俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
「ようこそ、勇者様一行。お待ちしておりましたぞ。長旅のお疲れもございましょう、まずは当館自慢の食事と寝床で、ゆっくりとお休みくだされ」
老主人の穏やかな歓迎の言葉に、王女騎士アリシアは代表して丁寧な礼を返した。
「感謝する。我々も少々疲労が溜まっていたところだ。世話になる」
魔法使いのメグが、街へ入る道すがら耳にしていた噂を確かめようと、目を輝かせて老主人に尋ねた。
「ねえ、おじいさん! あたし、街の人から聞いたんだけど…この街の湖って、入るとお肌がすべすべになるって本当!?」
その無邪気な、しかし年頃の少女としては極めて切実な質問に対し、老主人はしわくちゃの顔をほころばせて深く頷いた。
「いかにも。この街の湖は、古くから『月の女神の涙』と呼ばれておりましてな。その聖なる水には微かな魔力が溶け込んでおり、身を清めれば傷は癒え、どんなご婦人も生まれたてのような玉の肌になると言い伝えられておりますぞ。特に月明かりの夜は、その効能が高まるとか」
「お肌が、生まれたてのような玉の肌に…!」
メグの琥珀色の瞳が、期待で大きく見開かれる。
「まあ、素敵ですわ…!」
僧侶のセシリアも胸の前で手を合わせ、うっとりとしたため息を漏らした。
過酷な旅路において、女性としての身だしなみや美容を保つことは至難の業である。土埃や魔物の返り血を洗い流し、さらに「玉の肌」になれるという聖なる水。その言葉に心惹かれない女性など、この世に存在するはずがなかった。
メグは興奮を抑えきれない様子で、隣に立つアリシアの袖をぐいぐいと引いた。
「ねえ、アリシア! 今夜、みんなで行ってみない!? 絶好のチャンスだよ!」
アリシアは、はしゃぐメグに少し呆れたように息を吐いた。
「我々は観光に来たわけではないぞ、メグ。常に警戒を怠っては…」
しかし、そう嗜めるアリシア自身のサファイアの瞳の奥にも、隠しきれない好奇心と、女性としての根源的な欲求が明確に滲み出ていた。王宮での徹底した肌の手入れから遠ざかっている彼女にとっても、その誘惑はあまりにも強力だったのだ。
「…まあ、仕方ないな。これも英気を養い、明日の戦いに備えるための儀式。旅の疲れを癒すのも、重要な任務のうちだからな」
アリシアが、自身を納得させるような生真面目な理屈をつけて頷いた、その時だった。それまで馬車の座席でぐったりと萎れ、疲労困憊の様子を見せていた勇者タチバナが、むくりと勢いよく上半身を起こしたのだ。
彼の瞳が、一瞬だけ、何かに飢えた獣のように爛々と輝いたのを、三人の乙女たちは誰一人として見逃さなかった。
(タチバナ様もやはり、この湖の伝説に興味がおありなのかしら…?)
アリシアは、わずかに自身の胸の鼓動が速くなるのを感じた。常に世界を憂う高潔な英雄であっても、美しいものに対する探求心はあるのだ。もし自分たちがその聖なる水で磨かれた姿を見せれば、あの方の疲れた心を少しでも癒すことができるのではないか。
三人の間に言葉には出さないが、確かな共通の「期待」が芽生えた瞬間であった。
宿屋の中に通され、それぞれの部屋割りが決まるや否や、タチバナの態度は先ほどまでの疲労感を微塵も感じさせない、極めて真剣で張り詰めたものへと一変した。
彼は荷解きをしようとする三人を呼び止め、眉間に深い皺を寄せて告げた。
「俺はこれから、部屋にこもって今後の戦略を練る。次の四天王は、これまでの奴らとは違うかもしれん。極限の集中を要するから、誰も俺の部屋には入るな。いいな?」
そのあまりにも重々しく孤高を感じさせる言葉に、三人の少女たちは顔を見合わせた。
メグが、感心したように小さく呟いた。
「すごい集中力…あたしたちが湖のお肌がすべすべになる話ではしゃいでる間に、勇者様はもう、次の恐ろしい戦いのことを考えてるんだ……」
自分の浮かれ具合が少し恥ずかしくなり、メグは身を縮こませた。セシリアも、深く、痛ましげに頷いた。
