俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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欲望は幻術を打ち破る

 音という概念そのものが剥落したかのような、不気味な静寂に包み込まれた湖畔。

 

 タチバナは茂みの中に身を潜めたまま、全身の筋肉を硬直させていた。彼の視界の先、月明かりが差し込む湖のほとりに、一人の妖艶な女が立っている。

 

 豊満な肢体を露出の多い衣服で包み込み、背中にはコウモリのような小さな翼を携えている。その女から放たれるのは、圧倒的なまでの魔力の重圧と、甘く危険な死の香りであった。

 

 

(やばいやばいやばい! なんだあの女は! 先日遭遇した巨漢の四天王と同等、いや、それ以上に禍々しい気配を纏っているじゃないか! 間違いなく魔王軍の最高幹部だ! どうしようあの三人、今完全に丸裸だぞ! むしろ無防備なところを襲われるのだから好都合か!? 違う! 俺が見つかれば絶対に殺される!)

 

 

 タチバナの脳内で極限のパニックと生存本能、下心が激しく交錯する。

 

 彼が息を殺して震えている間にも、事態は刻一刻と進行していた。妖艶な女──四天王リリスが、嗜虐的な笑みを浮かべ、細く白い指を打ち鳴らした。パチンという微かな音が、音の消えた空間に異様に響き渡る。

 

 その瞬間、湖の水面で楽しげにじゃれ合っていたアリシア、メグ、セシリアの三人の動きが彫像のようにぴたりと停止した。

 

 

 彼女たちは、それぞれが全く何もない虚空を見つめ、その顔にはめまぐるしく変わる感情が浮かび上がっていた。恍惚とし悲嘆に暮れ、あるいは驚愕に目を見開く。

 

 

(な、なんだ? あいつら、突然どうしたんだ? 毒でも盛られたのか?)

 

 

 タチバナが困惑していると、隣の空間から精霊フィリアの冷徹な思念が直接脳髄に響いた。

 

 

『幻術です。それも、精神に直接干渉する極めて高位の魔術式。対象の脳内に眠る記憶や奥底に秘められた願望を強制的に読み取り、その者にとって最も抗いがたい「理想の世界」を構築して見せる、精神支配の最上位魔術。おそらく、彼女たちは今、決して抜け出すことのできない己だけの「夢の世界」に深く囚われているのでしょう』

 

 

 フィリアの論理的な解説に、タチバナはゴクリと固唾を飲み込んだ。

 

 

(夢の世界…? 己の願望を具現化した世界だと? じゃあ、あいつらは今、どんな夢を見ているっていうんだ?)

 

 

 タチバナは茂みの隙間から目を細め、身動き一つしなくなったヒロインたちの様子を恐る恐る観察した。

 

 一番手前にいる王女騎士アリシアは、恍惚とした表情を浮かべ、虚空に向かって深く、そして恭しく頭を下げていた。その口元が、微かに「父上…」という形に動くのを、タチバナの視力は的確に捉えた。

 

 

(ああ、なるほど。あの異常な執着を持っていたクソ親父に、立派な騎士として褒め称えられている夢でも見ているのだろう。権力者の娘らしい窮屈な願望だ)

 

 

 続いて、赤毛の魔法使いメグ。彼女は目をキラキラと輝かせ、頬を紅潮させながら、何かを興奮したように早口でまくし立てている。その手は、まるで空中に巨大で複雑な魔法陣を描いているかのように、忙しく動いていた。

 

 

(こっちは、歴史から失われた古代魔法の真理でも解き明かした夢か? あるいは、己の才能を世界中から絶賛されている夢だろう。いかにも知識欲と自己顕示欲に溢れた、あの天才らしい単純な欲望だ)

 

 

 最後に、純白の肌を月光に晒す僧侶セシリア。彼女は両目からとめどなく涙を流しながら、自らの腕で誰かを優しく抱きしめるような仕草をしていた。その表情は、深い慈愛と悲哀に満ちている。

 

 

(死んだ親族か、それとも親しかった村人でも生き返った夢を見ているのか…それとも、誰かの傷を癒やして感謝されている夢か。けっ、どこまでもお涙頂戴の聖女様気取りだな)

 

 

 タチバナは、彼女たちの心の隙間を極めて現実的な思考で的確に分析し、自分だけがその弱さを俯瞰しているという優越感に浸っていた。

 

 

(ふん、どいつもこいつも、俺と違って心に隙がありすぎるから、あんな子供騙しの術に引っかかるんだよ。人間の真の欲望というものは、もっと切実で、根源的なものだ。俺のような、この世の全てを達観し、己の利益のみを追求する強靭な精神を持っていれば、あんな精神支配の術など…)

 

 

 彼が、己の俗物的な精神性を「強靭な意思」と見事にすり替え、高を括った、まさにその瞬間だった。タチバナの足元に生えていた茂みの蔓が、まるで意思を持った蛇のように蠢き、彼の足首にするりと絡みついてきた。

 

 

(なっ!? なんだこれ!? うわあああああ!?)

