俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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敗走と追跡の実況解説

 月光が木々の隙間からまばらに差し込む、深夜の静寂な森。

 

 しかし現在、その空間は本来の静謐さとはかけ離れた、極めて異常で殺意に満ちた喧騒に支配されていた。

 

 聖剣の精霊フィリアは己の主である勇者タチバナのすぐ横の空間に、半透明の霊体として浮遊していた。

 

 彼女の無機質な紫水晶の瞳は、目の前で繰り広げられている、実に奇妙で、理不尽で、そして濃密な殺意に満ちた「地獄の鬼ごっこ」の推移を、極めて冷静な観測者の視点で追い続けていた。

 

 

(さあ、始まりました。深夜の森を舞台にした、生存を懸けた追跡劇の時間です。現在、先頭をひた走るのは、魔王軍四天王、“幻惑”のリリス…しかし、その表情は、魔族の幹部としての矜持も妖艶さも完全に失われ、屈辱と混乱、そして『恐怖』によって実に醜く歪んでおります)

 

 

 フィリアの視線の先。木々の間をなりふり構わず、ドレスの裾が破れるのも気にせずに必死の形相で駆け抜けるリリスの姿があった。

 

 彼女の精神状態はフィリアの解析を通すまでもなく、極めて深刻なダメージを負っていることが明白であった。

 

 

(ありえない! あの男…あの変態! 乙女の夢の世界を土足で踏み躙り、あまつさえ、あのような下劣極まりない動物的な欲望で、私の最高傑作である幻術を内側から破壊するなんて! 男として最低! 女の敵よ! あんな男、絶対に許さない…! でも今は無理! とにかく逃げて、体勢を立て直さなければ、私の精神がもたないわ…!)

 

 

 リリスの魂から漏れ出す、悲痛で屈辱的な思念。高尚な精神破壊を嗜みとしてきた彼女にとって、タチバナの「ただただ、湖での覗き見の続きがしたい」という純度百パーセントのスケベ心は、あまりにも規格外の劇毒であったのだ。

 

 フィリアは、哀れな敗走者から視線を外し、その後方を凄まじい気迫で追いかける集団へと意識を向けた。

 

 

(そして、その後を猛追するのは、我らが勇者タチバナと、その後ろにぴったりと続く、ヒロインたちの皆さんです。おっとどうやら勇者パーティ、今回は全員の目的が『個人的な怒りの成就』という一点において、奇跡的かつ絶望的な一致を見せているようですねぇ?)

 

 

 フィリアの隣でタチバナは自らの意志ではなく、右手に握られた聖剣の魔力によって肉体を前方に引きずられるようにして、必死に走っていた。彼の顔は、普段の臆病な逃走時とは異なり、明確な「怒り」によって引きつっている。

 

 

(待てゴルァァァ! てめえ! よくも俺の最高の楽しみを邪魔しやがって! まだだ! まだ俺は、アリシアの背中のラインも、メグの太ももの質感も、セシリアの圧倒的な谷間も、満足に堪能しきれていないんだぞ! 今日という日をどれだけ待ちわびたと思ってる! 全てはお前のせいだ! 絶対に逃がすか、八つ裂きにしてやる!)

 

(…相変わらず、己の性欲と犯罪的行為の肯定のみで構成された、見事なまでのクズっぷりですね。彼の怒りの原動力が『覗き見の阻害』であるという真実を、もし後方の彼女たちが知れば、即座に聖剣の矛先は彼自身へと向かうことでしょう)

 

 

 フィリアは主の救いようのない思考に冷ややかな評価を下し、さらにその後方を地を蹴り砕くような凄まじい速度で追従してくる、三人の少女たちへと観測の照準を合わせた。

 

 

 彼女たちの顔には強敵と対峙した際の緊張や、勇者の身を案じる心配の色など微塵もなかった。そこにあるのは獲物を絶対に逃がさないという、文字通りの『絶対零度の怒り』の炎であった。

 

 

「「「あの女、絶対に許さない…!!!」」」

 

 

 アリシア、メグ、セシリアの三人の、完全にシンクロした憎悪の叫びが夜の森の静寂を切り裂いて木霊する。

 

 フィリアは彼女たちの精神の表層をスキャンし、その異常なまでの怒りの根源、すなわち、リリスの幻術によって彼女たちが見せられていた『幸福な夢』の具体的な内容を、正確に読み取った。

 

 

(…なるほど。解説しましょう。彼女たちの怒りの原因は、魔王軍の脅威に対する正義感などでは断じてありません。リリスに見せられた『個別の幸福な夢』の内容に起因しています。そしてその夢のベクトルは、見事なまでに一つの特異点へと収束していました)

 

 

 フィリアの脳内に、三者三様の、あまりにも都合の良い幻影の記録が展開される。

 

 王女騎士、アリシア・フォン・ローゼンバーグの内心。

 

 

(あの女…! 私とタチバナ様が、厳格な父上の祝福を正式に受け、王国を挙げての盛大な結婚式を挙げ、国中から祝福されながら、末永く幸せで穏やかな家庭を築くという…あの、我が人生における最高の瞬間を…! よくも、よくも邪魔してくれたな…! 許さん! 騎士の誇りにかけて、絶対に許さんぞ!)

 

 

 天才魔法使い、メグ・フレイムハートの内心。

 

 

(あたしと勇者様が、前人未到の古代魔法を共同で完全に解明して、魔法史に二人揃ってその名を永遠に刻み、毎日イチャイチャしながら世界中の未知の遺跡を旅して回るっていう、あの最高にワクワクする未来を! あの女のせいで! 絶っっっ対に許さないんだから! 灰になるまで燃やし尽くしてやる!)

