俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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タチバナ視点


#12 湯けむり温泉郷
覗きの計画


 山道は過酷だ。人間の足は、整備された石畳を歩くために靴底という保護を必要とする。ましてや、不規則に転がる岩や剥き出しの木の根を何日も踏み越えるようには設計されていない。

 

 タチバナは馬車の窓枠にぐったりと寄りかかりながら、車輪が軋むたびに腰に響く振動に耐えていた。四天王リリスが展開した幻術空間から生還し、一行は次なる目的地へ向けて険しい山越えの道を進んでいた。

 

 

(ああ…疲れた。全身の筋肉が悲鳴を上げている。こんな悪路を馬車に揺られ続けるのは、もはや拷問に近い。夜になれば冷たく硬い地面で寝袋にくるまる野宿。もうたくさんだ。ふかふかの布団で泥のように眠りたい…)

 

 

 タチバナの精神的疲労は、肉体的なそれを遥かに凌駕していた。前回の湖畔での野営。三人の乙女たちの無防備な沐浴を、完璧な隠密行動で鑑賞するはずだった至高の計画は、予期せぬ魔王軍幹部の出現によって完膚なきまでに打ち砕かれた。

 

 その欲求不満と徒労感が、彼の活力を根こそぎ奪っていたのである。

 

 馬車が急な坂道を登り切り、視界が開けたその時だった。

 

 

「わあ、見て! あんなところに集落があるよ!」

「湯気が立ち上っていますわ。温泉郷でしょうか!」

 

 

 メグとアリシアが、窓から身を乗り出して歓声を上げた。タチバナも気怠げに視線を向ける。険しい山間の盆地に、木造の建物が身を寄せ合うように立ち並び、あちこちから白く暖かな湯気が立ち上る小さな街が見えた。

 

「湯けむりの里」と呼ばれる温泉郷であった。

 

 

(…温泉?)

 

 

 その単語が脳内で処理された瞬間、タチバナの死んだ魚のような目に、強烈な欲望の炎が灯った。

 

 温泉。それは即ち、衣服という名の防御壁を完全に解除する場所。

 

 

(そうだ、温泉だ! 湖畔での計画が頓挫したのなら、ここで完遂すればいいじゃないか! 神聖な湖の女神たちに代わり、湯けむりの向こうに広がる三つの桃源郷…! 今度こそ、誰の邪魔もさせん!)

 

 

 タチバナの身体から疲労感が嘘のように吹き飛び、背筋がピンと伸びた。

 

 

『本当に懲りない方ですね』

 

 

 隣の空間に透明化したまま浮遊する精霊フィリアから、氷のように冷ややかな思念が届く。

 

 

『一つの欲望が満たされなかった場合、即座に脳内の演算回路を切り替え、代替となる対象を発見して実行に移す。その執念と効率性だけは、目を見張るものがあります。実に救いようのない仕様ですが』

 

(うるさい! 男のロマンが分からない冷血な精霊は黙っていろ! 過酷な旅を続ける勇者には、これくらいの精神的報酬が不可欠なんだよ!)

 

 

 タチバナはフィリアの皮肉を完全に無視し、これから訪れるであろう至福の光景に胸を躍らせた。

 

 一行が温泉郷の中心にある「月見荘」という立派な宿屋に足を踏み入れると、木の香りが漂う広々とした帳場で、恰幅の良い笑顔の女将が出迎えた。

 

 

「ようこそおいでなさいました、勇者様一行。お待ち申し上げておりましたよ」

 

 

 ヒロインたちが女将と宿泊の手続きを進める中、タチバナは一歩下がった場所で、宿の奥へと続く廊下を熱を帯びた視線で見つめていた。

 

 

(田舎の温泉郷における入浴施設の構造。それは、限られた源泉と湯船を効率的に利用するため、必然的に一つの大きな浴場を全員で共有する形式へと行き着くはずだ。つまり、混浴…! そうだ、混浴こそが温泉の基本原理にして絶対の真理!)