 

 

 タチバナが悲鳴を上げる間もなく、蔓から放たれた強烈な魔力の波動が彼の神経系に直接流れ込んだ。彼の意識は物理的な抵抗を一切許されないまま、抗いようのない甘い眠りの中へと急速に引きずり込まれていった。

 

 次にタチバナが視覚を取り戻した時、彼の目に飛び込んできたのは、圧倒的なまでの黄金の輝きであった。

 

 彼は見たこともないほど豪奢な王宮の中心、金銀財宝で埋め尽くされた巨大な玉座に深く腰掛けていた。足元には数え切れないほどの金貨が山のように積まれ、壁には最高級の美術品が飾られている。

 

 彼の左右には絶世の美貌と豊満な肢体を持つ、露出度の極めて高い衣装をまとった美女たちが無数に侍っていた。

 

 

「タチバナ様、極上の果実でございます。あーん」

「タチバナ様、もっと、私を貴方様のお傍に…」

 

 

 美女たちが甘い声を上げながら、タチバナの腕や肩にすり寄ってくる。

 

 

(は? なんだ、ここは? さっきまで森の茂みに隠れていたはずだが…ああ、なるほど、これが噂の幻術というやつか。まあ、こんな美女たちに囲まれて至れり尽くせりなら、幻でも現実でも何でもいいか! ぐへへへへ!)

 

 

 タチバナは、自らの置かれた状況が敵の罠であると理解しながらも、即座にその享楽を享受することを選んだ。彼は両手を広げ、美女たちの豊かな胸の谷間に顔をうずめようと身を乗り出した。

 

 彼の顔が柔らかな感触に触れる寸前、景色がぐにゃりと歪み、全く別の空間へと切り替わった。

 

 今度は天井が見えないほど、巨大で厳かな大神殿の祭壇の上であった。タチバナは純白の法衣を纏い、高みから眼下の広場を見下ろしている。そこには何万、何十万という民衆が平伏し、狂信的な歓声を上げていた。

 

 

「おお、我らが神、救世主タチバナ様!」

「その偉大なるお力で、愚かな我らを光の道へとお導きください!」

「勇者タチバナ様、万歳! 万歳!」

 

 

 民衆の熱狂的な崇拝の波が、タチバナを包み込む。神殿の祭壇に立つ彼の顔には、困惑と苛立ちが浮かんでいた。

 

 

(ん? 神? 救世主? いやいや、そういう高尚で面倒くさい責任を伴う役職はいいんだよ。神なんてなったら、毎日民衆の願い事を聞いてやらなきゃならないし、休む暇もないじゃないか。名誉とか権力とか、そういう形のないものは腹の足しにもならない。俺が求めているのは、もっとこう、物理的で直接的な利益と快楽なんだよ!)

 

 

 タチバナは、次々と移り変わる壮大な理想郷の光景に、次第に強い苛立ちを覚え始めていた。

 

 広大な領土を統治する王の夢。あらゆる魔物を一撃で葬る無敵の戦士の夢。歴史に名を残す大賢者の夢。

 

 どれもこれも、彼にとっては全く価値のない、押し付けがましい幻想でしかなかった。

 

 

(違う! 違うんだよ! お前は俺のことが全く分かっていない! 俺が心の底から望んでいるのは、こんな抽象的で面倒なもんじゃない!)

 

 

 タチバナの脳裏に、この幻術に引きずり込まれる直前まで、茂みの隙間から目を血走らせて凝視していたあの光景が、鮮明な色彩を伴って蘇り始めた。

 

 月明かりに照らされた、静寂の湖畔。そこで身を清める三人の女神たちの、一切の装甲を持たない完全なる無防備な裸体。水滴が滑り落ちる白磁のような肌、月光を反射する柔らかな曲線。そして、布地という障害物を完全に排除したことによって露わになった、究極の真理。

 

 

(そうだ! あれだよ! 俺が見たいのは、さっきの湖畔の覗き見の続きなんだよ! あと少しで、俺は人類の至宝とも言える光景の全貌を拝むことができたんだぞ! アリシアの、メグの、セシリアの! あの神々しいまでの裸体を、誰にも邪魔されることなく、ただひたすらに、隅々まで舐めるように鑑賞すること! それこそが今この瞬間において、俺が何よりも優先すべき唯一にして至高の望みなんだ!)

 

 

 それは富や名誉、権力といった、社会的な価値観に基づいた高尚な欲望とは次元の違うものであった。あまりにも純粋であまりにも利己的で、あまりにも低俗な純度百パーセントの「スケベ心」。

 

「ただ、あの裸が見たい」。

 

 その強烈で凝縮された執着心が、タチバナの精神の核で極大のエネルギーとして爆発した。

 

 リリスの幻術機構は、対象の精神が求める「幸福の容量」に合わせて世界を構築する。しかし、タチバナのその局所的かつ異常なまでに肥大化した局地的な欲望の質量は、幻術が許容できる情報処理の限界値を瞬時に超過した。

 

 彼が心の底からその低俗な願いを強く念じた、その瞬間。

 

 

 バリンッ!!! 

