俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

33 / 35
観測される勘違いの連鎖

 物質界とは次元を異にする精霊の知覚領域において、フィリアは己の主である勇者タチバナの脳髄で展開されている、極めて低俗な思考の演算プロセスを正確に傍受していた。

 

 過酷な野営生活を抜け、一行が湖畔の美しい街「セレネ」に到着した直後のことである。

 

 宿屋「水鏡の宿」の玄関口で、人の良さそうな老主人が『この街の湖は、身を清めれば生まれたてのような玉の肌になる聖なる水だ』と語った瞬間。

 

 それまで長旅の疲労から馬車の座席で半死半生の状態であったタチバナの精神波長が、突如として爆発的な活性化を見せたのだ。

 

 

(思考パターンをスキャン中。キーワード『肌がすべすべになる』から、中間論理を完全にすっ飛ばし、即座に『同行する女性陣の裸体を鑑賞する絶好の機会が到来した』という結論へと直結。さらに、『神が俺に与え給うたご褒美』という極めて身勝手な自己正当化のフェーズへ移行)

 

 

 フィリアは半透明の霊体の姿のまま、嘆息を漏らした。

 

 

(何という単純明快、かつ本能に直結した精神構造でしょうか。彼の脳細胞の結合は、世界を救うための戦術ではなく、己の生殖本能を満たす視覚的快楽を得るためだけに最適化されているようです)

 

 

 フィリアの観測は、タチバナ一人に留まらない。彼女の高次元の視覚は、タチバナのその「欲望の光を宿して爛々と輝く瞳」を見た、三人の少女たちの微細な反応をも捉えていた。

 

 

(観測対象A:王女騎士アリシア。タチバナの視線を受け、心拍数が平常時より五パーセント上昇。瞳孔がわずかに拡大。…彼女は、タチバナのその獣のような視線を、『私たちが湖で美しくなることに対する、殿方としての純粋な興味と関心』であると誤認しているようですね。哀れなほどに、純真無垢です)

 

 

 対象の真意が「覗き見による性的欲求の充足」であるという身も蓋もない真実など、彼女たちの高尚な思考回路には微塵も存在しない。フィリアはこの滑稽な喜劇の幕が、またしても「完璧な勘違い」という舞台装置の上に降ろされたことを確認した。

 

 宿屋の一室にあてがわれるや否や、タチバナによる、あまりにも稚拙で底の浅いアリバイ工作が開始された。

 

 

『俺は部屋で戦略を練る。次の四天王はこれまでの奴らとは違うかもしれん。集中したいから、誰も部屋には入るな』

 

 

 威厳を装い、眉間に皺を寄せたその発言を、フィリアは絶対零度の視線で観測していた。

 

 

(魔法使いメグは、『すごい集中力』と感嘆の声を漏らす。僧侶セシリアは、『常に私たちの先を見ていらっしゃる』と両手を組んで心酔する。王女アリシアは、『我々が浮かれている間、お一人で重圧と向き合っておられる』と自己の使命感を再確認する。…素晴らしい。三者三様の芸術的なまでの完璧な誤解の完成です)

 

 

 フィリアの論理演算回路が、この事象の異常性を解析する。タチバナは、ただ己の欲望を満たすための時間と空間を確保するために、一言、ありきたりな嘘をついただけだ。それに対する物理的な証拠は何一つ提示していない。

 

 それにもかかわらず、少女たちは自らの内にある「勇者タチバナは高潔で偉大な英雄である」という強固な前提条件を適用し、彼の言葉を最上級の美徳へと自動変換してしまったのである。

 

 

(この『勘違いの共同体』は、もはや外部からの論理的な指摘では修正不可能な、一種の宗教的な信仰の領域に達していると再認識すべきですね)

 

 

 フィリアは、仮定のシミュレーションを脳内で行う。 

 

 

(もし私が今、物質界に干渉し『彼はただのスケベな怠け者であり、これから貴方たちの入浴を覗きに行こうとしているだけです』という絶対的な真実を告げたとして、果たして彼女たちは信じるでしょうか? …いえ、計算するまでもありませんね。おそらく彼女たちは、『勇者様を貶め、我々を惑わそうとする邪悪な悪霊』として真っ先に私の方を浄化、あるいは攻撃の対象とするのでしょう。実に馬鹿馬鹿しく、救いようのない話です)

 

 

 夜更け。

 

 フィリアは自室のベッドに『予備の衣服と丸めた枕』を並べ、上から毛布を被せるという、野生の猿でも騙されないであろう偽装工作を施した主の行動を、冷ややかな目で見下ろしていた。

 