 

 

 タチバナの脳内で、極めて希望的観測に基づいた理論が構築されていく。

 

 

(だとしたら、俺は壁を登るリスクを冒すこともなく、堂々と、合法的に彼女たちの裸体を…! いや、むしろ背中を流し合うという夢のような展開すらあり得る!)

 

 

 彼が到来するであろう奇跡に打ち震えていると、女将がパンパンと手を叩き、にこやかに一行へ告げた。

 

 

「ささ、長旅でさぞお疲れでしょう。まずは当館自慢の温泉で、ゆっくりと骨休めしてくださいまし。ちなみに、当館の温泉は、源泉が二つある関係で、昔から男湯と女湯に分かれておりますので、どなた様もどうぞ気兼ねなくごゆるりと!」

「(…は?)」

 

 

 タチバナの脳内時間が、完全に停止した。

 

 源泉が二つ。だから男湯と女湯に分かれている。その無慈悲な建築上の事実。タチバナの輝かしい混浴の夢は宿に到着してわずか数分で、木っ端微塵に砕け散った。

 

 

『残念でしたね。貴方の浅はかな期待は、見事に現実という名の壁に阻まれたようです』

 

 

 フィリアの容赦のない思念が、呆然とするタチバナの脳髄を刺す。

 

 

『まあ、そもそも貴方のような破廉恥な男と、彼女たちが同じ湯船に浸かりたがるとは、到底思えませんが』

(ぐぬぬぬぬぬ…!)

 

 

 タチバナは、女将の笑顔の奥にある宿の構造への恨み言を飲み込み、力なく俯いた。

 

 だが、彼の執念はこれしきの障害で折れるほど柔なものではない。

 

 

(混浴がないなら仕方がない。ならば、神が与えたもうたこの自らの足と目で、直接視察に行くしかあるまい!)

 

 

 タチバナの瞳に、再び暗い悪質な決意の火が灯った。

 

 案内された広々とした和室の客室に落ち着くや否やタチバナは早速、完璧な覗き計画の立案に取り掛かった。

 

 彼は卓袱台の上に一枚の羊皮紙を広げた。それは、帳場に寄った際、「部隊の指導者として、宿の警備体制と避難経路を確認しておきたい」という、もっともらしい嘘をついて女将から借り受けた宿の見取り図であった。

 

 

(よし…女湯は宿の裏手、岩場を利用した露天風呂になっている。高い木製の塀に囲まれており、正面からの視線は完全に遮断されているな。…だが、裏の山の斜面はどうだ)

 

 

 タチバナは指で図面をなぞり、地形の等高線を読み解いていく。

 

 

(この露天風呂の背後には、急な斜面が迫っている。ここだ。宿の裏口から外に出て、この斜面を迂回して登れば、塀を見下ろす位置…木々の枝葉に隠れながら、完璧な角度で女湯の全貌を捉えることができるはずだ!)

 

 

 三次元的な視点を取り入れた、隙のない侵入ルートの構築。彼は自らの卓越した頭脳に一人悦に入った。

 

 

『また、そのような下劣極まりない計画を。貴方という人間は、「学習」という言葉の概念をご存じないのですか?』

 

 

 空間の歪みから現れたフィリアが、見取り図を熱心に覗き込むタチバナを見下ろして冷ややかに告げる。

 

(ふん、前回の湖畔での失敗は、事前の情報収集を怠り、敵の結界に気づけなかった俺の戦術的ミスだ。だが、今回は違う! この完璧な見取り図と、地形を味方につけた俺の頭脳があれば、失敗などあり得ん!)

