俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
山の稜線が白み始め、夜の深い闇が徐々に薄青い朝の光へと溶けていく頃。聖剣の精霊フィリアは、極めて冷ややかな視線を、客室に敷き詰められた畳の上へと落としていた。
彼女は質量を持たぬ霊体のまま壁に寄りかかり、昨夜から一晩中繰り広げられた、この世で最も滑稽な裁判の終幕を静かに観測していた。
部屋の中央には、ぐったりと肩を落とし、畳の上で力なく正座させられている主、タチバナの姿がある。その目の前には、乱れた浴衣の襟元を直し、腕を組んで仁王立ちで彼を見下ろす三人の乙女たち──アリシア、メグ、セシリア。
昨夜の、温泉郷全体を揺るがすようなあの鼓膜を破る絶叫から始まり、夜が明けるまで延々と続いた追及と尋問。それが今、ようやく一つの結論へと到達しようとしていた。
フィリアは、タチバナの耳元にだけ届くよう、魔力の波長を絞って冷徹な思念を送り込んだ。
『さて。どうやら、ようやくこの見苦しい茶番も終わるようですね』
タチバナは、目の前のヒロインたちに悟られないよう口元の動きを最小限に抑え、かすれた音声で反論を呟いた。
「うるさい…! お前のせいで、俺は死ぬかと思ったんだぞ! なんで落ちる前に助けてくれなかったんだ!」
周囲からは、彼が自責の念に駆られて何事か懺悔を呟いているようにしか見えないだろう。だが、フィリアの聴覚は、その身勝手極まりない責任転嫁の言葉をはっきりと捉えていた。
『自業自得、という言葉の定義をご存じですか? 己の浅ましい欲望に忠実に行動し、足元の物理的な障害物を見落として勝手に自滅したのです。私が介入する義理など世界のどこを探しても存在しません。それに、私は貴方がどのような言い訳の才能を発揮するのか、最後まで見届けてみたかったので』
タチバナが昨夜、三人の少女の氷のような視線を浴びながら絞り出した弁明は、フィリアの想像を遥かに超えるほどに図々しく、かつ苦し紛れの極みであった。
『昨夜、四天王リリスとの戦いで負った、目に見えない精神の傷が急に激しく痛んだのだ。その苦痛のあまり、夢遊病のように無意識のうちに宿を徘徊してしまったらしい。気づいたら、空から湯の中に落ちていた。なぜそこが女湯だったのか、俺自身にも全く記憶がないんだ…』
それが、タチバナの提示した解答であった。人間の精神が極限の負荷を受けた際、記憶の欠落や異常行動を引き起こすという医学的・魔術的な理屈を悪用した、実に見え透いた詐術。フィリアはこれを聞いた瞬間、もし自分が肉体を持っていたならば呆れ果てて卒倒していただろうと確信した。
だが、人間の心理構造とは恐ろしいものだ。驚くべきことに、ヒロインたちは最終的にその破綻した言い分を「真実」として完全に受け入れたのである。
もちろん、最初は深い疑念を抱いていた。しかし、彼女たちの精神の根底には「タチバナ様ほどの気高き御方が、覗きなどという卑劣な真似をするはずがない」という、揺るぎない絶対的公理が存在している。
その前提と眼前の事実を合致させるため、彼女たちの優れた知性は、自らの論理を強制的に捻じ曲げたのだ。
『リリスの強力な幻術による後遺症に違いない』『精神の均衡を崩すほどに、私たちのために独りで過酷な戦いを背負ってくださったのだ』と。
客観的真実よりも、自らが信じたい偶像の保護を優先する。フィリアは、人間の知性が持つこの致命的な欠陥を前に、深い嘆息を漏らすしかなかった。
出発の準備が整い、一行は「月見荘」の玄関へと集まっていた。朝の澄んだ空気が満ちているというのに、彼らの間に横たわるのは、かつてないほどに重く、気まずい沈黙であった。
タチバナは徹夜の尋問による疲労で頬をこけさせながらも、必死に平静な指導者の仮面を張り付けようと努めている。
一方、その後ろに控える三人のヒロインたちの態度は、フィリアの予測をわずかに、しかし決定的に裏切るものであった。
彼女たちの顔には、男に裸を見られたことに対する純然たる怒りや軽蔑は存在していない。むしろ、彼女たちの頬はほんのりと桜色に染まり、タチバナと目が合うたびに、弾かれたように視線を逸らしては俯くという、極めて情緒不安定な挙動を繰り返していた。
フィリアは、高位精霊の知覚能力を行使し、彼女たちの魂が発する思念の波長を静かに読み解いていった。
王女騎士アリシアの波長は、強烈な羞恥と、己の身体を晒してしまったことへの奇妙な納得感に揺れていた。
(見られた。タチバナ様に、私の肌を。ああ、なんという不覚だ。しかし…あの御方に、私の女性としての全てを知られてしまったのだ。共に死線を越える者として、いよいよ隠し事はなくなったのだと思えば…)
天才魔法使いメグの波長は、混乱と、倒錯した熱を帯びている。
(勇者様に、裸、見られちゃった…。きゃー! どうしよう! でも、びっくりしたけど、ちょっとだけドキドキしちゃったかも…これって、あたし、もうお嫁に行けないのかな!? だったら、勇者様にちゃんと責任とってもらわないと…!)
