奥の瞳が、暗い光を帯びる。
「勇者タチバナとは、一体、何者なのか。我々が想定していたような、神の加護にすがるだけの単なる人間の戦士ではないことだけは、確実です。彼の精神構造と行動原理は、我々魔族の理解の範疇を超越しています」
三人の間に、再び重く、冷たい沈黙が落ちた。脳筋であり、どんな策も暴力でねじ伏せることを信条とし、常に真正面からの殴り合いを好んだあのブライアンが。圧倒的な恐怖と、理解不能な歓喜の中で、傷一つない綺麗な遺体となって死んだ。
その事実が、彼らにとってはどのような強力な軍勢の存在よりも、何よりも不気味であった。
リリスは、先ほどまでの余裕のある態度を完全に消し去り、血のような紅い唇に、初めて真剣で、そして極めて危険な光を宿した。
「面白そうじゃない。ブライアンをそこまで狂わせた、得体の知れない勇者様」
彼女は己の長い紫の髪を指に巻き付けながら、妖艶に獲物を狙う毒蛇のように目を細めた。
「そんなに素敵な殿方なら、次は、この私が直々にお相手して差し上げましょうか。ブライアンのような力ずくの野蛮なやり方じゃなくて…もっと、ねっとりとした、精神の奥底まで犯すようなやり方で。彼のその『理解不能な強さ』とやらの正体を、私が丸裸に暴いてあげるわ…」
三人の四天王が、新たなる未知の脅威である「勇者タチバナ」に対する戦慄と、それぞれの思惑を巡らせていた、その時であった。
これまで一言も発することなく、深い闇に包まれた玉座に座していた魔王が、ゆっくりと口を開いた。
「ブライアンは弱かった。ただ、それだけのことだ」
その一言だけで、空間の魔力が震え、空気が氷結したかのような錯覚に陥る。三人の四天王は、魔王の言葉を受けた瞬間、先ほどまでの議論を即座に打ち切り、さらに深く、床に額が擦れるほどに頭を垂れた。
「はっ。御意のままに」
インテリオが代表して震える声で答える。玉座の影から魔王の冷たく、そしてどこか退屈そうな視線が静かに射抜いた。
「だが我が永遠にも似た退屈を、ほんの少しばかり紛らわせてくれるかもしれぬ、新たな『玩具』が現れたことも、また事実」
魔王の声に、ほんのわずかな、だが確かな「興味」の色が混ざった。その変化を察知し、四天王たちは息を呑んだ。魔王が、人間という矮小な存在に対して、明確に興味を示されたのは、何百年ぶりのことだろうか。
「リリス。インテリオ。ヴォルファングよ」
「「「ははっ!!」」」
魔王の呼びかけに、三人は同時に力強く応を返す。
「好きにせよ。貴様らの持つ知略、幻惑、そして武力の全てを用いて、その勇者とやらを試すがよい」
魔王の言葉は、彼らに勇者討伐の許可を与えるものであった。しかし、それに続く言葉は、極めて厳格な「制限」を伴っていた。
「ただし。決して、殺すな」
絶対の勅命。その言葉の重圧に、三人の全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
「その『勇者』とやらの持つ不可解な力、底知れぬ恐怖、そして滑稽な魂の足掻き。その全てを、最後の最後で味わい尽くすのは、この私だ。私が直接この手で蹂躙し、絶望のどん底へと叩き落としてやる…それまでは決して、完全に壊してはならぬ。生かしたまま、私の御前へと引きずり出せ」
「「「御意!!」」」
三人の四天王の声が、玉座の間に再び重なり合って響き渡った。その声には、未知の敵に対する警戒と、魔王の命を遂行するための確固たる決意が満ちていた。
ブライアンの不可解な死は、魔王軍にとって、力のみで押し通せた一つの時代の終わりを意味していた。そして同時に勇者タチバナという、全く新しいベクトルを持った未知の脅威(玩具)に対する、血で血を洗う新たな戦いの始まりを告げる、絶望の号砲でもあったのだ。
彼らはまだ知る由もなかった。
自分たちがこれから対峙し、知略や幻惑を用いて試そうとしている『勇者』が、彼らの論理的で高尚な想像を遥かに超えた、極めて低俗で矮小で自己保身と性欲のみで動いている、全く別の意味での『化け物(クズ)』であることを。