 

『その「卓越した頭脳」とやらが、なぜ魔王討伐という本来の目的や、より生産的な方面で活用されないのか、私には到底理解に苦しみますが。…せいぜい、足を滑らせて熱湯に落ちないよう祈るばかりですね』

 

 フィリアの皮肉をBGMにしながら、タチバナは計画の最終段階へと移行する。覗きという極秘任務において最も重要なのは、自分が現場にいたという痕跡を消すこと。すなわち、完璧なアリバイ工作であった。

 

 その日の夕食は、宿の離れにある広々とした個室の食事処に用意されていた。

 

 卓上には、山の幸と川の幸をふんだんに使った、目にも鮮やかな郷土料理が並んでいる。岩魚の串焼き、猪肉を味噌で煮込んだ鍋、土鍋で炊かれた香り高いきのこご飯。そして、採れたての山菜の天ぷら。

 

 どれもが長旅の疲れを癒やすのに、十分すぎるほどのもてなしであった。

 

 しかし、主賓席に座るタチバナの目と心を奪っていたのは、卓上の見事な料理ではなかった。彼の正面と左右に座る、三人の女神たちの姿だった。

 

 彼女たちは宿が用意した、それぞれ色合いの異なる浴衣に身を包んでいた。普段の重厚な鎧や活動的なローブ姿とは全く違う、そのしっとりとした和の装い。布地が肌に柔らかく添い、隠された身体のラインを想像させるその姿は、タチバナの欲望を激しく刺激した。

 

 

(やばい。やばすぎる…。浴衣だと…!? 湯上りの火照った肌に、こんな薄い布一枚を纏うだけ。こんな反則技があっていいのか…!)

 

 

 右側に座るアリシアは、凛とした濃紺の浴衣。帯をきっちりと締め、乱れなく着こなしているが、まとめ上げた髪の下、すらりと伸びたうなじのあたりが白く輝いており、普段の生真面目さからは想像もつかない言いようのない色気を放っている。

 

 左側に座るメグは、快活な彼女に似合う、鮮やかな茜色の浴衣。少しだけ襟元を着崩しており、彼女があぐらをかくように姿勢を変えるたびに、浴衣の裾が割れ、そのむっちりとした健康的な太ももがチラチラと覗き見える。

 

 そして正面に座るセシリアは、淡い桜色の浴衣。帯でしっかりと締め付けられているにもかかわらず、彼女の豊満な胸は布の張力を無視して暴力的なまでの存在感を放っており、タチバナの視線は磁石のようにそこに釘付けにされていた。

 

 そんな彼の内心の葛藤を知ってか知らずか、ヒロインたちによる、仁義なき「お色気セクシーな奉仕合戦」の火蓋が切って落とされた。

 

 最初に動いたのは、正面のセシリアだった。

 

 

「タチバナ様、岩魚の塩焼き、お熱いうちにどうぞ。…ああ、骨があっては、お召し上がりにくいでしょう。私がほぐしてお取りしますね」

 

 

 そう言うと彼女は自分の席を立ち、タチバナのすぐ隣へと正座で移動してきた。慣れた手つきで岩魚の身を箸でほぐし始める。

 

 その際、彼女は卓上の皿に向かって上半身を少しだけ屈める体勢をとる。その結果、桜色の浴衣の襟元が重力に従ってわずかにたわみ、その中に隠された、

 

 雪のように白く神々しいまでの谷間が、タチバナの視界にほんの一瞬だけ、完全な形で姿を現したのだ。

 

 

(ぐはっ…! 見えた! 聖母の谷間渓谷が、はっきりと見えたぞ!)

 

 

 タチバナが鼻の奥が熱くなり血が吹き出しそうになるのを必死の思いでこらえていると、セシリアは小皿にほぐした身を乗せて小首を傾げて微笑んだ。

 

 

「はい、タチバナ様。あ〜ん」

「ちょっと、セシリア! 勇者様を独り占めする気!?」

 

 

 その光景に、左側のメグが黙っていなかった。

 

 

「勇者様! こっちの猪鍋も、すっごく美味しいよ! あたしがよそってあげる!」

 

 メグは木のお椀を手にして身を乗り出し、タチバナのもう片方の隣へと強引に陣取った。鍋の具材をよそう際、わざとらしくバランスを崩すフリをして、タチバナの肩に自分の体をぐっと密着させたのだ。

 

 

「んしょっと…見て見て、勇者様! すっごく美味しそうでしょ!」

 

 

 そう言ってお椀を差し出す、彼女の茜色の浴衣の袖が大きくめくれ上がる。その下から、滑らかで柔らかな二の腕があらわになる。何より密着した左肩からダイレクトに伝わってくる彼女の高い体温と、浴衣越しでもはっきりと分かる弾力のある胸の感触。

 

 

(うおおお! 右からはセシリアの谷間、左肩にはメグの柔らかさが! そして首筋に当たる吐息がくすぐったい! 最高だ! ここは天界の宴か!)

