俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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幻惑のリリス

 夜の森は、静寂と冷気に包まれていた。湖畔を見下ろすことのできる小高い丘の上の木陰。月明かりすら届かないその深い闇の中に、魔王軍四天王の一角、“幻惑”のリリスは、己の気配を周囲の自然と完全に同化させて佇んでいた。

 

 紫色の長い髪が夜風に揺れる。豊満な身体の線を強調した蠱惑的な衣服に身を包んだ彼女の血のように赤い唇には、これから極上の獲物をなぶる狩人のような、妖しくも残酷な笑みが浮かんでいた。

 

 

(あらあらまあ。魔王軍の脅威が迫っているというのに、こんな無防備な場所で仲良く水浴びとは。随分と余裕でのどかなものねぇ)

 

 

 リリスの冷たい視線は、湖畔の浅瀬で楽しげに戯れている三人の少女たちと、そこから少し離れた茂みの中で息を潜めている一人の男の気配を、正確に捉えていた。

 

 彼女がわざわざ王都から離れたこの辺境の街まで足を運んだのは、決して同僚であった“剛拳”のブライアンの仇討ちなどという、安っぽく感傷的な理由からではない。

 

 あの単細胞の脳筋ゴリラが敗れたのは単に彼が弱く、愚かであったからだ。それ以上の意味はない。リリスの興味は、ただ一つの事実のみに集約されていた。

 

 

(あの力だけが取り柄のブライアンを、ただの力押しではなく、『理解不能な恐怖』と『歓喜』の中で死に至らしめたという、勇者タチバナ…一体、どれほど強靭で、どれほど気高く、そしてどれほど底知れぬ深淵を抱えた精神の持ち主なのだろうか。…ああ、想像しただけで、背筋がゾクゾクしてくるわ)

 

 

 リリスにとって、戦いとは肉体を破壊する野蛮な行為ではない。対象の精神の最も脆い部分を暴き出し甘美な幻影で包み込み、そして内側からゆっくりとぐずぐずに腐らせていくこと。

 

 強者の気高い魂が自らの欲望と絶望の狭間で壊れ、醜く歪んだ表情を浮かべていく様を特等席で鑑賞することこそが、彼女にとって至上の悦楽であり芸術であった。

 

 

(いきなりメインディッシュを味わうのは野暮というもの。まずは、お供の可愛い小鳥たちから、ゆっくりと味見させてもらいましょうか。彼女たちの心を折って絶望に染め上げれば、あそこで隠れている勇者様も、きっと私をゾクゾクさせるような、素敵な顔を見せてくれるでしょう?)

 

 

 リリスの卓越した魔力感知能力は、湖で水浴びをしている三人の少女たちの魂の波長から、それぞれの精神構造と『心の弱点』を瞬時に、そして極めて正確に読み取っていた。

 

 

(王国の騎士の娘は、父親からの抑圧と『承認欲求』。赤毛の魔導士の娘は、底なしの知的な『探求心』。純白の癒し手の娘は、過去に家族を失った深い『喪失感』…ふふっ、本当に分かりやすくて、可愛らしいこと)

 

 

 人間の心など、どれほど強がって見せようとも所詮はその程度のありふれた欲望と欠落で構成されている。リリスは一方的な遊びの始まりを告げるように優雅な仕草で右手を軽く持ち上げ、中指と親指をすり合わせて、ぱちんと小さな音を鳴らした。

 

 リリスの指先から放たれた不可視の魔力の波紋が、湖畔の空間を満たしていた自然の音を全て喰らい尽くし、不気味な静寂の結界を構築した。そして、その波紋は水面を滑るように進み、三人の少女たちの脳髄へと、極めて甘く、抗いがたい劇毒となって直接浸透していった。

 

 

『夢幻の牢獄』。

 

 

 対象の記憶の最下層にアクセスし、その者が最も渇望する『幸福の形』を完璧に偽造して体験させる、リリスの持つ精神攻撃の最上位魔術である。

 

 

(ええ、そうよ。それでいいの。抵抗なんて無駄なこと。私に身を委ねて、永遠の幸福に沈みなさい)

 

 

 リリスは三人の少女たちの意識が急速に現実から乖離し、それぞれの精神世界へと囚われていく様を、冷酷な歓喜をもって観測した。

 

 

(騎士の娘は、厳格な父親から最高の賛辞を受け、その承認欲求を満たされて涙を流している。魔導士の娘は、失われた古代の知識の海に溺れ、万能感に酔いしれている。そして癒し手の娘は、死んだはずの家族と再会し、失われた温もりにすがりついている…どう? 嬉しいでしょう?)

