俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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タチバナ視点


湯けむりの中の乙女たち

 夜の闇に包まれた宿の裏山は、月明かりすらも木々の枝葉に遮られ、深い漆黒に沈んでいた。タチバナは、斜面に張り巡らされた木の根を足場にしながら、息を殺して慎重に移動していた。

 

 彼の足取りは、魔王軍の刺客すらも凌駕するほどの極めて高度な隠密性を保っていた。視覚に頼れない状況下において、彼は足の裏に伝わる感触だけを頼りに、枯れ枝や脆い土を正確に回避していく。

 

 重心を極限まで低く保ち、身体の揺れを最小限に抑えるその動きは、無駄なエネルギーの消費を防ぐという点において、完璧な理にかなっていた。

 

 

(よし、計画通りだ…このまま等高線に沿って斜面を横移動すれば、女湯の塀の上部に手が届く位置へと到達できるはずだ…!)

 

 

 タチバナの頭脳は、日中に見取り図で確認した地形と、現在の己の位置関係を脳内で正確に照らし合わせ、侵入ルートを的確に割り出していた。

 

 魔物との戦闘においては全く使い物にならない彼の身体能力と知性が、己の欲望を満たすという明確な目的を与えられた瞬間にのみ、奇跡的なまでの出力を発揮しているのだ。

 

 やがて彼の目の前に鬱蒼とした木々の隙間から、高くそびえ立つ木製の塀が姿を現した。女湯を外界の視線から隔絶するための、堅牢な防壁である。

 

 タチバナはその塀の真下へと音もなく到達し、首を痛くなるほど見上げた。塀は彼の予想よりも高く、そして基礎となる石垣の部分は、山から降りてくる夜霧と温泉の湯気の影響で、しっとりと湿りを帯びていた。

 

 

(ちっ、夜露と湿気で石の表面が滑りやすくなっているのか…。木造部分も防腐のための塗料が塗られているらしく、手がかりが少ない。だが、この程度の物理的障害、俺の燃え盛る欲望の前では無意味だ!)

 

 

 タチバナは己の内に湧き上がる熱情を推力に変換し、石垣のわずかな突起を見定めた時。虚空から、氷の刃のように冷徹な思念が脳髄へと突き刺さった。

 

 

『その欲望こそが、貴方を破滅へと導く最大の障害そのものであることに、貴方はいつになったら気づくのでしょうか』

 

 

 精霊フィリアの、もはや感情の起伏すら放棄した声であった。

 

 

(うるさい! 困難な障壁を乗り越えてこそ、その先にある果実の甘みが増すというものだ。歴史を見ろ。偉大なる探求者たちは皆、不可能と思われる壁に挑み、そして真理を掴み取ってきた。俺がこれから為すことも、それらと同義の崇高な行いなのだ。成功すれば、全てが正義となる!)

 

 

 タチバナは、自らの下劣な覗き見行為を、歴史的な偉業へと見事に論理のすり替えを行い、フィリアの正論を強引に跳ね返した。

 

 彼は、幼少期に村で木登りをした記憶の断片を呼び起こし、石垣の突起に指先を引っかけ、足のつま先に全体重を乗せた。摩擦を最大限に利用し、滑りやすい表面を確実な足場へと変えながら、ゆっくりと着実に己の身体を上へと持ち上げていく。

 

 石垣を越え、木造の塀の中腹まで身体を引き上げたところで、タチバナの耳に、待ちわびていた「音」が明瞭に届き始めた。

 

 

「きゃっきゃっ!」

「もう、冷たいじゃないですか、ふふふっ」

 

 

 それは、間違いなく、過酷な旅の緊張から解放され、湯に浸かって無邪気に戯れる三人の乙女たちの声であった。

 

 水面を叩く弾けるような音と、それに混じる銀の鈴を転がすような嬌声。その聴覚情報が、タチバナの脳内で即座に視覚的な妄想へと変換され、彼の登攀のペースを劇的に加速させた。

 

 

(聞こえる…! 聞こえるぞ…! 戦場の重圧から解き放たれた、天使たちの無防備な声が…! 筋肉の疲労を癒やすために血流が促進され、ほんのりと桜色に染まった極上の肌。湯けむりの向こうに広がる俺の桃源郷は、もう目と鼻の先だ…!)

 

 

 塀の向こう側から立ち上る白い湯けむりが、夜空から降り注ぐ月明かりを乱反射させながら、タチバナの頭上を越えて流れていく。その僅か数寸の厚みの木板の向こう側に、彼が命を懸けて追い求めた楽園が存在しているのだ。

 

 タチバナの心臓はこれまでにないほど激しく脈打ち、血液が沸騰するかのような熱を全身に送り出していた。呼吸は荒くなり、腕の筋肉が期待と興奮で小刻みに震えている。

 

 

『…警告します。貴方の心拍数が、生命維持における危険な領域に達しています。血圧の異常な上昇により、脳の血管に致命的な負荷がかかっています。女の裸を見るための興奮による心停止という、人類史上で最も情けない死に方をなさいませんよう、重々ご注意ください』

 

 

 フィリアの無機質な警告が鳴り響くが、タチバナの耳にはもはや乙女たちの水音しか入っていなかった。

 

 

(黙ってろ! 男のロマンが分からない奴に、俺のこの高鳴りは理解できん! 俺は今、過酷な現実を忘れ、男としての伝説を作る歴史的瞬間に立ち会っているんだ! 止めるな!)

