俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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#11 湖畔の街
覗き見の誘惑


 王都を出発して数日。魔物との死闘を経て、勇者一行は美しい湖のほとりに栄える街、「セレネ」へと到着した。

 

 タチバナは馬車の座席に深く寄りかかり、魂の抜けたような顔で天井を仰いでいた。

 

 

(あー…疲れた。いくら王様が用意してくれた立派な馬車とはいえ、石畳が整備されていない荒野の道では、車輪から伝わる振動が容赦なく腰骨を削ってくる。人間の肉体は、長時間揺られ続けるようには設計されていないのだ。もう一歩も歩きたくない。早く宿屋でごろごろしたい…)

 

 

 彼にとって、旅というものは究極の肉体的苦痛でしかなかった。魔王討伐という大義名分などとうの昔に記憶の彼方へ放り投げ、ただひたすらに安らぎと休息のみを渇望していた。

 

 一行が投宿を決めたのは、湖畔に面した「水鏡の宿」という風情ある宿屋であった。玄関をくぐると、人の良さそうな白髭の老主人が、深く腰を折って一行を出迎えた。

 

 

「ようこそ、勇者様一行。お待ちしておりましたぞ。長旅でさぞお疲れでしょう。まずは当館自慢の食事と寝床で、ゆっくりとお休みくだされ」

 

 

 その温かいもてなしの言葉に、タチバナが「(ああ、すぐ寝る。泥のように寝てやる)」と内心で答えていたその時だった。

 

 

「ねえ、おじいさん!」

 

 

 赤毛の魔法使いメグが、好奇心に満ちた瞳を輝かせて老主人に尋ねた。

 

 

「この街の湖って、入るとお肌がすべすべになるって本当!?」

「いかにも。この街の湖は『月の女神の涙』と呼ばれておりましてな。その聖なる水で身を清めれば、どんなご婦人も、生まれたてのような玉の肌になると言われておりますぞ」

 

 

 その言葉が鼓膜を震わせた瞬間。タチバナのぐったりと座り込んでいた身体が、まるで雷に打たれたかのように弾かれた。

 

 

(なんだと…? 玉の肌…?)

 

 

 彼の脳内で、ファンファーレのような勝利の鐘が高らかに鳴り響いた。

 

 

(間違いない…! 奴らは、絶対に入る…! 気高き騎士のアリシアも、元気なメグも、聖母のようなセシリアも、女である以上、「肌が美しくなる」という魔力的な誘惑には絶対に抗えないはずだ! 日々の野営で汗や埃を気にしていた彼女たちが、この絶好の機会を見逃すわけがない!)

 

 

 タチバナの思考回路は極めて論理的に乙女たちの行動心理を予測し、一つの確固たる結論を導き出していた。

 

 

(これは…神が、過酷な旅を強いられた俺に与えたもうた、極上のご褒美に違いない!)

 

 

『実に浅はかで貴方らしい思考ですね。生存の危機が過ぎ去った途端、即座に己の欲望を満たすための算段に切り替わる。その動物的なまでの欲望への忠実さには、ある意味で感心すら覚えます』

 

 

 宿屋の二階、最も景色の良い特別室にチェックインするや否や、タチバナは早速、完璧な作戦の実行に移った。

 

 彼はヒロインたちが自分の荷物を解き、部屋の準備をしている最中に、あえて厳しい顔つきを作り、重々しい声で告げた。

 

 

「俺は、自室でこれからの戦略を練る。次の四天王は、これまでの奴らとは次元が違うかもしれんからな。極限まで集中したい。悪いが、誰も部屋には入るな。いいな?」

 

 

 その言葉に、ヒロインたちの表情がパッと引き締まった。

 

 

「はい、タチバナ様! 私たちは外で周囲の警戒にあたります!」

「分かったよ、勇者様! 無理しすぎないでね!」

「ごゆっくり、お考えくださいませ。私たちはいつでもお呼びをお待ちしておりますから」

 

 

(よし、完璧だ! 誰も俺の言葉を疑っていない! これで、俺が部屋にいないことがバレる心配は完全に消滅した!)

 

 

 タチバナが自室に戻り、扉の鍵を閉めて満足げにほくそ笑んでいると、彼の目の前にすっとフィリアの姿が顕現した。

 

 

『完璧、ですか。私の観測演算に照らし合わせれば、実に欠陥だらけの無様な計画に聞こえましたが』

(なっ!? どこに欠陥があるって言うんだ! 奴らは俺の言葉を百パーセント信じたぞ!)

