俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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謁見の間と王の依頼

 案内役の騎士に連れられ、タチバナは王城の奥深く、謁見の間へと足を踏み入れた。

 

 足の裏から伝わってくるのは、深い毛足を持つ最高級の絨毯の感触。見上げれば、首が痛くなるほどの高みに、無数の水晶が連なる巨大な魔石の灯具が吊るされている。太い柱は滑らかな大理石でできており、そこには惜しげもなく金箔の装飾が施されていた。

 

 タチバナの頭脳は、即座にこの空間を「資産価値」へと変換する作業を開始した。

 

 

(…すげえ。あの柱の金箔を少しずつ剥がして集めれば、金貨何枚分になる? 窓枠の精緻な銀細工を質屋に持ち込めば、一生働かずに美味い酒と美女に囲まれて暮らせるのではないか?)

 

 

 周囲を支配する厳かで重圧的な空気などお構いなしに、彼の視線はひたすら金目のものを値踏みするように這い回っていた。

 

 正面の一段高くなった場所には、黄金で装飾された玉座があり、威厳に満ちた白髭の老王──国王リチャード三世が座している。その両脇には痩せこけた老宰相と、恰幅の良い財務大臣が静かに控えていた。

 

 

「よくぞ参った、伝説の聖剣に選ばれし勇者タチバナよ」

 

 

 王の重々しい声が広間に響き渡る。タチバナは騎士に促されるままに片膝をつき、頭を垂れた。

 

 

(よし、まずは褒美の金品を要求しよう。そして、適当な理由をつけて村に帰り、悠々自適な生活を送るんだ)

 

 

 しかし、王の口から紡がれた言葉は、タチバナの甘い目論見を粉々に打ち砕くものであった。

 

 

「そなたに頼みがある。世界を脅かす邪悪なる魔王を討伐し、この地に平和をもたらしてはくれまいか」

(…は? 魔王討伐? 冗談じゃない!)

 

 

 タチバナの心臓が、けたたましい警鐘を鳴らす。

 

 

(俺の戦闘力など、その辺の農夫にも劣るのだぞ。魔物の群れに飛び込むなど、自ら肉の盾になりに行くようなもの。生存確率など万に一つもない。断る。絶対に断る! 俺は村で女の子とイチャイチャしながら余生を過ごすって決めてるんだ!)

 

 

 彼が顔を上げ、全力の辞退を口にしようと息を吸い込んだその瞬間だった。

 彼の隣の空間にだけ透明な姿で浮遊している精霊フィリアから、氷のように冷酷な思念が、直接脳髄に叩き込まれた。

 

 

『…もしここで断れば、貴方は「王の願いを拒み、国を侮辱した不敬者」として、即座に首と胴体が離れることになりますが、よろしいですか?』

(ひっ…!?)

 

 

 タチバナは思わず息を呑み、視線をわずかに横へと滑らせた。謁見の間の壁際に等間隔で並ぶ、完全武装の近衛兵たち。彼らの冷酷な視線はタチバナの一挙手一投足に注がれており、その手はいつでも剣を抜けるよう柄に添えられていた。

 

 

(本当だ…。王の機嫌を損ねれば、間違いなくあの兵士たちに問答無用で微塵切りにされる!)

 

 

 究極の選択であった。今この瞬間に王命に逆らって確実に斬り殺されるか。それとも、魔王討伐という無謀な任務を引き受け、少なくとも「今すぐ死ぬ」という最悪の結末を回避するか。タチバナの頭脳に備わった生存のための天秤は、迷うことなく後者へと傾いた。

 

 

(やるしかない。…いや、やるフリをするしかない! ここはどうにかして、俺の評価を上げつつ穏便に話を進める演技が必要だ!)

 

 タチバナは俯いたまま、全身の筋肉を硬直させた。極度の恐怖によって自然と滲み出た冷や汗と、生理的に浮かんだ涙を、最大限の小道具として利用することにした。

 

 彼は数秒間の重苦しい沈黙をあえて作り出し、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

「…恐れながら、申し上げます」

 

 

 震える声。それは純粋な死の恐怖によるものだったが、彼の手にかかれば「過酷な運命の重圧に苦悩する声」へと見事に偽装される。

 

 

「俺のような若輩者に、世界を救うなどという大役が務まるのか…正直、自信はありません。ですが…!」

 

 

 タチバナは言葉を切り、潤んだ瞳で王と大臣たちの顔を真っ直ぐに見渡した。

 

 

(食いついている。よし、ここからが一世一代の大芝居だ!)

 

 

「ですが! この俺の命が、魔王の脅威に怯え、虐げられる民の涙を拭う一助となるのであれば…! このタチバナ、命に代えましても、その御役目、果たさせていただきたく存じます!」

 

 

 謁見の間に、深い静寂が落ちた。次の瞬間、王の目から大粒の涙が零れ落ちた。

 

 

「おお…! おお…っ!」

 

 

 王は感極まったように玉座の肘掛けを強く叩き、声を震わせた。傍らの宰相はハンカチで目頭を押さえ、財務大臣に至っては「なんと見事な自己犠牲の精神か!」と子供のように泣きじゃくっている。

 

 

(…え? なんで泣いてるんだ?)

