俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
山間から湧き出る豊富な湯が、岩造りの広い露天風呂を満たしている。夜空には煌々とした満月が浮かび、立ち上る真っ白な湯けむりに月光が乱反射することで、女湯全体が真珠のように幻想的な光に包み込まれていた。
「はぁ~極楽、極楽。やっぱりおっきいお風呂は最高だね!」
赤毛を頭の高い位置でまとめた天才魔法使いメグ・フレイムハートは、肩までたっぷりと湯に浸かり、手足を大きく伸ばして心地よさそうな声を上げた。
彼女の身体には、日々の戦闘で酷使された魔力回路の疲労が蓄積していた。高火力の魔法を行使することは、体内の魔力経路に摩擦熱を生じさせる。
この温泉の豊かな地脈のエネルギーを含んだ湯は、その疲労した魔力経路を優しく冷やし、同時に新たな活力を補給する極めて理にかなった効能を持っていた。
「ええ、本当に。四天王たちとの戦いで知らず知らずのうちに、身体に力が入っておりましたから」
桜色の髪を湯に浸さないようタオルでまとめた僧侶セシリア・ホワイトリリーも、湯船の縁に頭を乗せ、うっとりと目を細めた。
彼女の治癒魔法は、神への祈りと共に己の生命力を対象に分け与えるという、精神と肉体の両面を激しく消耗する術理に基づいている。温かな湯が皮膚の表面温度を上げ、血流を促進させることで、その失われた生命力がじんわりと内側から満ちていくのを感じていた。
そして、湯船の少し手前にある洗い場では、王女騎士アリシア・フォン・ローゼンバーグが、黙々と豊かな金髪を洗い流していた。
普段は分厚い鋼の甲冑で全身を覆い、騎士としての警戒を片時も解かない彼女だが、今夜ばかりはその表情から険しさが嘘のように消え去っていた。甲冑の重みから解放された引き締まった筋肉が、温かい湯を浴びることで心地よく弛緩していく。
戦いの日々を忘れさせてくれる、穏やかで静かな時間。三人の乙女たちは、この柔らかな静寂がずっと続けばいいのにと、湯けむりの中でぼんやりと思っていた。
しばらくの間、湯が岩を打つ微かな音だけが響いていたが、やがてぽつりとメグが沈黙を破った。
「…ねえ、二人とも。あの女狐…四天王リリスに見せられた夢のこと、覚えてる?」
その言葉が落とされた瞬間、アリシアの髪を洗う手がぴたりと止まり、セシリアの白い肩がびくりと小さく震えた。
メグは、温泉の熱気だけではない理由で顔をほんのりと赤く染めながら、ゆっくりと語り始めた。
「リリスが使ったのは、対象の精神の深淵を読み取り、魂が最も渇望する『理想の世界』を強制的に具現化して見せる、精神支配の最上位魔術…あたし、あの術の中で…勇者様と、結婚してたんだよね」
メグの告白は、静かな湯面に波紋を広げた。
「勇者様と一緒に、歴史から失われたようなすっごい魔法を完成させて…世界中の人たちに祝福されて…」
メグが幸せそうに目を伏せる。セシリアもまた、両手で湯の中の自分の身体を抱きしめるようにして、消え入りそうな声で打ち明けた。
「わ、私もです…。タチバナ様と争いのない平和な村で…たくさんの可愛い子供たちに囲まれて暮らす夢を見ていました…」
赤毛の魔法使いと、桜色の髪の僧侶。二人の視線が、自然と洗い場に背を向けて座っている金髪の王女騎士へと集まった。
アリシアは背中を向けたまま、何も言おうとしない。しかし、彼女の耳の裏が、湯の熱とは明らかに違う鮮やかな朱色に染まっているのを、二人は絶対に見逃さなかった。
「…アリシアは、どんな夢だったの?」
メグの直球の問いかけに、アリシアはしばらくの間、木桶を見つめて黙り込んでいた。やがて観念したように、はっきりとした声で呟いた。
「…父上に、祝福されていた。一人の女性として…タチバナ様との、結婚を…」
三人の間に、ほんの少しだけ気まずい沈黙が流れた。王国の重圧から解放され、一人の女としての幸せを掴む夢。魔法の真理の探求と、愛する者との共闘を両立させる夢。平和な日常の中で、無償の愛を育む夢。
それぞれの形は違えど、行き着く先の中心には常に「タチバナ」という一人の黒髪の青年の姿があった。
同じ男と、それぞれが幸せな未来の夢を見ていた。その抗いようのない事実は、これまで背中を預け合ってきた彼女たちの強固な友情に、複雑な感情の楔を打ち込んでいた。
「でもさ、あれって、あたしたちの心の中にある『一番欲しいもの』を見せる術式なんでしょ?」
メグが、魔術的な理論に基づいて核心を突いた。
「つまり、あたしたち三人とも、その、勇者様のお隣に立つことを心の底から望んでいるってことだよね」
それ以上、直接的な言葉は続かなかったが、その意味するところは三人とも痛いほどに理解していた。
アリシアは洗い終えた長い金髪をきつく絞りながら、自らの騎士としての理性を必死に保とうと、自分に言い聞かせるように言った。
「あれは、敵の魔族が我々の精神の隙を突き、戦意を削ぐために見せた卑劣な幻影だ。あのような根拠のない夢想に惑わされてはならん。我々の使命は、あくまでタチバナ様を魔王討伐へとお導きすること」
「でも、もし…もし、本当に、そうなったら?」