 

 

 僧侶、セシリア・ホワイトリリーの内心。

 

 

(私とタチバナ様が、魔王軍の脅威も戦いもない平和な村で、たくさんの可愛い子供たちに囲まれて、毎日笑顔で「ただいま」「おかえりなさい」って言い合う、あの温かくて、愛に満ちた毎日を……! あの悪魔は、無慈悲に踏みにじったのです…! 神に代わって、万死に値します!)

 

 フィリアはこの壮大な勘違いの果てに生み出された、三者三様の「タチバナとの結婚・同棲生活」の幻影データを観測し、もはやツッコむための論理的気力すら失いかけていた。

 

 

(素晴らしい。三者三様の、実に身勝手で都合の良い妄想の極致です。幻術の術者であるリリス自身が『人間が最も望むであろう一般的な幸福』として提示した『権力』『知識』『家族愛』というテンプレートの幻影を、彼女たちの無意識が勝手に『タチバナとの恋愛成就』という要素で上書きし、カスタマイズしてしまっていたわけですね)

 

 

 フィリアは、人間の「恋」という感情が引き起こす、論理を超越した認識の書き換え能力に、ある種の戦慄すら覚えた。

 

 

(そして、その『最高に幸せな未来予想図』を強制的に中断させられたことへの怒りが、今、彼女たちの身体能力と魔力出力を、物理的な限界以上に引き出している模様です。…もはや現在の彼女たちにとって前方を逃げるリリスは、打倒すべき魔王軍四天王などという高尚な存在ではありません。『私たちの恋路と幸せな未来を邪魔した、万死に値するただの害虫』でしかないのです)

 

 

 タチバナは「覗き見を邪魔された怒り」で走り、ヒロインたちは「結婚生活の夢を邪魔された怒り」で走る。

 

 目的は完全に一致しているが、その動機のベクトルは絶望的なまでに、天と地ほども掛け離れていた。フィリアは高みの見物と洒落込むように、淡々と実況形式の観測を続ける。

 

 

(さあ先頭を逃げるリリス。背後から迫り来る三組のカップルの幸せな未来を背負った、濃密でねっとりとした怨嗟の念に、完全に精神の均衡をやられている! 魔族特有の圧倒的な身体能力が、恐怖によってうまく機能していない! 足がもつれている! ああっと、木の根に足を取られて、派手に転倒したー!)

 

 

 ズザァッ! という音と共に、リリスが土と落ち葉にまみれて無様に地面を転がる。彼女が立ち上がろうと身をよじった瞬間。

 

 

「「「「捕まえた(ぞ・わ・よ・です)!!!!」」」」

 

 

 四人の全く異なる利己的な動機から発せられた怒りの声が、重なり合ってリリスの背中に突き刺さった。

 

 

(おおっと、これはもう逃げられないか!? 四方からの完全包囲! 怒り狂う乙女たちの魔法と剣撃、そして変態の聖剣が、一斉にリリスへと襲いかかる! …いや、しかし! リリス、最後の気力を振り絞って、懐から転移の魔石を取り出したー! 強制転移の魔術が発動! 眩い光と共に、その姿が空間から掻き消えていくー!)

 

 

 間一髪。殺意の塊である四人の一撃が交差する寸前、リリスの身体は光の粒子となって空間に溶け、転移していった。

 

 リリスが完全に消滅するその刹那。彼女の恐怖に見開かれた瞳は確かに、空中に浮遊するフィリアの存在を捉えていた。

 

 その瞳に色濃く宿っていたのは、強敵に敗れた悔しさなどではない。「底知れぬスケベ心で幻術を破壊した変態」と、「存在しない未来の夢に狂信的な執着を見せる三人の狂信者」という、魔族の常識すらも凌駕する『理解不能な狂気』の集団を目の当たりにした、純粋で根源的な『恐怖』の色であった。

 

 リリスの気配が森から完全に消失したことを確認し、フィリアは静かに観測の結論を下した。

 

 

(本日の観測実況は、これにて終了です。結果として、魔王軍四天王“幻惑”のリリスは、物理的な損傷以上に、精神的にも、そして魔族としての誇りにおいても、修復困難な甚大なダメージを負って敗走しました。

 

 対する勇者一行は、それぞれの極めて個人的で利己的な怒りを原動力とすることで、結果的に、強大な敵を退けることに成功しました。…素晴らしいチームワークでしたね。その怒りの方向性は、宇宙の果てと果てほどにズレていますが)

 

 

 フィリアは、視線を地上へと戻す。そこには獲物を取り逃がし、その場に膝をついて頭を抱えているタチバナの姿があった。

 

 

「(あああああ! クソッ! 俺の、俺の至高の覗き見ユートピアがあああ! 二度とないチャンスだったのに!)」

 

 

 その後ろでは同じくその場にへたり込み、地面を悔しそうに叩いている三人のヒロインたちの姿があった。

 

 

「「「あああああ! 私とタチバナ様の幸せな結婚生活がああああ!」」」

 

 

 四人が四人とも、全く別の、決して交わることのない身勝手な理由で泣き崩れ、地面を叩いて悔しがっているという、この世の終わりのような滑稽な光景。

 

 フィリアはその惨状を静かに見下ろした。

 

 今日何度目になるか分からない、宇宙の深淵よりも深い大きな大きなため息を、霊体の口から吐き出したのだった。

 

 

(はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ)

 

 

 彼女のその嘆息は誰の耳に届くこともない。狂気と勘違いに満ちた夜の森の静寂の中に、空しく溶けていくのであった。

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