僧侶セシリアの波長は、罪悪感と、それを上回る情熱の渦であった。
(タチバナ様に、私のこのような…はしたない身体を見られてしまうなんて。ああ、聖母様、お許しください。ですが…あの御方が、私の秘密の全てをご存じになったのだと考えると、胸の奥が熱く疼いて…)
フィリアは、読み取ったその精神状態の惨状に、霊体の頭を抱えそうになった。
(駄目ですね、この三人。もはや完全に手遅れです。怒りや警戒心を抱くべきところで、あろうことか『裸を見られた特別な関係』という、新たな、そしてより危険な勘違いの領域へと突入してしまっている。男の醜態すらも、己の恋心に薪をくべる燃料へと強引に変換してしまうとは。人間の発情機能は、論理を凌駕するのですね)
タチバナは、ヒロインたちの異様な態度に戸惑い、視線を彷徨わせながら、唇をわずかに動かして小声でフィリアに尋ねた。
「おい、フィリア。なんだ、あいつらのあの反応は…? なんで俺の顔を見て顔を赤くして逃げるんだ。やっぱり、あの言い訳を信じてなくて、まだ怒ってるのか?」
フィリアは、彼女たちの真の思念を伝えることを意図的に放棄した。この愚かな主に真実を与えれば、さらに調子に乗り、より下劣な行動を引き起こすことは火を見るより明らかだからだ。彼女はあえて彼をからかうことにした。
『さあ? 或いは、貴方の言い訳を頭では理解しても、感情が信じきれず、まだ怒りを持て余しているのかもしれません。或いは湯の中で貴方の貧弱で無様な裸の全貌を見てしまい、そのあまりの魅力の無さに、心の底から幻滅しているのかもしれませんね』
「な、なんだと!?」
タチバナが思わず少し大きな声を出し、慌てて口元を押さえる。ヒロインたちがビクッと肩を揺らしたが、すぐにまた恥ずかしそうに俯いた。
フィリアはプライドを傷つけられて内心で地団駄を踏む主の様子を、密かな愉悦と共に楽しんでいた。
一行が宿の玄関を出ると、そこに一人の人物が待っていた。「月見荘」の女将、おトキである。彼女は朝の光の中で何もかもを見透かしたような、にこやかな笑みを浮かべていた。
「勇者様一行。昨夜は、よくお休みになれましたかな?」
その平坦でありながらも確実に棘と含みを持たせた口調に、タチバナの肩がびくりと大きく跳ねた。
ヒロインたちも、バツが悪そうに顔を伏せている。
おトキはそんな居心地の悪そうな一行の様子を、底知れぬ余裕を持って楽しそうに見渡した。そして最後に、タチバナの正面へとゆっくりと歩み寄り、着物の袖から小さな布袋を取り出して、そっと手渡した。
「これはうちの宿からの、ささやかな餞別さね。山の奥深くで採れた、滋養強壮に特別よく効く秘伝の薬草を詰めておいたよ」
タチバナが戸惑いながら布袋を受け取ると、女将はお辞儀をするふりをして彼に顔を近づけ、タチバナの耳元にだけ届くような小さな声で囁いた。
「あんまり興奮しすぎて鼻血を出すと、身体に毒だからねぇ。達者でな、勇者様」
「ひっ…!」
タチバナの口から、引きつった短い悲鳴が漏れた。
彼の顔面から全ての血の気が失われ、純白に染まる。女将のその言葉は、昨夜の事態の真実──タチバナが自らの意思で覗きを行い、興奮のあまり鼻血を出し、罠にかかって転落したという事実を、彼女が最初から最後まで完全に掌握していたことを意味していた。
タチバナは、絶対的な弱みを握られた恐怖に顔を引きつらせ、布袋を握りしめたまま、引きつった愛想笑いを返すことしかできなかった。
フィリアはその見事なやり取りを特等席で観測し、己が一方的に同志と認定した女将の、最後の最後まで手を緩めない粋な計らいに対し、霊魂の底から最大限の敬意を送った。