 さらに彼女の聴覚センサーは、廊下を忍び足で歩く三人の少女たちが、タチバナの部屋の扉越しにその偽装工作にまんまと引っかかり、『ぐっすり眠ってるみたい』と安堵の吐息を漏らしている音声データも、完璧に受信していた。

 

 

(呆れ果てました。彼女たちの戦闘時における魔力感知や気配察知の能力は一級品ですが、日常における『タチバナという個体』に対する観察眼には、致命的な欠陥、あるいは盲点があると言わざるを得ません。呼吸音の周波数や、毛布の下の質量の不自然さにすら気づかないとは。これでは、今後の魔王軍との戦いが非常に不安ですね)

 

 

 フィリアは深い溜め息を霊体の中に押し留めると、視座を切り替えた。少女たちが湖へと向かうのと同時に、彼女は自身の意識の大部分を、宿屋の裏口から這い出し別のルートで先行して、既に湖畔の小高い丘にある茂みに潜伏している主の元へと移動させた。

 

 

(さて、主役と舞台は整いました。あとは、愚かで哀れな踊り子たちが、月の光の下でどのような茶番を演じてくれるのか、この特等席で観測させてもらうとしましょう)

 

 

 雲が切れ透き通るような満月の光が、鏡のような湖面を青白く照らし出した。三人の少女たちは周囲の森を警戒した後、その身を覆っていた衣服をゆっくりと脱ぎ捨て、聖なる湖の水へと足を踏み入れていく。

 

 その一部始終をフィリアは、茂みの中で鼻息を荒くし、興奮のあまり全身をプルプルと震わせている主のすぐ隣で、極めて冷静な温度のない視線で観測していた。

 

 

『(おお…! 芸術! まさに芸術だ! 王女の背筋! 魔法使いの太もも! そして僧侶の圧倒的な質量! 我が人生に一片の悔いなし! 魔王討伐なんて知ったことか!)』

 

 

 主の脳髄から限界を突破した歓喜の思念が、瀑布のように流れ込んでくる。彼は感動のあまり、本当に一筋の涙まで流していた。

 

 

(…動物園の檻の中で発情する霊長類の方が、まだ知性と品格を備えているように見えますね)

 

 

 フィリアは、主のその無様で卑小な姿を一瞥し、これ以上の観測は精神的摩耗を招くと判断して、再び視線を湖の少女たちへと戻した。湖面では、冷たい水に身体を浸した少女たちによる、他愛のない、しかし極めて高度な心理的牽制を交えた女子トークが開始されていた。

 

 

『これでお肌もつるつるだ! 勇者様も、きっと見惚れちゃうよね!』

(観測対象B・メグの発言。自己の身体的魅力の向上を誇示し、タチバナの関心を自身に向けさせることで、他の二人に対して優位に立とうとする、極めて直接的で短絡的な牽制行動ですね)

 

『メグ。タチバナ様は、そのような表面的な美しさで心を動かされるような次元の低いお方ではないぞ』

(観測対象A・アリシアの発言。相手の価値観を『表面的なもの』と否定し、『タチバナ様の高潔な魂を真に理解しているのは私である』と主張する、騎士の理屈を用いた間接的かつ優位性の主張です)

 

『(このお肌がもっと綺麗になったら…あの御方は、私だけを見てくださるでしょうか…?)』

(観測対象C・セシリアの内心。二人の直接的な争いに加わることなく、自身の美貌の向上とタチバナの独占という願望を内面で強化する、極めて受動的でありながら、ある意味で最も厄介な執着の形です)

 

 

 フィリアはこの月光の下で繰り広げられる、美しくも低レベルな縄張り争いを昆虫学者が蟻の生態を観察するような、一切の感情を排した目で見ていた。

 

 

(実に、興味深いサンプルケースです。彼女たちの思考のベクトルは、すべて『タチバナ』というただ一つの特異点に向かって収束している。もし彼女たちが、その神聖視している相手が、今まさにこの茂みの中から、涎を垂らしんばかりのいやらしい目つきで自分たちの裸体を嘗め回すように眺めているという『真実』を知れば、果たして彼女たちの精神構造はどのような反応を示すのでしょうか)

 

 

 フィリアの論理回路が、一つの残酷な予測を弾き出す。

 

 

(おそらく一時的な混乱は生じるでしょうが、最終的には『タチバナ様は私たちの健康状態を気遣い、陰から護衛してくださっていたのだ』と、より一層、彼に都合の良い強固な勘違いへと論理をすり替えるだけでしょうね)

 

 

 賢い者ほど、自らが信じ込んだ虚像の崩壊を恐れる。

 

 

(哀れな娘たち。その純粋な恋心と高潔な忠誠心が、このような底なしの汚物に向けられているとは…悲劇以外の何物でもありませんね)

