俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
王都諜報部から届けられた情報を頼りに辿り着いた先は、鬱蒼とした深い森の奥、切り立った岩壁にぽっかりと口を開ける、不気味な洞窟であった。
入り口に刻まれた風化しかけた古代文字が、ここが目的の場所──古代迷宮『賢者の試練』であることを示している。
次の四天王、”策士”インテリオは、この迷宮の最深部を根城にしているという。
王女騎士アリシア・フォン・ローゼンバーグは、剣の柄にそっと手を添え、緊張の面持ちでその暗い入り口を見上げた。
「…策士、か。物理的な罠だけでなく、知的な試練も数多く待ち受けているに違いない」
アリシアは、自らに言い聞かせるように呟いた。魔王軍の幹部が根城にするほどの迷宮である。一歩足を踏み入れれば、そこは死と隣り合わせの戦場となる。
(油断はできん。私がこれまで王宮騎士団で培ってきた戦術知識と経験の全てを、タチバナ様のために役立てなければ)
彼女が胸の内で決意を新たにしていると、隣で赤毛の天才魔法使いメグが、好奇心に満ちた瞳で入り口の古代文字を指差した。
「へぇー、これ、第三期古代魔導文明の文字だ。こんなに綺麗に残ってるなんて、結構レアなんだよねー。解読すれば、罠の傾向とか分かるかも!」
さらにその後方では、僧侶セシリアが、洞窟から吹き出してくる淀んだ冷たい空気に、わずかに眉をひそめていた。
「あまり良い気配はしませんね。魔の淀みが奥底に溜まっているような…皆様、どうかお気をつけてくださいませ」
三者三様の緊張と覚悟。そのただ中にあって、彼女たちの指導者である勇者タチバナだけはどこか気だるげな表情を浮かべ、腕を組んで黙って立っていた。
アリシアはその姿に、いつも通りの絶対的な信頼感を覚えていた。
(タチバナ様は、いつもそうだ)
未知の強大な敵の領域を前にしても、彼の表情には焦りや恐怖の色は一切ない。
(我々が、目の前の脅威や不気味な雰囲気に心を囚われている時も、この御方だけは、常にその先を、戦いの結末そのものを見据えておられる。だからこそ、この陰鬱な迷宮を前にしても、こうして泰然自若たる態度を崩さないのだ。その岩山のような落ち着きが、我々にどれほどの勇気を与えてくれることか…)
アリシアはタチバナのその「早く宿屋に帰って寝たい」という怠惰と疲労からくる無表情を、「死線を見極めた達人の静寂」として完璧に誤訳し、深い尊敬の念を抱きながら、彼の後に続いて迷宮の奥へと足を踏み入れた。
迷宮に入ってすぐ、冷たい石造りの通路は前触れもなく二手に分かれていた。右と左、松明の光も届かない奥深くまで暗い口を開ける、全く同じ構造に見える二つの通路。
一行の歩みが止まった。この先の道を選ぶため、三人の乙女たちはそれぞれの専門知識を駆使し、真剣な表情で議論を交わし始めた。
「左の通路は、足元の敷石や壁の石材の劣化が少ない。つまり、建設された年代が右の通路よりも新しい可能性がある。通常、より重要な防衛区画は、中枢を隠すために後から増設されると考えるのが築城の定石だ。左が正解の道である確率が高い」
アリシアが、王宮騎士として学んだダンジョン構造学の知識を理路整然と披露する。
「うーん。でも空気中の魔力の残留濃度を測ってみると、右の方の通路がほんの少しだけ高いんだよね。これは過去により強力な魔術的なトラップや、膨大な魔力を持つ存在が、右の通路に配置されていたってことじゃないかな? 重要な道ほど、警備の魔術は厳重なはずだよ。だから、右の方が怪しい」
メグがアリシアの物理的な見地とは全く逆の、魔導士としての魔力感知の観点から反論を展開する。
「お二人とも、お待ちください。通路の奥から反射してくる、風の反響音の質が、左右でわずかに異なります。右の通路の奥は、音がより拡散していくような響きを持っていますわ。つまり、広い空間…あるいは、巨大な落とし穴のような罠が存在する可能性も、捨てきれません」
セシリアが、僧侶ならではの鋭敏な聴覚と空間認識力で、新たな危険の可能性を示唆する。
構造学、魔力探知、音響解析。
三者三様の、実に高度で、学術的であり、そして全く結論の出ない平行線の議論。
その高度な知的推論の応酬をただ一人、タチバナだけが黙って見守っていた。彼は腕を組み壁に寄りかかり、目を細めてじっと虚空を見つめている。
やがて堂々巡りの議論に終止符を打つように、タチバナが有無を言わせぬ絶対的な響きをもって告げた。
「右だ」
その短く確信に満ちた一言に、三人はハッと息を呑み議論を止めた。
アリシアは、全身に鳥肌が立つのを感じていた。
(すごい。我々三人が、それぞれの専門分野から必死に導き出し、互いに矛盾し合っていた結論。その全ての要素を、この御方は一瞬で統合したというのか…!)