メグが、湯船の中から挑発するように、アリシアの背中を見つめた。
「勇者様は私たちの中の、誰か一人しか選べないんだよ?」
あまりにも現実的で直接的な言葉に、アリシアはぐっと言葉に詰まった。
一夫一婦という世界の理がある以上、英雄の隣に並び立つ正妻の座は、たった一つしか存在しない。騎士としての忠誠と、一人の乙女としての独占欲。その二つが、アリシアの胸の中で激しく衝突し、火花を散らしている。
セシリアは、二人の間に漂い始めた見えない剣呑な空気に、オロオロと視線を泳がせるばかりであった。
(そ、そんな…選ぶなんて。私はただ、タチバナ様の御心の安らぎになれればそれで…)
そう思いながらも、彼女の心臓はチクリと痛んだ。「選ばれないかもしれない」という想像が、彼女の中に眠っていた女性としての静かなる執着心を、確実に目覚めさせていたのだ。
湯けむりの中で、三人の乙女たちの心は、穏やかならぬ想いで激しく揺れ動いていた。
彼女たちは、今頃、自室で孤高に魔王軍との戦術を練っているであろう、清廉潔白で高潔な勇者の姿を思い浮かべている。
自分たちがこれほどまでに思い悩み、未来の選択権を巡って火花を散らしているその男が、今まさに、自分たちの裸体を塀の上から下劣な目つきで眺めようと潜伏しているという、あまりにも残酷でくだらない真実など、彼女たちは知る由もなかった。
「…タチバナ様は、今頃どうしておられるだろうか」
気まずい空気を払拭するように、アリシアがぽつりと呟いた。
「夕食の席を立たれる際、『傷が痛む』と仰っていた。ご自身は無傷のように見せておられたが、やはり四天王との死闘は、我々には計り知れない内なる負担を強いていたのに違いない。今頃、自室で痛みに耐えながら、明日の行軍の策を練っておられるのだろう」
「そうだね…勇者様、すごく我慢強いから。あたしたちに心配かけまいとして、無理してるのかもしれない」
メグも、同意するように深く頷いた。
「湯上がりには、私が必ず治癒の祈りを施しに伺わなければ…あの方の孤独な痛みを、少しでも分かち合いたいです」
セシリアが、胸の前で両手を組み、祈るように目を閉じた。
三人の乙女たちの心は、再び「勇者タチバナへの絶対的な尊敬と献身」という一つの強固なベクトルへと統合されていった。恋のライバルである前に、彼を守るための最強の盾であり、剣であり、癒やし手であること。
それこそが、彼女たちに課せられた絶対の真理であった。
三人の間に再び確かな絆を感じさせる沈黙が流れた、その時だった。
ザッッッッッバーーン!!!
突如として背後の広大な湯船の中央から、信じられないほどの巨大な水柱と轟音が上がった。
「「「きゃっ!?」」」
三人は驚愕に目を見開き、一斉に振り返った。何が起きたのか、彼女たちの極めて優秀な頭脳をもってしても、全く理解が追いつかない。
魔物の襲撃か? だが侵入を知らせる魔力反応も殺気も、何一つ感知できなかった。上空から質量のある物体が投下されたとしか思えない、圧倒的な物理的衝撃。
波立ち、荒れ狂う湯船の水面から。ゆっくりとゴボゴボとむせるような音を立てて、一つの人影が姿を現した。
湯に濡れ、顔にへばりついた黒髪。宿屋の浴衣を水浸しにし、完全に状況を理解できず目を白黒させている、あまりにも見慣れた間抜けな男の顔。
そしてその鼻からは赤い血が一筋、ツーッと垂れ落ちている。
それは間違いなく。
自分たちの主であり、絶対的な尊敬と憧憬を抱き、つい数秒前まで「痛みに耐えながら高潔な戦術を練っておられる」と信じて疑わなかった、勇者タチバナの姿であった。
「「「……エッ?」」」
アリシア、メグ、セシリアの三人の論理回路が、完全に、そして同時に機能を停止した。
時間が、凍りついたように止まった。
アリシアは手に持っていた木桶を、ぽとりと石の床に落とした。
メグは半開きの口から「あ」とか「う」とか、意味をなさない空気の漏れる音だけを発した。
セシリアは湯船の中でへたり込んだまま、両手で自らの豊満な胸をぎゅっと本能的に隠した。
なぜ。
どうして。
あの、高潔なるタチバナ様が。
自分たちが、一切の衣類を纏わずにいる、この女湯の、湯船のど真ん中に、降ってきたの……?
永遠にも感じられる絶対的な沈黙。
最初にその物理的状況を「羞恥」という概念として認識したのは、誰だったのか。
「「「きゃああああああ!!!」」」
三人の、完全にシンクロした、鼓膜を突き破るかのような絶叫が、温泉郷の静かな夜空に、凄まじい反響をもって木霊した。
それは敵に対する恐怖でもなく、単なる驚きでもない。極限の羞恥と、状況に対する完全な混乱。
思いを寄せる男性が、突如として全裸の自分の目の前に現れたことに対する、自分でも理解不能な「倒錯したときめき」がぐちゃぐちゃに混ざり合った、乙女たちの魂の底からの悲鳴であった。
幻想的な月明かりの桃源郷は一瞬にして、勇者タチバナにとってのこの世の終わり──すなわち絶対絶命の修羅場へと、その姿を変貌させたのである。
女将「あたしゃこの宿を先代から継いで、もう五十年になるけどねぇ…女湯の湯船に、空から男が降ってきたなんて話は、さすがのあたしでも、一度も聞いたことがないよ……」