俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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フィリア視点


慧眼の持ち主との邂逅

 物質界における物理的な制約を一切受けない高位の精霊であるフィリアは、常に契約者である勇者タチバナの周囲を浮遊し、彼が発する魔力の波長と思念を観測し続けている。

 

 険しい山道を越え、湯けむりが立ち上る温泉郷が視界に入った瞬間から、タチバナの脳内に渦巻く思考は、極めて単純かつ下劣な一つの目的にのみ集約されていた。

 

 

(温泉。すなわち、女たちの衣服という防御壁が完全に剥奪される場。今度こそ、誰にも邪魔されることなく合法的に桃源郷を鑑賞できる…!)

 

 

 タチバナの思考の表面にへばりついたその浅ましい欲望の波長を読み取りながら、フィリアは半透明の霊体のまま、極めて深く、そして冷ややかな諦観のため息を漏らした。

 

 四天王リリスが展開した高度な幻術空間を辛うじて生き延びたというのに、この男の精神構造は、恐怖から解放された途端に、即座に己の低俗な欲求を満たすための算段へと切り替わる。その学習能力の欠如と、欲望への絶対的な忠実さには、ある意味で感心すら覚えるほどだ。

 

 一行が温泉郷の中心に位置する「月見荘」という宿の玄関をくぐると、奥から恰幅のいい白髪混じりの女将が、愛想の良い笑顔を浮かべて出迎えてきた。

 

 女将は深々と頭を下げて勇者一行を歓迎したが、フィリアの研ぎ澄まされた知覚は、その女将の笑顔の下で高速に回転している、極めて冷徹な人間観察の思念を正確に傍受していた。

 

 

(ほう、あれが噂の勇者様一行かい。なるほど、確かに、連れの娘さんたちは、王都の姫君も裸足で逃げ出すほどの、極上のべっぴんさん揃いだねぇ)

 

 

 女将の視線が、アリシア、メグ、セシリアの三人へと向けられる。その見立ては正確だ。次に女将の視線は、三人の中心で偉そうに踏ん反り返っている黒髪の優男──タチバナへと向けられた。

 

 

(あの子が魔王軍を退ける勇者様、ねぇ…)

 

 

 フィリアは女将がどのような壮大な勘違いを構築するのかと、半ば諦めの境地でその次の思念を待った。

 

 これまでの道中、国王も、老獪な宰相も、天才的な頭脳を持つ魔法使いでさえも、タチバナの無様さを「深遠なる英雄の高潔な精神」へと勝手に翻訳し、見事に騙されてきたのだ。この辺境の宿の女将もまた、彼を神の如く崇め奉るのだろう。

 

 そう思っていたフィリアの予測は次の瞬間、凄まじい衝撃と共に打ち砕かれた。

 

 

(ありゃ、いけねぇ。あの手の男は、甘い言葉で女を誑し込むことだけが取り柄の、根っからの『ヒモ』だ。あの、どこか気だるげで、自分で責任を負う気のない甘え上手そうな目つき。うちの宿にも、昔から似たような男が女の金で泊まりに来ては、厄介事を起こしていったもんさ)

「ッ!」

 

 

 フィリアの半透明な体が、驚愕によって震えた。彼女の無機質な紫水晶の瞳が、限界まで見開かれる。

 

 

(この人間…面白い! 私がこれまで観測してきた、あらゆる権力者や知将、そしてあの才色兼備の三人の娘たちでさえ、誰一人として見抜けなかったこの男の『本質』をほんの数秒でいとも容易く完璧に見抜いてみせた…!)

 

 

 フィリアの数百年もの間、常に一定の温度を保ち続けてきた精神の奥底に、生まれて初めて「激しい感心」と「強烈な仲間意識」という名の熱い感情が芽生えた。

 

 

(素晴らしい。実に、素晴らしい慧眼です、女将。卓越した観察眼と、人間の醜悪な本性を見透かす冷徹な知性。貴女になら…貴女にだけは、私が抱えているこの途方もない苦労を、少しは分かってもらえるかもしれない…!)