 

 

 リリスの赤い唇が、弧を描いて吊り上がる。対象の最も柔らかい部分を完璧に満たしてやることで、対象は自ら進んでその幻術の檻に鍵をかけ、二度と現実へ戻ろうとはしなくなる。

 

 これこそが、リリスの魔術が絶対にして不可避である所以だ。

 

 

「ふふっ、ふふふ…可愛い、可愛い子たち。もっと、もっと幸せにしてあげる。決して抜け出せない、甘い夢の底でね…」

 

 

 前菜の味付けは完璧だった。三人の精神は完全に制圧した。さあ、いよいよメインディッシュの時間だ。リリスは湖畔の少女たちから視線を外し、茂みの中に気配を殺して身を潜めている、勇者タチバナの魂へと自身の意識の照準を合わせた。

 

 

(さあ、勇者タチバナ。あのブライアンを絶望させた男。あなたには、一体どんな極上の夢を見せてあげようかしら。強靭な精神を持つあなたには、並大抵のありふれた幸福では、決して満足しないのでしょうねぇ…?)

 

 

 リリスは彼がどれほど複雑でどれほど高尚な、どれほど深く暗い欲望を抱えているのかと胸を高鳴らせながら、タチバナの精神領域へと深く深く侵入していった。

 

 タチバナの精神世界は、驚くほど抵抗がなかった。

 

 

(…警戒心が薄い? いや、これはあえて私を誘い込み、罠にかけるための高度な精神防壁なのかもしれないわね。油断は禁物よ)

 

 

 リリスは慎重に、彼が最も根源的に求めているであろう「欲望の種」を探り当てようと、様々な幻影のパターンを彼の脳内へと投影し始めた。

 

 

(まずは…人間の業の基本、『富』かしらね)

 

 

 リリスは、タチバナの意識を、視界の果てまで金銀財宝で埋め尽くされた、豪華絢爛な宮殿の玉座へと転移させた。しかし、タチバナの精神波長から返ってきた反応は極めて鈍いものであった。

 

 

『(まあ、悪くはないけど…)』

 

 

 彼が財宝を見る目には、執着や歓喜といった強い感情の揺らぎが全く存在しなかった。

 

 

(…富には興味がない、と。ならば、『権力』はどう?)

 

 

 リリスは景色を切り替え、タチバナを巨大な神殿の最上階に立たせた。眼下には何万という民衆が平伏し、彼を絶対神として崇め奉っている。これに対する反応も、期待を大きく裏切るものであった。

 

 

『(ん? 神? いや、そういう責任が伴う高尚なのはいいんだよ。もっとこう…)』

 

 

 彼の精神は権力を握ることへの重圧を嫌悪し、早々にその幻影への興味を失ってしまった。

 

 

(権力も駄目。ならば、『名誉』は? 世界を救った絶対的な英雄として、歴史にその名を永遠に刻む栄光の幻影を…)

 

 

 結果は同じだった。リリスの美しい顔に、初めて明確な「焦り」の色が浮かんだ。

 

 

(おかしいわ…この男の欲望の器は、一体どういう構造になっているの?)

 

 

 富も権力も名誉も。リリスがこれまで数多の英雄や為政者たちを堕としてきた、人間の精神を完璧に満たすはずの『幸福のテンプレート』を次々と提示しているのに。

 

 そのどれもが、タチバナの心の核心に全く届いていないのだ。底の抜けた壺に水を注ぎ続けているかのように、彼が満たされる気配がない。

 

 

(ブライアンを圧倒し、恐怖させた男だもの。きっと彼の望む世界は、私のような魔族の常識すらも超えた、もっと狂気的で、もっと深淵で、とてつもなく巨大なものに違いないわ…!)

 

 

 リリスは己のプライドにかけて、彼の精神を屈服させることを決意した。彼女は自身の魔力をさらに引き上げ、タチバナの意識の最下層、彼自身すらも気づいていないかもしれない、魂の核にあるたった一つの『至高の幸福』を見つけ出そうと、暗く深い精神の淵へと潜っていった。

 

 

(もっと、もっと深くまで…! この男が、心の底から渇望し、狂おしいほどに求めている真実の欲望を、私が暴き出してあげる…!)