右か、左か。論理だけでは導き出せない二者択一の状況において、指揮官の決断力こそが部隊の生死を分ける。
(我々には見えない、全く別の『何か確固たる真理』を根拠に、答えを導き出された…! これが、真の指導者の『直感』…!)
メグもまた、興奮に琥珀色の瞳を輝かせていた。
(うわー、かっこいい! あたしたちが、ごちゃごちゃ理屈をこねて悩んでたのが馬鹿みたいじゃん! 勇者様は、魔力とか構造とかそういう次元を超えた、もっと凄い力で最初から答えが分かってたんだ!)
セシリアは迷いなく右の通路へと歩き出すタチバナの背中に、神々しさすら感じていた。
(ああ、タチバナ様。私たちは、なんて浅はかなのでしょう。この御方の前では私たちの知識など、手探りで歩く赤子の戯言にも等しいのですね…)
その後も、タチバナの人智を超えた采配は続いた。それに付随するように、ヒロインたちの心を激しく揺さぶる、数々の「あり得ないハプニング」が彼女たちを襲い始めたのである。
「勇者様! この床、重量を感知して無数の矢が飛び出してくる物理トラップの可能性があるよ! 私が魔力探知で、安全な床の法則を見つけ出すから、少し待ってて!」
メグが前に出て術式を編み上げようとしたが、タチバナはそれを片手で制し、全く警戒する様子もなく、スタスタと通路を歩き出した。
彼は通路の真ん中の、少しだけ石の色が明るい部分だけを、ひょいひょいと軽快なステップで踏んでいく。
(なんなの、あの人! 魔力探知も使わずに、なんで安全な床の配置が分かるわけ!? まさか、床石のわずかな摩擦係数の違いや、仕掛けの重心のズレを、目視だけで完全に計算しているっていうの!?)
メグが驚愕している間に、タチバナは全てのトラップを起動させることなく、通路の終わりまで到達しようとしていた。
(彼はただ「掃除されていて埃の積もっていない真ん中の床を歩けば、靴が汚れない」という怠惰な理由で歩いていただけなのだが、メグには知る由もない)
その時である。通路の魔力供給が突如として途絶え、空間が完全に真っ暗闇に包まれた。
「きゃっ!?」
「停電!?」
メグが驚きの声を上げた、その直後。背後から強い衝撃と共に、大きな質量が彼女の上に倒れ込んできた。
タチバナであった。
そして、むにゅっ、と。
自分の右の胸に信じられないほど柔らかく力強く、温かい感触が押し付けられた。それがタチバナの大きく分厚い手のひらであることを、メグの天才的な頭脳が理解するのに数秒の遅延が生じた。
「ひゃあっ!?」
しかも、その手はただ触れただけではない。暗闇の中で何かの形状を確かめるかのように優しく確かな力強さを持って、彼女の胸の膨らみを揉むように動かしたのだ。
メグの全身の血液が、爆炎魔法を暴走させたかのような熱を持ち、一気に顔へと集中した。頭の中が真っ白になる。
(な、なななな、何を…! ゆ、勇者様があたしの、胸を…!?)
パッ、と通路に明かりが戻る。
タチバナは何食わぬ顔で手を離し、「すまん、メグ。急な暗闇で平衡感覚を失い、何かの石柱にぶつかったかと思って、思わず強く掴んでしまったようだ。怪我はないか?」と爽やかな声で謝罪した。
事故だ。これは、暗闇が引き起こした不可抗力の事故だ。そうメグは自分に言い聞かせようとした。
しかし彼女の胸の先端に残った、あの大きくて温かかった手の感触と、全身を駆け巡った電流のような痺れる感覚が、どうしても消えてくれなかった。
完璧な英雄の、思いがけないオスとしての力強い接触。メグの顔は彼女の赤い髪よりもさらに赤く、熟れたリンゴのように真っ赤に染まっていた。
(う、うそ。なんであたし…こんなことされたのに、嫌じゃないんだろう…? ううん、嫌じゃないどころか…もっとって思っちゃった…かも…)
複雑な古代文字が刻まれた仕掛け扉。アリシアがその解読に挑もうとした矢先、タチバナが「これだろ」という何の根拠もない理由でど真ん中のボタンを押し、正解ルートへの扉を開いた。
それは同時に、足元の床が開くという物理トラップの起動スイッチでもあった。
「「「きゃあああああ!」」」
アリシアは、突然開いた床から長い斜面を滑り落ちる際、咄嗟に受け身を取ろうとした。王女騎士として、指揮官の前で無様な姿は晒せない。
着地の衝撃と仲間たちとの予期せぬ衝突により、彼女の身体はコントロールを失い、下の階層の床を激しく転がった。
ハッと気づき、目を開けた時。彼女は自身の騎士としての人生において、最も信じられない、そして最も屈辱的な状況に陥っていることを理解した。
タチバナが仰向けに倒れた自分の、足の間に顔を埋めるような形で倒れ込んでいたのだ。