 

 

 タチバナが内心で噛みつくと、フィリアは紫水晶の瞳を細め、理路整然と事実を突きつけ始めた。

 

 

『第一に、貴方はつい先ほどまで、馬車の中で「もう何も考えたくない」「休ませろ」と幼児のように駄々をこねていました。その人物が、宿に到着した途端、急に真面目な顔で戦略を練り始めると宣言すること自体、前後の文脈からして不自然極まりない。第二に、貴方のこれまでの行動記録からして、密室に籠もって高度な思考を行えるほどの知的耐久力が存在しません。そして何より…』

(う、うるさい! あいつらは俺に心酔してるんだ。恋は盲目と言うだろうが! 細かい矛盾になんて気づくはずがないんだよ!)

 

 

 タチバナが強弁を張ると、フィリアは冷酷に宣告した。

 

 

『では第三の、最大の致命的な欠陥を指摘しましょう。貴方がこれから向かおうとしている湖畔の茂みは…彼女たちが割り当てられた部屋の窓から、完全に見渡せる位置にあります。貴方がいそいそと茂みに身を潜めた瞬間、その無防備で下劣な姿は、窓から湖を眺める彼女たちの視界に、完璧に観測されることになるでしょう』

(な、なんだとぉぉぉぉ!?)

 

 

 タチバナは慌てて自室の窓に駆け寄り、湖畔の地形と、ヒロインたちの部屋の位置関係を正確に目視で確認した。

 

 彼の顔面から、さーっと血の気が引いていく。フィリアの言う通りであった。彼が目星をつけていた絶好の覗き見ポイントである茂みは、ヒロインたちの部屋の窓から見下ろすのに、あまりにも都合の良い位置にあったのだ。

 

 

『いかがしますか? このまま白昼堂々、衆人環視の中で、貴方の卑劣な趣味を披露なさいますか? もし見つかれば、貴方が積み上げてきた「高潔な勇者」という薄っぺらい偶像は、音を立てて崩れ去ることになりますが』

(くそっ…! 覚えてろよ…!)

 

 

 フィリアの無慈悲な事実確認を受け、タチバナの頭脳は極限の回転を見せていた。

 

 

(昼間が駄目なら、夜だ! むしろ、夜の闇に紛れた方が隠密性は高まる。それに、太陽の下よりも、月明かりに照らされた神秘的な沐浴のほうが…ぐへへ、ずっとそそるじゃねえか!)

 

 

 タチバナは、自らの欲望を満たすための強固な理論武装を完成させた。その日の夕食の席。タチバナは、提供された美味な湖魚の料理を適当に腹に流し込むと、わざとらしく大きなあくびを繰り返した。

 

 

「ふぁぁ。すまん、今日はもう疲れた。戦略を練りすぎて頭が回らん。先に休ませてもらうよ」

 

 

 タチバナは、疲労困憊の指揮官を完璧に演じ切り、早々に自室へと引き上げた。

 

 部屋に戻るや否や、彼は手早く己の寝台を細工し始めた。毛布の下に衣服や余った枕を丸めて詰め込み、まるで人が横向きに寝ているような完璧な膨らみを作り上げる。

 

 

(これで万が一、誰かが部屋を覗きに来ても、俺が深い眠りについているようにしか見えないはずだ!)

 

 

『子供だましにも等しい偽装ですね。呼吸による微細な上下運動も、体温による熱の放射もありません。まあ、貴方の仲間たちの「勇者は正しい」という強固な思い込みという名の観察眼を考慮すれば、あるいは通用するかもしれませんが』

(黙って見てろ! 俺の執念を舐めるなよ!)

 

 

 宿屋中が寝静まり、ヒロインたちの気配も完全に落ち着いたことを確認すると、タチバナは音を立てずに部屋の窓を開け、用意しておいた縄を使って裏庭へと降り立った。

 

 その足取りは、音もなく獲物に忍び寄る熟練の盗賊のように軽やかであった。魔王軍と対峙した時には全く役に立たなかった身体能力が、己の欲望を満たすためだけに、百パーセントの出力を発揮しているのだ。

 

 フィリアに指摘された場所を遠く避け、タチバナはより慎重に地形を観察し、新たな潜伏場所を見つけ出していた。そこは、湖全体を斜めから完璧な角度で見渡すことができ、かつ背後の木々が月光を完全に遮断してくれる、極めて隠密性の高い茂みであった。

 

 

(へっへっへ…夜風は冷たいが、待った甲斐があったぜ…)

 

 

 タチバナは、湿った土の上に身を伏せ、息を殺して水面を凝視していた。やがて静寂に包まれた湖畔の小道から、微かな足音と銀の鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。

 

 

(来た…! 来た来た来たァァァァァ!)