 

 

 タチバナは内心で首を傾げた。彼はただ、今すぐ殺されないために最も聞こえの良い言葉を並べ立てただけだ。しかし、彼らはタチバナの恐怖による震えを「民を想う義憤」と受け取り、命に代えるという言葉を「崇高な自己犠牲」として完全に誤解してしまったらしい。

 

 

(チョロい! こいつら、最高権力者のくせにチョロすぎるぞ! …だが待てよ。こんなに感動されてしまったら、もう後から『やっぱりやめます』なんて

絶対に言えないじゃないか!)

 

 

 タチバナは、己の完璧すぎる演技が、かえって自身の退路を完全に断ち切ってしまったという事実に気づき、心の中で絶望の悲鳴を上げた。彼らの目に映る理想の勇者像が強固になればなるほど、逃げ出した際のペナルティは重くなる。自分で自分の首を絞める結果となってしまったのだ。

 

 謁見を終え、タチバナは案内された王城の一室──彼専用の豪華な控え室に入るなり、重厚な扉が閉まる音を確認するや否や、床の絨毯の上に崩れ落ちた。

 

 

「もう終わりだ…完全に終わった…!」

 

 

 彼は頭を抱え、最高級の織物の上をゴロゴロと転がり回り、子供のように足をバタつかせて現実逃避を図った。

 

 

(魔王討伐なんて無理に決まっている! 殺される、絶対に無残に殺される! 全てはお前とこの呪いの剣のせいだ! どうしてくれるんだ!)

 

 

 彼が見苦しくもがき苦しみ、内心で悪態をついていると、部屋の空中に淡い光が収束し、精霊フィリアが姿を現した。彼女は腕を組み、床を転げ回る契約者を、汚物を観察するような冷徹な視線で見下ろしていた。

 

 

『…見苦しいですよ。いつまでそうしているつもりですか』

「うるさい! お前にこれから死地に赴く男の気持ちが分かるか!」

『無知とは罪深いものですね。貴方が選ばれたこの聖剣には、持ち主の力量や意思に一切関係なく、敵対する存在を自律的に認識し、最短かつ最適の剣技で殲滅する『聖なる加護』が備わっています』

 

 

 その言葉に、タチバナの動きがピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、瞬きを繰り返した。

 

 

(…え? 今、なんて言った? 持ち主の意思に関係なく、勝手に敵を倒す?)

 

 

 タチバナの脳内で、その情報の意味するところが猛烈な勢いで解析されていく。

 

 

(つまり、俺が剣を握ってさえいれば、あとはこの剣が勝手に戦ってくれるということか!? 俺は何も考えず、ただ剣の動きに身を任せていれば、どんな強敵もなぎ倒せる…!?)

 

 

 絶望の淵から、一気に強烈な希望の光が差し込んだ。

 

 

(それなら安全じゃないか! 傷つくリスクはゼロだ! 俺は最強の力を手に入れたのと同じだ! ぐへへ、これなら魔王討伐とやらも、後ろで見ているだけで楽勝かもしれないぞ!)

 

 

 タチバナは一瞬にして立ち直り、先ほどまでの絶望が嘘のように、鼻の下を伸ばして不敵な笑みを浮かべた。しかし、フィリアは彼のその浅はかすぎる歓喜を打ち砕くように、紫水晶の瞳をスッと細めた。

 

 

『ええ。その通りです。──ただし、私がその加護を与え続けている限りの話ですが』

「……え?」

『この聖剣の真の管理者は私です。もし貴方が勝手に逃亡を図ったり、私の意に沿わない行動をとったり、あるいは単に私の機嫌を損ねるようなことがあれば…』

 

 

 フィリアの顔に、底冷えのするような、極めて嗜虐的な微かな笑みが浮かんだ。

 

 

『私はいつでも、その加護の供給を断ち切ることができます。迫り来る魔物の群れに対し、貴方自身のその貧弱な腕力だけで立ち向かっていただくことになりますが…よろしいですか?』

「ひっ…!?」

 

 

 タチバナは悟った。自分は最強の武器を手に入れたのではない。ただ、この美しくも恐ろしい精霊の、完全なる生体部品として組み込まれただけなのだ。彼女の気分一つで、己の命運はいつでも絶たれる。

 

 

(俺の命の決定権は、完全にこの精霊に握られている。逆らえば即死…! 奴隷だ、俺はこの女の絶対服従の奴隷になったんだ!)

 

 

 タチバナの顔から再び全ての血の気が引き、彼は豪華なソファに崩れ落ちて、今度こそ底なしの絶望の淵へと沈んでいくのだった。




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