俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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女将視点


女将は勇者の本性を見通せる

 深い山間にひっそりと佇む温泉郷「湯けむりの里」。その中でも最も歴史と格式を誇る温泉宿「月見荘」の帳場にて、女将のおトキは、年季の入った黒檀の算盤を滑らかな手つきで弾きながら、玄関先へと続く石畳に目を向けていた。

 

 長年、この地で数え切れないほどの旅人、商人、そして命知らずの冒険者たちを迎え入れてきたおトキの目は、単なる視覚器官を超え、人間の本質を見抜く精密な鑑定器の域に達している。

 

 歩幅、視線の動かし方、身につけている布地の質、そして何より、同行者との間に流れる「見えない力関係」。それらを瞬時に解析することで、彼女は客の財布の紐の緩さから、引き起こすであろうトラブルの種までを正確に予測することができた。

 

 

「…ほう、あれが噂の勇者様一行かい」

 

 

 おトキは算盤の玉を弾く手を止め、細めた目で玄関先に到着した四人の男女を観察した。まず彼女の目を引いたのは、三人の若い娘たちであった。

 

 

(なるほど。確かに、連れの娘さんたちは、王都の姫君も裸足で逃げ出すほどの極上のべっぴんさん揃いだねぇ。立ち振る舞いに一切の隙がない金髪の騎士、有り余る魔力を隠しきれていない赤毛の魔導士、そして、歩くたびに圧倒的な母性を揺らす桜色の髪の僧侶…どの子も、一国を傾けるほどの器量と実力を持っている)

 

 

 彼女たちは、ただ美しいだけではない。死線を潜り抜けてきた者特有の、研ぎ澄まされた刃のような気配を纏っている。おトキは客商売の観点から「極上の上客」であると同時に、男を巡る血なまぐさいトラブルの火種になりかねないと警戒レベルを一段階引き上げた。

 

 そして、彼女の鋭い観察眼は、三人の絶世の美少女たちの中心に立つ、一人の黒髪の青年へと向けられた。

 

 

(…あの子が、魔王軍の四天王を討ち果たしたという伝説の勇者様ねぇ…)

 

 

 おトキはその青年──タチバナを一目見た瞬間、長年の女将としての経験則に基づく、ある一つの明確な結論を即座に導き出した。

 

 

(…ありゃ、いけねぇ。あの男、魔物を倒す英雄なんかじゃあない。女を誑し込んで養ってもらうことだけが取り柄の、根っからの『ヒモ』の顔つきだ)

 

 

 人間の本質は、筋肉の付き方や皮膚の状態に如実に現れる。タチバナの身体には、剣を振り続けた者に特有の重心の安定感がない。肌は農作業や野営の苦労を知らないほどに白く滑らかで、手には武器を握り込んだマメ一つ見当たらない。

 

 何より少し気だるげで、どこか庇護欲をそそるような甘えた目つき。自らは一切の責任を負わず、他者の好意に寄生して生き抜くことに特化した、究極の生存戦略を持つ者の顔だ。

 

 おトキが切り盛りするこの宿にも、昔から似たような手合いの男が、裕福な商家や貴族の娘を連れて泊まりに来ては、痴話喧嘩や金銭の厄介事を起こしていったものである。

 

 しかし、おトキの論理的な思考回路を困惑させたのは、その「生粋のヒモ男」に対する、三人の極上な娘たちの態度であった。

 

 

(…奇妙だねぇ。あの三人のべっぴんさんたちは揃いも揃って、あの男に心底惚れ込んでいるような熱っぽく、崇拝にも似た視線を送っている)

 

 

 実力も美貌も兼ね備えた女たちが、なぜあのような中身のない男に傅いているのか。

 

 

(…ふぅむ。こいつは、面白い。ただのヒモではなく、女の精神の深層を操る恐ろしいまでの詐術使いなのか。それとも、あの優秀な娘さんたちが揃いも揃って男を見る目だけが壊滅的に欠如しているのか…どっちにしても、ひと悶着ありそうな気配だねぇ)

 

 

 おトキは、客が持ち込む喜劇や悲劇を長年楽しんできた、生粋の商売人である。彼女は、老練な女将としての完璧な愛想笑いを顔面に貼り付けると、帳場の奥から威勢のいい声を張り上げた。

 

 

「ささ、勇者様一行! ようこそおいでくださいました! 噂の英雄様方に当館をお選びいただき、光栄の至りに存じます!」

 

 

 帳場にて宿泊の手続きを進める中、おトキは、勇者タチバナの極めて分かりやすい情動の変化を、生温かい目で見守っていた。

 

 

「ささ、勇者様一行。長旅でさぞお疲れでしょう。まずは当館自慢の温泉で、ゆっくりと骨休めしてくださいまし…ちなみに、当館の温泉は、源泉が二つある関係で、昔から男湯と女湯に完全に分かれておりますので、どうぞどなた様も気兼ねなく、ごゆるりと!」

 

 