 

 

 タチバナの心臓が、早鐘のように激しく脈打つ。

 

 月明かりに照らされた白い砂浜に、三人の女神が姿を現したのだ。彼女たちは、周囲に誰もいないことを警戒するように見回した後、互いに笑い合いながら、身に纏っていた衣服をゆっくりと脱ぎ捨てていった。

 

 

(おお…! おお…ッ!)

 

 

 タチバナは、興奮で破裂しそうになる心臓を必死で押さえつけながら、その光景を網膜の奥深くまで焼き付けた。

 

 月光の束を浴びて白く輝く、アリシアの引き締まった背筋と一切の無駄がない美しい脚のライン。湖の水面を蹴って無邪気に弾ける、メグの若々しくも豊かな起伏を持った健康的な肢体。

 

 そして、それら全てを圧倒するような、セシリアの豊満で柔らかな、純白の肌。水滴がその豊かな胸の谷間を滑り落ちる様は、この世のいかなる名画をも凌駕する絶景であった。

 

 

(まさに芸術! 神よ、俺はこの光景を見るために生まれてきたのだ! 我が人生に、一片の悔いなし!)

 

 

 タチバナの瞳からは過剰な感動のあまり、一筋の熱い涙すら零れ落ちていた。視覚から得られる情報量が彼の処理能力を超え、思考の回路が幸福な熱で溶かされていく。

 

 ヒロインたちが水面に身を沈め、楽しそうに水を掛け合って笑い合う。その光景に、タチバナの興奮は最高潮に達していた。

 

 

(ぐへへ! もっとだ…もっと無防備な姿を俺の目に焼き付けてくれ…!)

 

 

 その強烈な欲望に満ちた思考の片隅で、タチバナの動物的な本能がほんのわずかな「違和感」を感知していた。

 

 

(なんだ? やけに静かすぎやしないか?)

 

 

 タチバナは、茂みの中で眉をひそめた。先ほどまで彼の耳には夜の虫の鳴き声や、風で木々の葉が擦れ合う音が確かに聞こえていた。それが、いつの間にか完全に止んでいる。

 

 いや違う。ヒロインたちが水を掛け合って笑い合っているというのに、水が弾ける音も彼女たちの声すらも、全く聞こえなくなっていたのだ。

 

 さながら世界から「音」という概念だけが綺麗に切り取られ、消え去ってしまったかのような、不自然で恐ろしい静寂。

 

 

『ようやくお気づきになりましたか。この痴態の観測に夢中になるあまり、周囲の魔力の変異に気づくのが少々遅すぎたようですが』

 

 

 脳内に響いたフィリアの声は、いつもの冷ややかな皮肉を含んだものではなかった。

 

 

(フィリア…? どういうことだ…? なんで音が消えた?)

 

 

 タチバナが内心で焦りを込めて問いかける。

 

 

『この湖畔の一帯に、極めて強力な結界が張られました。気配を完全に遮断し音を外に漏らさず中の空間を隔離する効果を持つ、極めて高度で緻密な魔術式です。この魔力の質…間違いありません。魔王軍の、それも四天王クラスの幹部が放つものです』

 

 

(な…!? 魔王軍だと!? なんでこんなタイミングで出やがるんだよ!)

 

 

 タチバナの背筋を、一瞬にして冷たい汗が伝い落ちた。彼の視線が欲望の対象であった湖の女神たちの姿から、音の消えた不気味な静寂に包み込まれた森の奥深くへと移っていく。

 

 月明かりが、木々の隙間から一筋の光を落としていた。

 

 その光の中に、一つの人影があった。

 

 豊満な肢体を際どい衣装で包み込んだ、妖艶な女性の影。彼女は楽しげに水浴びをするヒロインたちを、茂みに潜むタチバナの存在すらも完全に見透かしているかのように、禍々しい笑みを浮かべてそこに立っていた。

 

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