 

 

 リリスの意識はタチバナの精神の最も奥深く、欲望の源泉とも言える中心核へと到達した。

 

 彼女はそこで世界を統べる神殺しの野望や、世界の真理を探求するような、常軌を逸した高尚で恐ろしい願いを目にするのだと固く信じていた。

 

 しかし、彼女がその精神の核で直面した「真実」は。

 

 

『(違う! 違うんだよ! お前は男ってものを全然分かってない!)』

 

 

 タチバナの魂の底からの、力強い叫びが響き渡った。

 

 

『(金だの神様だの、そんな面倒くさいもんはどうでもいいんだよ! 俺が見たいのは、さっきの湖畔の続きなんだよ!)』

 

 

 リリスの視界に、タチバナの脳裏に強烈に焼き付いている極めて鮮明な映像が流れ込んできた。月明かりの下で衣服を脱ぐ、三人の少女たちの姿。

 

 

『(一番いいところだったんだぞ! アリシアの背筋! メグの太もも! セシリアの圧倒的な胸の谷間! あの神々しい裸体を、もっとじっくりと、あらゆる角度から舐め回すように鑑賞することこそが、今の俺の唯一にして至高の望みなんだ! その至福の時間を邪魔するなァァァ!)』

 

「…は?」

 

 

 

 リリスの高度な魔術的思考回路が完全に、そして物理的な音を立てて停止した。

 

 

 金でもない。

 権力でもない。

 名誉でも、世界の真理でもない。

 

 

 この男の、底なしの深淵に見えた欲望の器。その中心核で燃え盛っていたのは。

 

 

 あまりにも矮小で。

 あまりにも下劣で。

 

 

 あまりにも救いようのない、ただの純度百パーセントの「覗き見への渇望」だったのだ。

 

 

 バリンッ!!!

 

 

 リリスの精神世界に、凄まじい破砕音が響き渡った。彼女が全魔力を注ぎ込んで構築した、絶対不可侵であるはずの最高位幻術『夢幻の牢獄』が。

 

 対象のあまりの低俗さと、自身の『理解不能』という強烈な精神的衝撃によって処理能力の限界を超え、内側から完全に崩壊してしまったのである。

 

 

「そ、そんな…馬鹿な…」

 

 

 強制的に現実の森の中へと意識を引き戻されたリリスは、自らの震える両手を見つめ、愕然としていた。

 

 

(こ、こんな…こんな下劣で、ちっぽけで、単細胞な欲望で…私の、私が誇る最高傑作の幻術が、破られたというの…!?)

 

 

 それはリリスにとって、ブライアンの剛拳を直接顔面に受けるよりも遥かに深く、致命的な精神的ダメージであった。「幻惑の魔女」としてのアイデンティティと、武人としてのプライドを、これ以上ないほどに根底から否定され、泥水で汚されたに等しい、最大の屈辱。

 

 

「ありえない…こんな男が、ブライアンを…!?」

 

 

 動揺と屈辱で、リリスの魔力制御が乱れ、視界が定まらない。その彼女が生み出した致命的な隙を、眼前の茂みの中にいた男──この理不尽な屈辱の全ての元凶である、あの空っぽの変態が、見逃すはずがなかった。

 

 いや、正確にはタチバナ本人は未だに事態を把握しておらず、パニックに陥っているだけであった。

 

 彼の手に握られた聖剣とそれに宿る精霊が、主の「覗き見を邪魔された怒り」をトリガーとして、オートモードによる迎撃システムを強制起動させていたのだ。

 

 茂みが爆発したように弾け飛び、白銀の閃光が一直線にリリスへと迫る。

 

 

「きゃあっ!?」

 

 

 幻術の自壊によるフィードバックで身体が硬直していたリリスは、その神速の斬撃に全く反応することができなかった。聖剣の腹が彼女の身体を強烈に打ち据え、リリスは悲鳴と共に、湖畔の森の奥深くまで木々をなぎ倒しながら大きく吹き飛ばされた。

 

 激しい物理的衝撃と、それ以上の精神的屈辱に苛まれながら、闇の中へと敗走していくリリスは、血を吐くような声で悪態をついた。

 

 

「お、覚えてなさい…! この、変態勇者…! 私の誇りをよくも…! 次は、必ず、あなたのその汚らわしい単細胞な精神を、ぐちゃぐちゃに引き裂いてあげるわ…!」

 

 

 魔王軍四天王“幻惑”のリリスは己の長い生涯において初めて、真の意味での「理解できない存在」と遭遇し。

 

 彼女のキャリアにおいて最初にして最大の、最も思い出したくない屈辱と共に、夜の闇の底へと惨めに逃げ去っていったのだった。

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