 

 

 フィリアは物質界の誰にも見えない空中で、この見ず知らずの田舎の女将を、心の中の「ただ一人の同志」として一方的かつ熱烈に認定したのである。

 

 フィリアは、導かれるようにして、帳場に立つ女将のすぐ隣へとそっと浮遊し、寄り添った。まるで古くからの親友と肩を並べて会話でもするかのように、彼女の思考の波長に己の意識を深く同調させていく。

 

 

「ささ、勇者様一行。長旅でお疲れでしょう。当館自慢の温泉で、ゆっくりと骨休めしてくださいまし。ちなみに、当館の温泉は、源泉が二つある関係で、昔から男湯と女湯に完全に分かれておりますので、どうぞごゆるりと!」

 

 

 女将が、宿の構造上の事実をにこやかに告げた。その瞬間、タチバナの顔面から全ての血の気が引き、瞳から希望の光が半分ほど消え失せる。彼が心の中で「混浴じゃないのかよ!」と絶望の悲鳴を上げているのを、フィリアは正確に読み取っていた。

 

 

(あらまあ。分かりやすい子だこと。てっきり、混浴だとでも思ってたのかねぇ。がっかりしちゃって、まあ)

 

 

 女将の心に浮かんだその呆れを含んだ思念に対し、フィリアは空中でぶんぶんと首がもげそうなほどに縦に振りながら、己の精神を激しく揺らした。

 

 

『そうなんですよ、女将! こいつは、本当に分かりやすいんです! 己の欲望が、顔の全ての筋肉の動きからだらしなく漏れ出ているでしょう!? 英雄の皮を被った、ただの発情期の獣なのです!』

 

 

 フィリアの心の叫びは女将に直接聞こえるわけではないが、彼女は完全に「女将との精神的な女子会」モードに突入していた。

 

 タチバナが、混浴の夢を絶たれた絶望から立ち直り、今度は真剣な顔つきを作って帳場へと身を乗り出した。

 

 

「女将。警備上の確認だ。万が一に備え、この宿の構造を完全に把握しておきたい。見取り図を貸してはもらえないか」

(警備ねぇ…。あんたが確認したいのは、お嬢さんたちが入る、女湯の位置だろうに。本当に、懲りない男だよ)

 

 

 女将の、見え透いた嘘を完璧に見透かしたその的確すぎる心理分析に、フィリアの興奮は最高潮に達した。

 

 

『その通りです、女将! こいつの口から出る「警備」や「戦略」などという言葉は、全てが己の下劣な欲望を満たすための口実に過ぎません! 貴女は、なぜただの一瞥でそこまで見抜けるのですか!? 天才ですか!? 王城の宰相の座に就くべき知性の持ち主ですよ!』

 

 

 フィリアはこれまで誰にも理解されなかった己の正論が、この女将の心の中だけで完全に肯定されているという事実に、これまでにないほどの深い喜びを覚えていた。

 

 まるで愚かな夫の愚痴を全て理解して頷いてくれる、唯一無二の親友を見つけたかのような、心地よい高揚感であった。

 

 夕食の時間が始まり、宿の離れにある広々とした個室の食事処に、勇者一行が案内された。

 

 フィリアは、障子の向こうで繰り広げられる光景を観測していた。色違いの浴衣に身を包んだ三人の乙女たちが、それぞれの武器を活かしてタチバナの寵愛を勝ち取ろうとする、仁義なき「お色気セクシーな奉仕合戦」である。

 

 アリシアの計算された鎖骨の露出、メグの太ももと胸の密着、そしてセシリアの暴力的なまでの谷間の開示。それらを前にして鼻の下をだらしなく伸ばす主の姿に、フィリアはもはや冷ややかな解説を加えることすら面倒だと感じていた。

 

 しかし、その時である。フィリアの知覚網が、個室へと続く廊下の隅、障子の僅かな隙間から、中の様子を面白そうに窺っている女将の気配を察知した。フィリアはすぐさま、女将のすぐ真横の空間へと転移した。

 

 

(おやおや、やってるねぇ。浴衣に着替えさせて、正解だったようだ。若い娘たちの恋の戦ほど、見ていて面白いものはないからねぇ)

 

 

 女将の、事態を上から俯瞰して楽しむ余裕に満ちた思念。それに触れ、フィリアは再び激しく同意の思念を波立たせた。

 

 

『ええ、全くです、女将! あの三人の娘たちは、それぞれ全く別の論理とベクトルで、あの中身のない汚物に心底心酔しているのです。己の美貌と誇りを懸けて、あんな塵芥に群がる様。実に滑稽で哀れでしょう?』

 

 

 やがて役得を存分に享受したタチバナが、疲労困憊のふりをして重々しい声を出した。

 

 

「…すまんが、リリスとの戦いの傷が少し痛むな。俺は先に風呂に入って、部屋で休ませてもらう」

 

(…ほうら、来た。あの子たちの、あんなに可愛らしくて色気のある奉仕を途中で振り切ってまで、早々に席を立つ。つまり、そういうことさね。これから、一人で男湯に入ってアリバイを作る。そして、娘さんたちが女湯に入ったのを見計らって、例の場所へと向かう…全く、若い男ってのは、いつの時代も考えることは同じだねぇ)