『素晴らしい方でしたね、あの女将。貴方という存在の浅ましい本質を、一切の曇りなく完璧に見抜いていました。人間の知性の到達点とも言える御仁です。実に、惜しい方を亡くしました』
タチバナは、歩き出しながら口元を歪め、音声の乗った小声で吐き捨てた。
「死んでねえよ! 勝手に殺すな!」
気まずさと疲労、そして微かな恐怖を引きずったまま、勇者一行は湯けむりの温泉郷を後にした。
朝霧が残る険しい山道へと足を踏み入れる。
フィリアは一行の少し後方の空中に留まり、彼らの歩み全体を俯瞰していた。
先頭を歩くタチバナの、警戒心に満ちたどこか頼りない背中。そしてその後ろを、一定の距離を保ちながらも、時折互いに牽制し合うような視線を交わしながら、もじもじとついていく三人のヒロインたちの姿。
(…それにしても、驚くべきは彼のあの悪運の強さです)
フィリアは、極めて冷静な論理で事象を総括する。女湯を意図的に覗き見るという、英雄としての名誉を完全に失墜させる最低の犯罪的行為。
それが発覚したにもかかわらず、彼の咄嗟の虚言とヒロインたちの「勇者は高潔である」という強固な思い込みが化学反応を起こし、結果として「魔術の後遺症による悲劇」へと見事に変換されてしまった。
さらには「裸を見られた」という事実すらも、怒りではなく、恋愛感情を一段階引き上げるための特別なイベントへと昇華させてしまったのだ。
(彼の土壇場で見せる言い訳の構築能力と、彼女たちのあらゆる矛盾を自己都合で捻じ曲げる強靭な勘違い能力。この二つの異常な性質が完璧に噛み合った時、このパーティの精神構造はある意味で世界で最も強固な、無敵の要塞となるのかもしれませんね)
魔王軍のいかなる精神攻撃も、彼女たちの「タチバナへの絶対的信仰」の前には無力化されるだろう。真実が最も滑稽であるという事実を除けば、これは極めて優秀な防衛機能である。
フィリアはこのどうしようもない男に率いられた、どうしようもない一行の旅路が、まだしばらくは退屈せずに楽しめそうだと静かに結論付けた。
(さて次は、一体どのような喜劇を見せてくれるのでしょうか)
感情を持たないはずの彼女の、人形のように整った唇の片端が、ほんのわずかだけ、再び吊り上がった。
フィリアは温泉郷から離れてようやく安心したのか、少しずつ元気を取り戻し、鼻歌でも歌い出しそうなほどに足取りが軽くなった主の隣へと、すっと姿を現した。
『ところで。一つだけ確認しておきたいのですが』
フィリアの突然の問いかけに、タチバナが横目で彼女を見る。
『結局のところ、昨夜はどうだったのですか。…あっ、彼女たちの裸を見て、興奮しました?』
あえて核心を突く、悪戯心を込めた問いかける。タチバナはその言葉に一瞬だけむっとしたように眉をひそめたが、周囲のヒロインたちに聞こえないよう声のボリュームを落とす。
彼はすぐにニヤリと、どこまでも下劣で誇り高き笑みを浮かべた。
「おう! 最高だったぜ! だが、また次覗く機会があれば、今度こそ物理法則すら計算に入れた完璧な計画を立ててやる! その時は、お前にも索敵を手伝ってもらうからな!」
反省という概念を完全に欠落させた、全く懲りていない清々しいまでのクズな宣言。
フィリアは、もはや彼に対して怒りを感じる気力すら失っていた。自らの契約者が、ここまで純粋な欲望の塊であるという事実を、一つの自然現象として受け入れるしかない。
彼女は深々と、それはもう霊核の底から絞り出すように、一つだけ大きなため息をついた。
『仕方ありませんねぇ』
脳内に直接響いたその思念には呆れと深い諦観と、そして…ほんの少しだけ、このどうしようもない主と歩む予測不可能な旅路を、心から楽しんでいるかのような微かな響きが、確かに含まれていたのかもしれない。