俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
音の消え失せた不気味な静寂の中。月明かりが照らし出す湖畔の暗がりから、一つの人影がゆっくりと足音すら立てずに姿を現した。
「何者だ!」
王女騎士アリシアは、水浴びで濡れた身体の冷たさも忘れ、弾かれたように岩場に置かれた愛剣を手に取り、鋭い声で問い詰めた。
隣では、魔法使いメグが即座に魔石の杖を構え、僧侶セシリアが防御の祈りを紡ぎ始めている。三人の少女たちは、眼前に現れた侵入者から放たれる、空気を粘つかせるような禍々しくも濃密な魔力の波動を肌で感じ取っていた。
(このプレッシャー。先日王都近郊で遭遇した『剛拳のブライアン』に匹敵するか、あるいはそれ以上…間違いなく、魔王軍の幹部クラスだ!)
アリシアは、極度の緊張に奥歯を噛み締めた。現れたのは、豊満な身体の線を強調した妖艶な衣服を纏う長身の女であった。
女は殺気を剥き出しにして警戒する三人の少女たちを見て、血のように赤い唇を歪め、くすくすと妖しく底知れぬ狂気を孕んだ笑い声をこぼした。
「あら、怖い顔。そんなに警戒しないでちょうだい。私はリリス。“幻惑”のリリスよ」
リリスと名乗った女は、まるで自分の庭を散歩するかのような優雅な仕草で、一歩、また一歩と湖畔へと近づいてくる。
「あなたたちのような可愛い子たちが、こんな夜更けに水浴びなんてしているから…少し、遊びに来ただけだわ」
その言葉と同時に。リリスが、長く艶やかな指先を交差させ、ぱちん、と小さく鳴らした。
その微かな音が空気を震わせた瞬間。アリシア、メグ、セシリアの三人の意識は、まるで底なしの甘い蜜の海へと、唐突に突き落とされたかのような、強烈で抗いがたい感覚に包まれた。
(まずい! 精神攻撃…!)
アリシアの優れた騎士としての直感が警報を鳴らし、咄嗟に魔力抵抗の障壁を張ろうと試みた。
だが遅かった。
リリスの放った魔術は物理的な破壊力ではなく、対象の脳髄に直接干渉し、認識そのものを書き換える最高位の幻惑魔法であった。抵抗を試みる理性すらも、甘い麻痺感によって瞬時に溶かされていく。
「さあ、お眠りなさい。あなたたちに、この世で最高に幸せな夢を見せてあげる」
視界が急速に白く染まり、感覚が遠のいていく中で。リリスの耳元で直接囁くような甘い声が、彼女たちの現実世界における最後の記憶となった。
三人の少女たちの意識は、完全にリリスの『夢幻の牢獄』へと囚われていた。
それは単なる幻覚ではない。対象の精神の深層、記憶の最下層にアクセスし、その者が最も渇望し、最も執着している「幸福の形」を完璧に偽造して体験させる、極めて悪質で脱出困難な精神の檻であった。
アリシアの意識は見慣れた、現実よりも遥かに光り輝く場所にあった。
王城の荘厳な謁見の間。
彼女は白銀の鎧を身に纏い、深々と片膝をついていた。そして彼女の目の前には玉座から立ち上がり、これまでの人生で一度も見たことがないほど、温かく誇らしげな笑みを浮かべている厳格な父王リチャードの姿があった。
『よくやった、アリシア』
父の声が、高く広い天井に響き渡る。その声には日頃の冷徹な為政者としての響きは欠片もなく、ただ一人の父親としての純粋な愛情だけが込められていた。
『お前は、我がローゼンバーグ家の、最高の誇りだ。過酷な鍛錬に耐え、見事に国を護る剣となった。騎士としても、そして私の愛する娘としても…お前は完璧だ。私は、お前を心から誇りに思う』
(ああ…)
アリシアの瞳から、大粒の熱い涙が止めどなく溢れ出した。ずっと、ずっと聞きたかった言葉だ。
男として生まれなかった己を恥じ、誰よりも厳しく自身を律し、血を吐くような努力を重ねてきた。すべては王である父に娘として、騎士として認めてもらうため。
その生涯を懸けた渇望が、今、完全に満たされたのだ。
「父上…! 私は…! 私は…!」
アリシアの心は、これまでの人生の全ての苦労が報われたような、至福の喜びに包まれ、その甘美な夢の底へと、抗うことなく深く沈んでいった。
一方、メグの意識は、全く異なる光景の中にあった。そこは、古代の石造りの遺跡の最深部。見渡す限りの壁面を、床から天井まで、おびただしい数の古びた魔導書と文献が埋め尽くしている、巨大で神秘的な大図書館であった。
「すごい…すごいよ! こんな魔法理論があったなんて! これ、失われたはずの『神代の炎』の術式構成じゃない!」
メグは宙に浮かぶ無数の魔導書に囲まれながら、目をキラキラと輝かせ、興奮に震える声で叫んでいた。
彼女の天才的な頭脳の中に誰も知らない、誰も使えない、歴史から完全に抹消されたはずの超古代魔法の知識の奔流が、直接流れ込んでくる。
(これさえあれば、あたしは世界で一番の歴史上、最強の魔法使いになれる! 全ての魔術の理が、今あたしの手の中にあるんだ!)