 

 

 タチバナは、指の関節が白くなるほどに力を込め、塀の木枠の僅かな隙間に指先をねじ込んだ。最後の力を振り絞り、ついに塀の最上部へと、その両手をかけることに成功した。

 

 タチバナは息を殺し、衣擦れの音すら立てないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと己の頭を塀の上へと引き上げた。

 

 そして眼下に広がる光景を、瞬きすら忘れてその両目に焼き付けた。

 

 

(…見えた)

 

 

 一陣の夜風が吹き抜け、視界を遮っていた濃密な湯けむりがわずかに晴れたその一瞬。タチバナの目に信じられないほど美しく、破壊的なまでの光景が飛び込んできた。

 

 夜空に浮かぶ満月の光と、湯から立ち上る幻想的な白い煙に包まれ、三人の女神たちの全裸が、そこにあった。

 

 湯船の縁に腰かけ、艶やかな濡れた金髪を気だるげにかき上げているのは、王女騎士アリシアであった。

 

 日頃の過酷な鍛錬によって極限まで無駄を削ぎ落とされた彼女の背中から、女性特有の滑らかな曲線を描いて腰へと至るそのラインは、まるで神に愛された名工が彫り上げた大理石の彫刻のように完璧な造形美を誇っていた。引き締まった筋肉が月光を弾き、圧倒的な気高さと色気を同時に放っている。

 

 その隣の湯の中で無邪気に水しぶきを上げ、弾けるような笑顔を見せているのは、天才魔法使いメグであった。

 

 活発に動く彼女の肢体は、若き生命力そのものに満ち溢れている。湯面から勢いよく飛び出すたびに露わになる、健康的な素肌と、その年齢に不相応なほどに豊かな起伏を持った胸の膨らみが、重力に従って小気味よく揺動する。その躍動感は、見る者の理性を直感的に揺さぶる麻薬のような魅力があった。

 

 そして。湯船の少し手前にある洗い場で、手桶の湯を使い、ゆっくりと自らの身体を清めているのは、僧侶セシリアであった。

 

 湯に濡れ、本来のふんわりとした質感を失った桜色の髪が、その透き通るような白い肌に艶かしく張り付いている。

 

 普段は分厚い法衣という封印によって隠され、厳重に管理されている圧倒的なまでの豊満な胸が、今はその重みと体積の全てを、一切の障害物なく惜しげもなく晒していた。

 

 彼女が腕を動かすたびに、その規格外の質量が、まるで独自の意志を持っているかのようにたわみ、揺れ、圧倒的なまでの母性と暴力的な色気を周囲に撒き散らしていた。

 

 

(おお…おおおおお…! 神よ…! 俺は今、世界の真理に触れている…! 我が人生に、一片の悔いなし…!)

 

 

 タチバナの理性は、完全に崩壊した。彼の脳内にあった「見つかったら殺されるかもしれない」という危機管理の論理回路は、莫大な視覚的快楽の情報量によって一瞬にして焼き切れた。

 

 彼の思考は完全に停止し、ただ眼下に広がる三つの桃源郷を、喉の渇きを潤すように貪欲に、そしてどこまでも下劣に鑑賞することしかできなくなっていた。

 

 極限の感動と、血液が沸騰するほどの強烈な興奮。それはタチバナの貧弱な肉体の許容量を、いとも容易く凌駕した。

 

 タチバナの鼻の奥で、限界まで拡張した毛細血管が悲鳴を上げて破綻し、生温かい赤い液体が一筋、重力に従って垂れ落ちた。

 

 

(…あ、やべ…鼻血…)

 

 

 彼がぼんやりと麻痺した頭でそう認識した、まさにその瞬間であった。彼の意識は興奮による急激な血圧の上昇と、脳への血流の偏りによって、一瞬だけ完全にホワイトアウトした。

 

 視界が真っ白に染まり、身体の平衡感覚を司る三半規管が正常な機能を失う。そのたった一瞬の意識の混濁と筋力の弛緩が、彼の運命を残酷なまでに決定づけた。

 

 ぐらり、と。塀の上の狭い足場に乗せていた彼の身体の重心が、致命的な角度で外側へと傾いだ。

 

 

(…え?)