 

 

 タチバナの行動心理を完璧にトレースし、これからの計画の全貌までをも見通した神懸かり的な推論。フィリアは霊体でありながら、感動のあまり打ち震えそうになった。

 

 

『そういうことなんですよ、女将! 貴女の言う通りです! こいつは、目の前に並べられた極上の手料理や美女の密着よりも、まだ見ぬ、しかし自らの足で確実に見に行けると信じている、さらに極上の背徳的な餌を選ぶ、強欲で愚かな獣なのです! ああ、貴女はなぜ、そこまでこの男の精神構造の全てを完璧に理解しているのですか…!』

 

 

 フィリアはもはやこの女将となら、美味しい茶でも飲みながら一晩中、タチバナの愚行について語り明かせるという強い確信を抱いていた。

 

 タチバナが食事処を去った後、おトキは帳場へと戻っていった。フィリアも当然のようにその後を追う。おトキは、帳場の奥で控えていたベテランの仲居頭をそっと手招きし、小声で指示を出した。

 

 

「お頭。今夜は、裏山の警備の者に、少しだけ、目を瞑るように言っておきな。ただし、塀を乗り越えようとする馬鹿がいたら、足を滑らせるための『濡れ雑巾』でも、そっと、見えないように置いておくように、とね」

 

 

 その指示を聞いた瞬間、フィリアは感嘆のあまり、声にならない深いため息を漏らした。

 

 

(…素晴らしい。実に、素晴らしい計らいです、女将。貴女は、ただ男の浅ましい計画を見抜くだけでなく、その上で、この喜劇を最大限に面白く演出しようとしている。ただの観察者にとどまらず、自ら盤面を整えるその手腕。まさに、観測者の鑑だ…!)

 

 

 タチバナの計画はもはや実行される前から、一枚の濡れ雑巾によって最も滑稽な失敗に終わることが確定した。フィリアはこの偉大なる女将への深い敬意を胸に刻み、決戦の地である裏山へと向かっているであろう主の隣へと、再びその姿を移動させた。

 

 ひんやりとした山の夜気が漂う、宿の裏口。タチバナは、男湯で烏の行水を済ませて完璧なアリバイ工作を終え、これから始まる覗き見への期待で完全に浮足立っていた。その顔には、隠しきれない下劣な笑みが張り付いている。

 

 フィリアはそんな愚かな主の隣に姿を現し、彼にとっては全く無意味であろう忠告を告げることにした。

 

 それは、彼を止めるためではない。あの卓越した知性を持つ女将へのリスペクトも込め、これから起こる喜劇のスパイスとするための、彼女なりの儀式であった。

 

 フィリアは、いつもより少しだけ人間味のある、芝居がかった声色でテレパシーを送った。

 

 

『忠告しておきますが。あの帳場にいた女将、おそらく貴方の行動の全てを、裏の裏までお見通しですよ。そして、何らかの痛烈な対策を講じている可能性が、極めて高いと推測されます』

 

 タチバナは夜の闇に紛れて歩みを進めながら、鼻でふんと嗤った。彼は己の口を動かし、誰に聞かせるでもない独り言のように、小声で音声に乗せて反論した。

 

 

「はっ! 俺の完璧に計算し尽くされた潜入計画を、ただの田舎の温泉宿のババアが、見抜けるはずがないだろう。お前のその脅しには乗らんぞ」

 

 

 タチバナは己の知略を微塵も疑わず、得意げに言葉を吐き捨てた。そのあまりにも滑稽な自信過剰ぶりに、フィリアは冷ややかな視線を向けた。

 

 

『そうですか。まあ、せいぜい、足元には十分にお気をつけて。濡れた落ち葉や、得体の知れない「布切れ」などに足を滑らせて、塀の上から真っ逆さまに落ちないよう祈るばかりですね』

 

 

 フィリアは、あえて「布切れ」という明確なヒントを与えた。だが、欲望で視界が極限まで狭まっている男の耳に、その言葉の真意が届くはずもなかった。

 

 

『頭から落ちれば、あるいは、その完全に空っぽの頭蓋の中に、少しはまともな知恵が詰まるかもしれませんからね』

 

 

 フィリアはそう言い残すと、魔力の波長を切り、通信を一方的に遮断した。

 

 彼女はこの先の裏山で繰り広げられるであろう凄惨な惨劇を、最高の観戦仲間である女将と共に楽しむべく、斜面を見下ろす一番高い屋根の上へとその霊体を移動させるのだった。

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