尽きることのない知的好奇心の充足と、全てを支配できるという全能感が、彼女の心をかつてないほど高揚させていた。メグは巨大な魔法陣を指揮するように空を切りながら、知の海という名の夢に溺れていった。
そして、セシリアの意識が降り立ったのは、華やかな王城でも神秘の遺跡でもなかった。
それは彼女が幼い頃に暮らしていた、辺境の小さな村にある、質素だが温もりに満ちた木造の教会であった。
教会の扉が開く。そこに流行り病でずっと昔に亡くなったはずの両親が、当時と全く変わらない優しい笑顔で立っていた。
『大きくなったな、セシリア。立派な僧侶になって…お前のその優しい心は、私たちの誇りだよ』
『辛いこともあったでしょう。よく頑張ったわね、セシリア』
「お父様、お母様! 会いたかった! ずっと会いたかった…!」
セシリアは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら駆け寄り、二人の温かい胸の中に力いっぱい飛び込んだ。背中を優しく撫でてくれる、懐かしい大きな手。もう二度と会えない、二度と触れられないと思っていた、かけがえのない家族のぬくもり。
セシリアの心は、長年抱え続けていた孤独と喪失感が嘘のように消え去り、失われたはずの絶対的な無償の愛で、完全に満たされていた。
三人の少女たちは、リリスが構築した完璧な『理想郷』の中で、自らの最も深い願いを満たし、永遠に続くかと思われる甘美な幸福に酔いしれていた。
この幻術の恐ろしいところは、対象が「これが夢である」と自覚できたとしても、自らの意志で夢から覚めることを拒絶してしまうほどの、圧倒的な精神的充足感を与える点にある。
アリシアは父の称賛に。
メグは究極の知識に。
セシリアは家族の愛に。
彼女たちの魂は、現実世界における戦いの重圧や恐怖を完全に忘れ去り、この甘い檻の中で永遠の眠りにつくことを受け入れようとしていた。
その時だった。
バリンッ!!!
突如として彼女たちの脳内を満たしていた、光り輝く完璧な幸福の世界が。まるで硬い石を投げつけられた巨大なガラス細工のように、耳を劈く凄まじい轟音を立てて、粉々に砕け散ったのである。
「「「きゃっ!?」」」
世界がひび割れ崩壊していく強烈な目眩と共に、三人の意識は極寒の湖畔という「現実」へと強制的に引き戻された。
「はっ!?」
アリシアが、肩で大きく息をしながら目を見開く。視界に映るのは父の笑顔ではなく、冷たい月明かりに照らされた夜の森。そして、自分たちが水浴びの途中で無防備に立ち尽くしているという事実。
(私としたことが…! 敵の術に、完全に思考を支配されていたというのか…!)
アリシアは失態に血の気を引かせながら、即座に手近にあった剣を握り直し、敵の姿を探した。メグとセシリアも同様に夢から覚めた混乱に顔を青ざめさせながら、慌てて体勢を立て直そうとしている。
彼女たちの視線が前方を捉えた時、そこにはさらに信じられない光景が広がっていた。
「な、なぜ、私の『夢幻の牢獄』が…!」
先ほどまで、絶対的な余裕と妖艶な笑みを浮かべていた四天王リリスが。顔を醜く歪め、信じられないという驚愕の表情を浮かべたまま、強烈な物理的衝撃を受けたかのように、大きく後方へと吹き飛ばされていくところだったのだ。
そして、その吹き飛んでいくリリスがいた場所と、自分たちとの間の空間。静寂に包まれた湖畔の岸辺に。
一人の男が立っていた。
月明かりを背に受け、夜風に純白の衣服をはためかせながら。手にした白銀の聖剣を、自然な動作で構えている、勇者タチバナの姿があった。
「タチバナ様…!?」
「勇者様!」
「いつの間に…!?」
アリシア、メグ、セシリアの三人は、我が目を疑った。何が起きたのか、彼女たちの優秀な頭脳をもってしても、瞬時には全く理解ができなかった。
(…我々は、あの四天王の放った、抵抗すら許されない強力な精神魔法に、なすすべもなく囚われていた…それなのに、タチバナ様はいつの間にこの場に現れ、あの敵をたった一撃で…)
アリシアの論理的思考回路が、眼前の事象を高速でつなぎ合わせ、一つの驚愕すべき結論へと到達する。
(まさかタチバナ様は、あの四天王の広範囲に及ぶ強力な幻術結界に巻き込まれながらも、ご自身の『精神力』のみでその幻惑を完全に打ち破り! そして、夢に溺れ、無防備となっていた我々を救うために、一瞬の隙を突いて敵の懐に潜り込み、あの一撃を放たれたというのか…!?)