 おトキが、宿の案内としてごく当たり前の事実を告げた瞬間であった。タチバナの顔面からさーっと血の気が引き、それまで浮かべていた柔らかな微笑みが、まるで石膏のように固まったのを、おトキの眼力は決して見逃さなかった。

 

 彼の瞳から、生きる希望の光が半分ほど消え失せている。

 

 

(あらまあ。なんて分かりやすい子だこと。てっきり、山奥の温泉郷だから混浴だとでも思ってたのかねぇ。女湯と分かれていると知って、この世の終わりのような顔をして、がっかりしちゃってまあ)

 

 

 男という生き物は、いかに強大な力を持っていようとも、その思考の根底には極めて単純な生存本能と繁殖本能が組み込まれている。温泉宿を訪れた若い男が期待することなど、おトキにとっては算盤の玉を数えるよりも容易に予測できることであった。

 

 彼女が内心でその子供っぽさを笑っていると、今度は、タチバナが唐突に真剣な顔つきを作り、重々しい声で要求をしてきた。

 

 

「女将。念のため、警備上の確認だ。この宿の構造と避難経路を完全に把握しておきたい。宿の見取り図を貸してはもらえないだろうか」

 

 

 その、あまりにも見え透いた、そして飛躍しすぎた口実に、おトキは吹き出しそうになるのを腹の底で必死にこらえた。

 

 

(警備ねぇ? あんたのその血走った目で確認したいのは、刺客の侵入経路なんかじゃない。あのお嬢さんたちが入る『女湯』の正確な位置と、そこへ至る死角のルートだろうに。本当に、どこまでも己の欲望に忠実で懲りない男だよ)

 

 

 魔王軍と戦う勇者が、木造の温泉宿の構造図を要求する。その論理的破綻は火を見るより明らかだが、おトキは長年客商売を営むプロフェッショナルである。客のプライドを傷つけず、気持ちよく躍らせておく術を熟知していた。

 

 

「もちろんでございますとも、勇者様! いやはや、休息の場におきましても周囲の警戒を怠らないとは、さすがは世界を救う英雄様! 用意周到でいらっしゃる!」

 

 

 おトキは、これ以上ないほどの感嘆の表情を作り、引き出しから宿の見取り図を取り出して、恭しくタチバナへと手渡した。図面を受け取ったタチバナの目が、一瞬だけ獲物を見つけた獣のように怪しく光ったのを、おトキはしかと見届けた。

 

 

(こりゃ、今夜は、裏山が少し騒がしくなるかもしれないねぇ)

 

 

 おトキは、これから先の展開が手にとるように予測でき、口元を扇子で隠しながら、密かに喜劇の幕開けを楽しみにしていた。

 

 夕食の時間。おトキは、帳場と厨房を行き来して仲居たちに的確な指示を出しながら、時折、勇者一行が使用している離れの個室の様子を、障子越しに注意深く窺っていた。

 

 客の食事の進み具合を確認するのは女将の基本業務だが、今夜ばかりは、別の意味での興味が彼女の足を個室の前に向かわせていた。障子の向こうからは娘たちの甘えたような、あるいは少し棘を含んだような声がひっきりなしに漏れ聞こえてくる。

 

 

『タチバナ様、熱いうちにどうぞ。あーん…』

『ちょっと! 勇者様、あたしが猪鍋よそってあげる!』

『タチバナ様。お口直しに、こちらのお酒はいかがですかな』

 

(…おやおや、やってるねぇ。激しいことだ)

 

 

 おトキは、満足げに目を細めた。彼女が夕食前に、娘たちに宿特製の浴衣を着るよう勧めたのはただのサービスではない。

 

 重厚な鎧や魔導士のローブといった「戦いのための装甲」を解除させ、肌触りの良い薄い布一枚という無防備な状態に置くことで、人間の精神は一気に解放され、隠されていた女性としての本能や情動が表面化しやすくなる。

 

 それは人間の心理構造を熟知したおトキの、計算し尽くされた演出であった。

 

 

(案の定、若い娘たちの恋の闘技場と化しているようだね。普段は気丈に振る舞っている娘たちがひとりの男の気を引くために、己の女としての武器を総動員して火花を散らす。若い娘たちの恋の戦ほど、年寄りにとって見ていて面白い酒の肴はないからねぇ)

 

 

 おトキは、その華やかな修羅場の気配をつまみに、自分も奥で一杯やりたい気分になっていた。しかし、その激しいお色気奉仕合戦の最中、個室の中から、タチバナの意図的に作られた疲労困憊の声が聞こえてきた。

 

 

『すまんが、俺は先に風呂に入って、部屋で休ませてもらうよ』

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、障子の外にいたおトキは、扇子で隠した口元をニヤリと深く吊り上げた。

 

 

(ほうら来た。あの子たちの、あんなに可愛らしく、そして扇情的な奉仕を途中で振り切ってまで、早々に席を立つ。それが意味することは、ただ一つさね)

 

 

 おトキには、タチバナの精神構造と次の行動予測が、完璧な理論として導き出されていた。

 

 男という生き物は目先の小さな餌よりも、自らが密かに設定した「究極の獲物」を狩るという本能的衝動に支配された時、極限の集中力と自制心を発揮することがある。

 