 

 

 水浴びと牽制の言葉の応酬を楽しんでいた少女たちであったが、やがてその動きがピタリと止まった。

 

 一番に異変を察知したのは、騎士であるアリシアだった。彼女の鋭い視線が、周囲の暗闇を射抜く。それに呼応するようにメグが魔力の探知を行い、セシリアが祈りの姿勢で身を固める。

 

 

(…ほう。ようやく気づきましたか)

 

 

 フィリアは、少女たちの変化を上空の視点から確認した。

 

 

(己の性欲を満たす痴態の観測に夢中で、外部の異常に気づくのが致命的に遅すぎた私の愚かな主と違い、彼女たちの戦士としての危機察知能力は、まだ最低限のラインで機能しているようですね。先ほどの『観察眼の欠如』についての評価を、少しだけ上方修正しておきましょう)

 

 

 少女たちは、瞬時に水から上がり、身を隠すこともなく、即座に武器を手に取り、背中合わせで完璧な迎撃陣形を構築した。その顔には、先ほどまでの年頃の少女らしい柔らかな表情は一切なく、幾多の死線を潜り抜けてきたプロフェッショナルな『戦士』の冷徹な顔つきが浮かんでいた。

 

 フィリアは、月明かりの下で武器を構える彼女たちの凛々しい姿を、わずかな同情の念を交えて観測する。

 

 

(迷いなく死地に向き合う、見事な覚悟と連携。彼女たちは、決してただの『勇者に侍る愛玩用の女』などではない。それぞれが一騎当千の実力を持つ、真の英雄の器です)

 

 

 フィリアの思念に、珍しく微かな嘆息が混じる。

 

 

(…まあ、その無二の忠誠と卓越した能力を捧げている対象が、万死に値するほどの愚か者であるという一点の事実を除けば、ですが。本来であれば、このような場所で、このような空っぽな男のために命を懸けるべき人材ではない。実に、世界の損失であり、宝の持ち腐れと言う他ありません)

 

 

 その時フィリアの隣の茂みの中で、ようやく事態の異常性を認識した主が、ガタガタと葉を揺らして震え始めた。

 

 

『(な…!? ま、魔王軍だと!?)』

 

 

 フィリアからの警告を受け、タチバナの顔面から急速に血の気が引き、月の光よりも青白く染まっている。

 

 

(さて、どうしますか、私の主。貴方の優秀な仲間たちは、今、貴方が不在のこの閉鎖空間で、魔王軍の幹部クラスという強大な脅威と、自分たちの命だけを頼りに対峙しようとしています)

 

 

 フィリアの視界は、音の消えた森の奥からゆっくりと姿を現した、妖艶で禍々しい魔力を持つ四天王リリスの姿と。

 

 湖畔で一歩も引かずに武器を構える三人のヒロインたちの姿。そして茂みの中で尻餅をつき、完全に役立たずの肉塊と化している主の姿を、同時に捉えていた。

 

 

(貴方はこのまま茂みの中に隠れ、恐怖に震えながら彼女たちが見殺しにされるのを、ただ指をくわえて見ているおつもりですか?)

 

 

 フィリアの演算回路はこれから始まるであろう戦いの顛末と、最終的な打開策をすでに100パーセントの確率で予測し終えていた。

 

 

(…まあ、どうせ、最終的には、私がこの男の身体の制御権を強制的に奪い、自動戦闘で介入しなければ、この状況は打開できないのでしょうが。全く、手のかかる主を持つと、精霊というシステムも無駄な魔力を消費して苦労しますね)

 

 

 その直後フィリアのすぐ隣で、主の精神から限界を突破した見苦しい絶叫の波長がほとばしった。

 

 

『(ひっ…! ひいいいいい! なんだあれ! ゴリラとは違う意味で絶対やばいやつじゃん! 無理無理無理! 隠れてるのが見つかったら、絶対に殺される! どうしようどうしようどうしよう! 助けてくれえええ!)』

 

 

 圧倒的な戦力差を前に、愛する仲間を救う算段など一ミリもせず、ただ己の生存だけを乞い願う、あまりにも情けなく、卑小なパニックぶり。

 

 フィリアは、その姿を見下ろし。

 

 これまでタチバナと契約して以来、最も大きく最も深く世界の重力を凝縮したかのような、重い重い特大の溜め息を一つだけついた。

 

 

(…はぁぁぁぁぁぁ…)

 

 

 彼女のその嘆息は、これから始まるシリアスな死闘の重圧を、一瞬にして虚無へと変えてしまうほどの、深い絶望と呆れに満ちていたのである。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。