アリシアの背筋を恐怖とは違う、圧倒的な畏敬の念による戦慄が駆け抜けた。
幻術とは、対象の心にある「最も強い欲望」や「弱さ」を糧とする魔術である。それを自力で打ち破るということは、すなわち己の心にいかなる隙も、甘えも、迷いも存在しないという、神仏の如き絶対的な精神の強靭さを持っていることの証明に他ならない。
タチバナは、聖剣の一撃によって湖畔の奥深く、森の闇の中へと吹き飛ばされ、逃走していったリリスの気配が完全に消えたことを確認したようだった。彼は何事もなかったかのように、極めてクールな動作で聖剣を振り払い、刃に残った魔力を大気に溶かすような残心を見せた。
そして、呆然と立ち尽くす三人をゆっくりと振り返りる。月光に照らされた、陰りのある端正な顔立ちで絶対的な自信に満ちた声で、こう呟いた。
「ふん。その程度の幻、俺の精神には通用せん」
その低く落ち着いた一言は自らの心の弱さに付け込まれ、甘い夢に囚われていた三人の少女たちの心に強烈な響きを持って突き刺さった。
(すごい…! すごいすごい! どんなに強力な精神魔法も効かないなんて、勇者様の精神構造って、一体どうなってるの!? 全ての魔法使いの天敵じゃない! かっこよすぎる…!)
メグは、興奮で琥珀色の瞳を星のように輝かせ、両手で自分の頬を包み込んだ。
彼女の放つ魔法の力など及びもつかない、揺るぎない精神の壁。その圧倒的なスケールの違いに、彼女は魔法使いとしての敗北感よりも、一人の乙女としての強烈な憧憬を感じていた。
(ああ…タチバナ様…。あの方の心は波一つ立たない、一点の曇りもない静かな湖面のようです。どんな甘い誘惑も過去の悲しみも、あの方の崇高な魂を縛ることはできないのですね…それに比べて、私は…)
セシリアはうっとりとした、しかしどこか恥じ入るような熱を帯びた瞳で、タチバナの背中を見つめた。
己の過去への未練に囚われ、夢に縋ろうとした自分がひどく小さく、未熟に思えた。それと同時に、これほどまでに強靭で清らかな精神を持つ男性に仕えることができるという幸福感が、彼女の全身を満たしていく。
(私は、父上に認められたいという、己の些細で個人的な承認欲求に囚われ、騎士としての警戒を怠ってしまった…だが、この御方は違う。どんなに甘美な理想郷を提示されようとも、決してそれに屈することなく、現実の使命を貫き通す、鋼の精神をお持ちなのだ…!)
アリシアは己の心の弱さを深く恥じ、唇を強く噛み締めた。剣の腕だけではない。真の強さとは、己を律する心の強さなのだ。タチバナのその姿は、アリシアが理想とする『真の騎士』の体現そのものであった。
自分たちがいとも簡単に抗うことを放棄し、囚われてしまった甘美な夢。それを、ものともせずに、ただ己の意志の力のみで打ち破った、勇者の絶対的な精神力。その圧倒的な格の違い、魂の次元の違いを、三人は今、まざまざと見せつけられたのだ。
この夜、この湖畔での出来事は。彼女たちの心にタチバナへの、もはやいかなる論理や事実をもってしても揺らぐことのない絶対的な畏敬の念と、そして、より一層深く熱狂的な恋心を、永遠に消えない形として刻み付けることとなったのだった。
彼がただ単に、茂みの中から三人の裸体を鑑賞するという『至高の覗き見タイム』を幻術によって邪魔されたことに対する、極めて俗悪で個人的な怒りだけで、結果的に幻術のキャパシティをバグらせて打ち破っただけだなどとは。
三人の純真な乙女たちの誰一人として、知る由もなかったのである。