 タチバナは今、自らの欲望の最終目標を達成するため、あえて娘たちの誘惑を断ち切るという『大いなる我慢』を選択したのだ。

 

 

(これから、あの子は一人で男湯に入って、髪を濡らして『風呂に入っていた』という完璧なアリバイを作る。そして、娘さんたちが女湯に入った頃合いを正確に見計らって、昼間に見取り図で確認した例の場所…裏山の斜面へと向かう。全く、若い男ってのは、いつの時代も、どんな英雄の皮を被っていようとも、考えることは同じだねぇ)

 

 

 おトキは足早に食事処を去っていくタチバナの後ろ姿を、面白そうに見送った。

 

 彼の足取りは、極力音を立てないように制御されており、その歩法だけでも、彼が今から極秘の隠密任務に向かおうとしていることがありありと伝わってきた。

 

 おトキは、彼が見えなくなると、帳場の奥で控えていたベテランの仲居頭をそっと手招きして呼び寄せた。

 

 

「お頭。今夜は裏山の警備の者に、少しだけ目を瞑るように言っておきな。あそこは斜面が急で危険だが、あえて立ち入りを厳しく制限しなくていい」

「はて、女将さん。よろしいので?」

 

 

 仲居頭が不思議そうに尋ねる。

 

 

「ああ。構わないよ。ただし、だ」

 

 

 おトキは扇子をパチンと閉じ、悪戯っぽい笑みを浮かべて指示を付け加えた。

 

 

「女湯を見下ろせる裏山の塀の近く、登りやすそうな木の根元あたりに…足を滑らせるための『濡れ雑巾』でも、そっと見えないように置いておくように、とね」

 

 

 それは長年この温泉宿の秩序と女湯の平和を守ってきた、老練な女将なりの「おもてなし」であった。

 

 相手は勇者である。大怪我をさせては国からのお咎めがあるかもしれない。だが、不心得者にはそれ相応の「痛い目」と「恥」をかかせ、己の浅はかさを自覚させる必要がある。

 

 濡れ雑巾を踏んで足を滑らせれば、崖から転げ落ちて泥だらけになるか、運が悪ければ女湯の敷地内に無様に落下することになるだろう。どちらにせよ、彼の構築した完璧な計画は、一枚の布切れによって最も滑稽な形で崩壊する。

 

 夜も深く更け、山の冷気が里を包み込む頃。温泉郷全体が、深い静寂の底に沈んでいた。

 

 おトキは帳場の奥に座り、一人静かにキセルをふかしながら、月明かりにうっすらと照らされた裏山のシルエットをぼんやりと眺めていた。紫煙がゆらりと立ち上り、鼻腔をくすぐる。

 

 

(さてと。そろそろ、宴の最終幕が始まる頃かねぇ)

 

 

 おトキの鋭敏な耳には遠く離れた女湯の露天風呂から、娘たちの楽しそうな水音と鈴を転がすような笑い声が、夜風に乗ってかすかに聞こえてくるような気がした。

 

 それとは全く別の裏山の斜面の茂みの中で、何者かが足音を殺しながらごそごそと這い上がっていく気配も、彼女の長年の勘は正確に捉えていた。

 

 

(あの勇者様、無事に塀の上までたどり着けるのかねぇ。うちの宿の裏山の斜面は、昼間見るよりずっと険しいし、何より、極上の『罠』が仕掛けてあるんだがねぇ)

 

 

 おトキはキセルを口から離し、くつくつと喉の奥で押し殺した笑い声を漏らした。

 

 男という生き物は、極限まで欲望が高まると、視界が極端に狭まる。月明かりに照らされた女神たちの姿に目を奪われている時、足元のわずかな違和感──一枚の濡れ雑巾の存在など、絶対に気づくことはできない。

 

 勇者だか世界を救う英雄だか知らないが、所詮は欲望に忠実で血の気の多いただの若い男の子だ。そんな男のどうしようもない本性に気づかず、神のように崇拝して恋に狂っている娘たちも、まだまだ世間を知らない純粋な子供に過ぎない。

 

 この隔離された湯けむりの里で、今夜一体どのような滑稽な騒動が巻き起こるのか。

 

 男が罠にかかって女湯に落下した時、娘たちはどのような悲鳴を上げ、どのような反応を示すのか。そして、男は自らの醜態を、またどのような見え透いた大嘘で取り繕うとするのか。

 

 おトキは明日、娘たちがどのような顔をして朝食の席に現れるのかを想像し、今から楽しみで仕方がなかった。客の織りなす人間模様の機微を観察することこそ、この商売の最大の醍醐味である。

 

 

「全く。世の中、平和でいいこったね」

 

 

 おトキはキセルの煙を、満足げに夜空へと吐き出した。

 

 その白く細い煙は、まるでこれから始まる喜劇──あるいは男にとっての絶望的な悲劇──の、幕開けを告げる静かな合図のように、ゆらりゆらりと山の冷たい夜の闇の中へと消えていった。

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