「タチバナ様は常に私たちの先、世界の未来を見ていらっしゃるのですね。ご自身のお疲れも顧みず、私たちの命を守るために…私たちも、浮かれていては駄目ですわ」
彼女の胸に、またしてもタチバナへのとめどない尊敬と慈愛が溢れ出す。アリシアは、彼の言葉を背筋を伸ばして受け止め、騎士として身が引き締まる思いだった。
(そうだ。我々は、決してこの美しい街へ休息に来たわけではない。タチバナ様が、こうして一人で重圧と向き合い、孤独な思考の海に潜っておられる間。我々も、心身ともに万全の状態を整えなければならない)
「承知いたしました、タチバナ様。どうかご無理をなさいませぬよう。我らは外で待機しております」
アリシアが代表して深く頭を下げると、タチバナは無言のまま一つ頷き、重厚な扉の奥へと消えていった。
夕食の席。
食堂に姿を現したタチバナは、ひどく疲労困憊した様子で、スープを二口ほど飲んだだけで早々に席を立ってしまった。
「すまん。今日はもう限界だ。先に休ませてもらう」
その背中は、見ているこちらが辛くなるほど重く、沈み込んでいるように見えた。
(…あれほど極限まで集中して、先の見えない戦いの策を練っておられたのだから。お疲れになるのも、無理はない)
アリシアは、残された食事を見つめながら、彼の背中を心配そうに見送った。自分たちが手伝えることはない。せめて、彼が安らかな眠りにつけるよう、今夜は宿屋の警備に万全を期すことだけが、今の自分にできる務めだ。
真夜中。街の明かりも消え、完全な静寂が訪れた頃。アリシア、メグ、セシリアの三人は、事前に打ち合わせていた通り、音を立てないようにそっと部屋を抜け出した。
廊下を進み、タチバナの部屋の前を通りかかった時。メグが、いたずらっぽく笑って人差し指を口に当て、そっとタチバナの部屋の分厚い木製の扉に耳を押し当てた。
「うん。静かな寝息が聞こえる。ぐっすり眠ってるみたい」
メグの小声での報告に、アリシアとセシリアは顔を見合わせ、心からの安堵の息を撫でおろした。過酷な運命を背負う英雄に、束の間の安らぎが訪れている。
(どうか、悪夢など見ず、穏やかな朝をお迎えくださいませ…)
セシリアが扉に向かって小さく祈りを捧げる。
英雄の安眠を乱さぬよう三人はさらに足音を殺し、月明かりの差し込む森へと抜け出した。月の女神が涙を流したという伝説の湖へと、期待とほんの少しの乙女の秘密めいた高揚感に胸を膨らませて向かうのだった。
森を抜け、視界が開けた先に広がっていたのは、言葉を失うほどの絶景だった。雲一つない夜空に浮かぶ満月の光が波一つない湖面に反射し、周囲一帯を青白く、幻想的なまでに美しく照らし出している。
「わぁ…! すごい、本当にキラキラ光ってる!」
「ええ…まさに、女神の涙という名にふさわしい神秘的な光景ですわ」
メグとセシリアが、子供のようにはしゃぎながら湖畔の浅瀬へと駆け寄る。アリシアもまたその美しさに息を呑みながら、周囲の森に魔物の気配がないことを素早く確認すると、自身の剣を岸辺の大岩に立てかけた。
三人は、互いに少しだけ恥じらいながらも、纏っていた衣服を脱ぎ捨てていく。月光の下に鍛え抜かれた騎士のしなやかな肢体、若々しく弾けるような魔法使いの曲線。そして、全てを包み込むような圧倒的な豊満さを持つ僧侶の柔肌が晒された。
「きゃっ、少し冷たい!」
「でも慣れると、とても気持ちいいですわ…本当に、水の中に微かな魔力が溶け込んでいるのが分かります」
水面に、三人の楽しそうな声と、微かな水しぶきの音が響く。冷たい水が火照った身体を冷やし、同時に聖なる魔力が肌の表面の細かな傷や疲労を優しく修復していくのを感じる。
メグは両手で水をすくい上げ、自分の肩や腕にパシャパシャとかけながら、得意げに笑った。
「これで、あたしのお肌もつるつるのピカピカだ! 明日の朝、勇者様も絶対に見惚れちゃうよね! 『メグ、なんだか今日すっごく綺麗だね』なんて言われちゃったりして!」
あまりにも直接的で挑発的な言葉に、少し離れた場所で肩まで水に浸かっていたアリシアがぴくりと反応して水面を揺らした。