 

「…二人とも、はしたないぞ。タチバナ様が、お食事に集中できんだろう」

 

 

 その時、凛とした声で二人を諌めたのは、右側にいたアリシアだった。

 

 

「タチバナ様。お口直しに、こちらのお酒はいかがですかな。この地方の銘酒とのことです」

 

 

 彼女は陶器のお銚子を手に、タチバナの正面へと座り直した。彼が差し出したお猪口に、一滴もこぼすことなく酒を注ぎ始める。

 

 あまりにも優雅で気品のある所作。彼女は酒を注ぎながらわずかに伏せられたそのサファイアの瞳で、下から見上げるようにちらりとタチバナへと視線を送った。

 

 それは普段の騎士としての彼女からは到底考えられない、男の心を絡め取るような妖艶な流し目であった。彼女の白い指先がお猪口を受け取るタチバナの指に、確かな熱を持って触れた。

 

 

(ひょええええ! 堅物騎士アリシアの流し目と、指先タッチ! なんだこの高度な誘惑技術は! 不意打ちすぎるだろ!)

 

 

 タチバナは、完全に包囲されていた。

 

 

 右からの、聖母の「あーん」と、計算し尽くされた谷間のチラリズム。

 左からの、元気っ子の「密着」と、肌のぬくもりの主張。

 そして正面からの、騎士姫の「流し目」と、指先の接触。

 

 

 三者三様、それぞれの武器を最大限に活かしたお色気セクシーな奉仕の波状攻撃にタチバナの理性は、もはや嵐の中の蝋燭の火のように消えかかっていた。

 

 

(ああ、最高だ…。このまま、この酒と美少女に囲まれた時間が永遠に続けばいいのに…)

 

 

 酒を一口含んだ瞬間、彼の脳裏に自らが立案した「完璧な覗き計画」の図面がフラッシュバックした。

 

 

(いや、いかんいかん! 俺には、この先にもっと大きく、崇高な目的があるんだ! この程度の役得で満足し、酒に溺れて眠ってしまっては、真の桃源郷にはたどり着けない!)

 

 

 彼は鬼の形相で、目の前の極上の誘惑を振り払う決意を固めた。空になったお猪口を卓上に置くと、わざとらしく右肩を押さえ、深く疲れた表情を浮かべてこう切り出したのだ。

 

 

「ふぅ…すまん。さすがに、四天王リリスとの激戦で負った内なる傷が、まだ少し痛むな…美味しい食事の途中で申し訳ないが、俺は先に風呂に入って部屋で休ませてもらうよ」

 

 その言葉に、ヒロインたちは弾かれたように顔を上げた。

 

 

「えー! もう行っちゃうの!?」とメグが口を尖らせる。

「まあ、お痛みが…!? すぐに私が治癒の祈りを…」とセシリアが青ざめる。

「無理は禁物です。ゆっくりと湯に浸かり、お身体を労わってください」とアリシアが気遣わしげに頷く。

 

 

 タチバナは「いや、休息を取れば治る」とセシリアの治療を丁重に断り、彼女たちの心配そうな声に後ろ髪を引かれるような演技をしながら、計画通りに席を立った。

 

 

(待っていろよ、お前たち。本当のお楽しみは、これからなんだぜ…!)

 

 

 彼は、三人の熱を帯びた視線を背中に受けながら、まずはアリバイ作りのため、男湯へと向かって静かに歩みを進めるのだった。

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