 

 

 ハッと我に返り、タチバナは慌てて全身の筋肉に力を込め、壁を掴んで体勢を立て直そうと試みた。

 

 時すでに遅し。

 

 彼の踏みとどまろうとした足の裏、その塀の木板の表面には、なぜか、あまりにも都合よく、たっぷりと水を含んだ「一枚の濡れ雑巾」が、意図的に配置されたかのように置かれていたのだ。

 

 摩擦係数を極限までゼロに近づける、最悪の罠。タチバナの足は、その雑巾を踏みつけた瞬間、一切の抵抗を許されず、見事なまでにつるりと滑った。

 

 

『ですから、言わんこっちゃない。警告はしましたよ。自らの愚かさを呪いながら、重力の法則に従って落下するがいいでしょう』

 

 

 空中のどこかから、フィリアの、呆れを通り越してどこか満足げな響きすら含んだ声が聞こえた気がした。

 

 

「あ」

 

 

 タチバナの口から己の絶対的な敗北を悟った、間抜けな声が漏れた。彼の身体は、もはや自らの意思でどうにかできる物理法則の範疇を完全に超えていた。

 

 指先が塀の縁から離れ、タチバナは、重力という名の無慈悲な力に引かれるまま、塀の内側──三人の女神たちが水浴びを楽しむ女湯の敷地内へと、真っ逆さまに落下していった。

 

 夜の静寂と、乙女たちの楽しげな語らいが支配していた女湯の空間。そこに、空から降ってきた質量のある物体が容赦なく叩きつけられた。

 

 

 ザッッッッバン!!!!

 

 

 タチバナの身体は見事に湯船のど真ん中へと落下し、天地がひっくり返るかのような凄まじい水柱を空高く跳ね上げた。

 

 全身を熱い湯に打ち据えられる鈍い痛みと、鼻孔や気管に容赦なく流れ込んでくる温泉の湯。タチバナはパニックに陥りながらも、本能的に息を吸おうと湯船の底を蹴って水面へと顔を出した。

 

 

「ぷはぁっ…! げほっ、ごほっ、げぇっ…!」

 

 

 大量の湯を飲み込み、咳き込みながら視界の確保を試みる。湯に濡れて顔に張り付く黒髪を乱暴に手で払い退けると、目に飛び込んできたのは、静寂を取り戻しつつある湯面と、そこから立ち上る白い湯けむり。

 

 そして、その湯けむりの向こう側で、完全に動きを止めて呆然と立ち尽くしている、三人の美少女たちの姿であった。

 

 

(…あ)

 

 

 タチバナの思考が、完全に停止した。目の前には月明かりに照らされたアリシア、メグ、セシリアの、一切の装甲を持たない完全なる全裸。先ほどまで塀の上から安全に鑑賞していた「至高の芸術」が、今は手の届く至近距離に存在している。

 

 だが、タチバナの脳内に歓喜の感情は微塵も湧き上がらなかった。代わりに彼の全身を支配したのは、魔王軍の幹部と対峙した時を遥かに凌駕する、絶対的な「絶望」と「死の恐怖」であった。

 

 

(終わった…完全に終わった)

 

 

 なぜ、自分がここにいるのか。

 なぜ、女湯の塀から落ちたのか。

 

 

 言い訳の余地など、どこにも存在しない。塀の上から落ちてきたという物理的法則が、彼の目的を「覗き見」であったと明確に証明している。しかも彼の鼻からは先ほどの過剰な興奮による鼻血が、無惨にも湯船の中にポタポタと滴り落ちているではないか。

 

 

(英雄としての社会的生命が、いや、それどころか物理的な命すらも、これで完全にジ・エンドだ! 王女に手を出そうとした不敬罪で即刻斬首か!? あるいは、魔法で黒焦げにされるのか!?)

 

 

 タチバナの頭脳が、必死に言い訳のロジックを検索する。

 

 

『刺客から逃げていたら足を滑らせた』? 無理だ、傷一つない。

『星を見ていたら落ちた』? なぜ女湯の塀の上に登る必要があるのか論破される。

 

 

 どれほど高度な理屈を捏ね回そうとも、この圧倒的な状況証拠を覆すことは不可能だ。

 

 タチバナは完全に状況を理解できず目を白黒させながら、ただ間抜けな顔で三人のヒロインたちと視線を交差させることしかできなかった。

 

 息の詰まるような沈黙。タチバナと三人の乙女たちの視線が、湯けむりの中で完全に絡み合った。

 

 そして。

 

 

「「「きゃあああああああ!!!」」」

 

 

 タチバナはその鼓膜を破らんばかりの絶叫を真正面から浴びながら、己の愚かさを呪い、ただ硬直することしかできなかった。

 

 

『素晴らしい夜の余興でした。これほど見事な自業自得の喜劇を、特等席で見せていただいたこと、心より感謝いたしますよ、勇者タチバナ』

 

 

 屋根の上から見下ろしているであろう精霊フィリアの、最高に冷酷でかつてないほどに生き生きとした嘲笑の思念が、タチバナの絶望に満ちた脳髄に響き渡った。

 

 タチバナの完璧に計算された覗き見計画は、彼自身の低俗な興奮と老練な女将の仕掛けた一枚の布切れによって、最も悲惨な形で崩壊した。

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