「メグ。あまり、はしたないことを言うものではない。タチバナ様は、そのような表面的な肌の美しさや色香だけで、心を動かされるような次元の低いお方ではないぞ。あの方は、もっと魂の奥底の気高さを重んじておられるはずだ」
アリシアは、騎士としての生真面目な理屈でメグを嗜めた。しかし、その声には、明らかに「先を越されまい」という強い牽制の色が混じっていた。
「えー、でも、男の人なんだから、綺麗な方がいいに決まってるじゃん! アリシアだって、本当はそう思ってるから、こんな夜中に一緒に水浴びに来たくせにー! 素直じゃないなぁ」
「そ、そんなことはない! 私はただ、任務への活力を養うためにだな…!」
図星を突かれたアリシアが、顔を赤くして反論する。セシリアは二人の微笑ましくも熱を帯びたやり取りを、少しだけ離れた場所から羨ましい気持ちで見ていた。
(お二人とも、ご自分の魅力に自信を持っておられて…本当に、タチバナ様のことがお好きなのですね…)
セシリアはそっと自分の豊かな胸元の肌を、水中で優しく撫でた。純白の肌に、月の光が溶け込んでいくように滑らかだ。
(このお肌が、もっと綺麗になって…私がもっと、あの方の助けになれるような強い女性になれたら…あの御方は私だけを特別に見てくださるでしょうか……?)
先日、下着姿で彼に抱きついてしまった朝の記憶が蘇り、セシリアは首まで水に沈んで顔の熱を冷まそうとした。そんな大胆なことを考えてしまった自分に、激しい羞恥を覚える。
静寂な月明かりの下、水面下では、三人の乙女たちの、タチバナという一人の英雄への想いが、決して譲れない静かな火花となって、熱く交錯していた。
女子トークに花を咲かせ、互いの素肌を磨き合いながら、和やかな時間が過ぎていった。旅の疲労は完全に抜け落ち、心身ともに最高のリフレッシュを果たしたと誰もが感じていた、その時だった。
最初に、その決定的な異変に気づいたのは、最も五感が鋭く、戦場での経験が豊富なアリシアだった。
「…待て」
彼女の、先ほどまでの穏やかさとは全く違う、氷のように冷たく鋭い声が、水面を滑った。
その声の緊迫感に、メグとセシリアの動きもピタリと止まる。
「どうしたの、アリシア? 何か見えたの?」
「…静かすぎる」
アリシアの言葉に、二人も改めて周囲の森へと耳を澄ませた。確かに先ほどまで絶え間なく聞こえていた夜の虫の鳴き声や、風で木々の葉が擦れる音が、いつの間にか完全に消え失せているのだ。
「完全に外界から遮断されてる。これじゃ、私たちがここでどれだけ大きな魔法を撃っても、宿屋には音一つ届かない…!」
「そんな…! タチバナ様に、この危険を知らせなければ…!」
セシリアが血の気の引いた顔で、宿屋のある方角の森を振り返る。あの方が、一人で無防備に休まれている時に、このような異常事態が起きるなど。
しかし、アリシアはザバァッと水音を立てて岸辺へと向かいながら、極めて冷静にそれを制した。
「間に合わん。この規模の結界は我々をここに閉じ込め、確実に仕留めるための狩りの檻だ。敵はすぐそこにいる」
三人は躊躇することなく水から上がると驚くべき速さで、岩場に置いていた自分たちの衣服と装備へと手を伸ばした。
濡れた身体を拭く暇などない。アリシアは白銀の剣を抜き放ち、メグは魔石の杖を構え、セシリアは即座に防御の祈りを紡ぎ始める。コンマ数秒で、完璧な迎撃陣形が完成した。
彼女たちの鋭い視線の先。不気味な静寂に包まれた森の奥の暗闇から、一つの人影が月明かりの差し込む湖畔へと、ゆっくりと姿を現した。
それは、豊満な身体の線を強調した妖艶な衣服を纏う、長身の女性であった。彼女の顔には、恐怖に怯える獲物を見つけた捕食者のような、禍々しく、そして底知れぬ狂気を孕んだ笑みが浮かんでいた。
絶対的な庇護者であり、指揮官である勇者タチバナがいないこの閉鎖された空間で。三人の女神は、今自らの力と連携だけを頼りに魔王軍が放った新たなる致死の脅威と、正面から対峙しなければならなかった。