 

 

 視界を覆っていた無数の光の破片が霧散し、タチバナの意識は、冷たい土の感触と夜風の吹く現実世界へと急速に引き戻された。

 

 彼の目の前──湖畔の砂浜には、信じられないものを見るような、驚愕と恐怖に歪んだ顔でこちらを凝視している四天王リリスの姿があった。

 

 

「な、なぜ!? なぜ、私の絶対の魔術である『夢幻の牢獄』が効かないの…!?」

 

 

 リリスは、美しい顔を醜く歪ませて絶叫した。

 

 

「人間の精神の深層を読み取り、決して抜け出せない究極の幸福を与えるはずなのに…! それを力技で破壊するなんて! あなた、一体何者なの!?」

 

 

 リリスの驚愕の叫びに対し、茂みから身を起こしたタチバナは自分が今、魔法の理を根底から覆すほどの異常な事態を引き起こしたことなど、全く理解できていなかった。

 

 

(え? なんか、俺、すごいことしたのか?)

 

 

 タチバナは瞬きを繰り返したが、彼の明晰な自己中心的回路は、すぐに一つの確固たる事実を導き出した。

 

 目の前にいるこの露出度の高い悪魔の女が、自分が魂を燃やして実行していた「最高の覗き見タイム」を強制終了させ、あろうことか幻覚を見せて邪魔をした張本人なのだ、と。

 

 

(てめえのせいか! 俺の人生における最大のユートピアタイムを、よくも邪魔しやがって! あの素晴らしい光景の続きを返せ!)

 

 

 タチバナの胸の内に、世界を救う使命感でも、仲間を守る義憤でもない、己の娯楽を奪われたことに対する純粋で身勝手な「怒り」が沸点に達した。

 

 どこまでも下劣で熱量の高い怒りの波動が、腰に提げた聖剣へとダイレクトに伝播した。その感情の動きをトリガーとして、精神空間の奥底で待機していた精霊フィリアが、冷徹な判断を下した。

 

 

『対象の術式崩壊を確認。了解しました。目標、四天王リリス。これより、自動戦闘術式による排除を開始します』

 

 

 フィリアの無機質な宣告と共にタチバナの右腕が、彼の意思とは完全に切り離された状態で恐るべき速度で跳ね上がった。鞘から抜き放たれた聖剣の刀身が、夜の闇を真昼のように照らす強烈な閃光を放つ。

 

 リリスは自らの最強の幻術を力業で破られたという動揺と、目の前の男から放たれる全く予測不可能な剣気の前に、一切の反応を見せることができなかった。

 

 

「きゃあっ!?」

 

 

 タチバナの腕が振り下ろされると同時に、聖剣から放たれた極大の浄化の斬撃が、リリスの肉体を直撃した。

 

 悲鳴を上げる間もなく、リリスの身体は凄まじい衝撃波によって湖の水面を割りながら、遥か後方へと吹き飛ばされていく。そして、その斬撃の余波によって湖畔一帯を包み込み、音と気配を遮断していた魔王軍の強力な結界も、パリィンと甲高い音を立てて完全に砕け散った。

 

 結界が破壊され、幻術の魔力供給が断たれた瞬間。湖の中で彫像のように固まっていたアリシア、メグ、セシリアの三人は、深い呪縛から解き放たれ、ハッと息を吹き返した。

 

 

「はっ…!? 私は一体…」

「あれ? あたし、何してたんだっけ…?」

「夢を見ていたような…」

 

 

 正気を取り戻した三人が、混乱した頭で周囲を見回す。彼女たちの目に飛び込んできたのは静寂を取り戻した湖畔の風景と、茂みの中から悠然と姿を現した一人の青年の姿であった。

 

 白銀に輝く聖剣を手にし月光を背に受けて立つ、勇者タチバナ。そして、湖の遥か向こうで水しぶきを上げて倒れ伏す、未知の強敵の姿。

 

 アリシアの卓越した戦術眼が、現状を瞬時に解析する。

 

 

「タチバナ様…! まさか、我々が敵の術中に陥っている間、たった一人で結界を破り、あの魔族を撃退してくださったのですか!?」

「勇者様! いつからそこに…!?」

 

 

 メグが、裸体であることを忘れて驚きの声を上げる。

 

 三人の絶対的な尊敬と驚嘆、そして熱を帯びた視線が一斉にタチバナに突き刺さる。

 

 タチバナは自分が幻術を破った理由が「お前たちの裸の続きが見たかったから」であることなどおくびにも出さず、心臓の早鐘を必死に隠しながら、とりあえず勇者らしく振る舞うことにした。

 

 彼は聖剣の刀身についた見えない汚れを払うように、手首を返してクールに剣を振り下ろした。三人の視線を真正面から受け止め、悟りを開いたような声音でこう呟いた。

 

 

「…ふん。その程度の安易な幻など、強固な信念を持つ俺の精神には、一切通用せん」

 

 

 その見え透いた虚勢と完璧な芝居は、夜風に乗って彼女たちの耳に届き、またしても「己の精神を完全に律する、深遠なる英雄」という、強固で美しい勘違いの伝説を確固たるものへと昇華させるのであった。

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