そして、自分の金属製のスカートアーマーが落下の風圧で大きくめくれ上がり、普段は厳重な装甲の下に隠し、決して誰にも見せることのない、気品あふれる純白のレース生地に包まれた「最も秘められた場所」が、彼の目の前数センチの距離で、完全に一切の障害物なく晒されている。
「…」
アリシアの思考は、完全に停止した。
羞恥。屈辱。
騎士としての、最大の失態。王族としての尊厳の崩壊。通常であれば、即座に相手を斬り捨ててもおかしくない状況だ。
不思議なことに彼女のすぐ間近にあるタチバナの整った、そしてどこか恍惚としたような寝顔を見ていると、怒りの感情は全く湧き上がってこなかった。
むしろ、その逆だった。
(見られた。このタチバナ様に。私の最も女性らしく、そして最も無防備な部分を…)
それは彼女にとって絶望的な状況のはずなのに、心のどこか深い場所で、奇妙な、甘く痺れるような疼きが生まれていた。
(もう私は、この御方のものだ。忠誠を誓う騎士としてだけでなく…一人の、女としても。この方に私の全てを捧げなければならない…)
アリシアは、顔を首の根元まで真っ赤に染めながら、「…タチバナ様? だ、大丈夫ですか…? その…少し、息苦しいのですが…」と、か細い声で彼を現実に引き戻すことしかできなかった。
さらに進んだ先。四方の壁が迫ってくる圧殺トラップの部屋。アリシアたちが必死に魔力回路を分析して止めようとする中、タチバナは「ここだけ風通しが良くて涼しいから」という理由で、一人だけ部屋の隅へと移動した。
直後、彼らが立っていた場所の天井が轟音と共に崩落した。タチバナの移動した場所だけが、唯一の安全地帯だったのだ。
(神懸かり的な予知能力…! この御方は、本当に人間なのでしょうか…!)
セシリアが戦慄したのも束の間、今度は崩落の衝撃で足元の床が激しく揺れ始めた。
「うわっ!?」
立っていられなくなったタチバナが、後ろにいたセシリアの方へと大きく体勢を崩して倒れ込んでくる。彼が、咄嗟に何かを掴んで体勢を立て直そうと伸ばした手。
それが、セシリアの分厚い僧侶服の上からでもはっきりと分かるほどに大きく、そして柔らかく弾力に満ちた、彼女の豊かなお尻の双丘を見事に、両手でがっしりと鷲掴みにしたと理解した瞬間。
「ひゃんっ!?」
セシリアの口から自分でも信じられないような、甘く情動を刺激するような声が漏れた。
大きくて力強い男性の手。それが聖職者として決して触れられることの許されない、自分の最も女性的な部分を確かめるように掴んでいる。
背徳感、罪悪感。それと同時に、彼女の身体は極めて正直な反応を示した。
腰が砕けそうになるほどの、強烈で甘い痺れが、掴まれた場所から背骨を駆け上がっていく。
(あ、ああ…神よ。私は、なんてはしたない女なのでしょう…。こんな破廉恥なことをされて…いけないことなのに…身体の奥が熱くて…どうにかなってしまいそう…)
彼女は極限の羞恥と神への罪悪感と、それに抗うことのできない強烈な快感の渦の中で完全にパニックに陥っていた。
タチバナが何食わぬ顔で手を離し、「すまん、大丈夫か?」と、どこまでも優しく爽やかに声をかけてくる。その優しい声が、今の彼女には、甘く、危険な悪魔の囁きのように響き、彼女の心をさらに深い混乱の淵へと沈めていくのだった。
迷宮の安全な小部屋で、束の間の休息を取っていた時。立て続けに起きた、あまりにも都合の良い、そして乙女の尊厳を激しく揺さぶるハプニングの数々。
三人はそれぞれが内心で激しい混乱と興奮の嵐に見舞われ、頬を赤く染めながら無言で座っていた。タチバナと目が合うたびに、恥ずかしそうに視線を逸らしてしまう。
しかし彼女たちの優れた知性と、タチバナに対する絶対的な信仰心は、この異常な事態に対して驚くべき共通の結論を導き出していた。
(これも、タチバナ様の、深遠なるお考えの内なのかもしれない。我々の心の隙、女性としての弱さを突くための、高度な精神的試練…? あるいは、羞恥を乗り越えさせるための荒療治…?)
アリシアは、熱を持った頬を押さえながら考える。
(あたしが女だってことを意識させるための、勇者様流のちょっと不器用で強引なアプローチ…? きゃー! だとしたら超大胆すぎ!)
メグは、胸の高鳴りを抑えきれずに両手で顔を覆う。
(これは、神が私に与えたもうた、過酷な試練…。この不浄で甘美な感情を乗り越え、自己を律してこそ、私は真に、タチバナ様の癒やし手としてお役に立てるようになるのです…!)
セシリアは、胸の前で十字を切り、固く目を閉じた。
三者三様の実に都合の良い、タチバナのクズな本性を完全に神格化する解釈。
もはや彼女たちにとってタチバナは、人知を超えた絶対的な信仰の対象であった。彼の行動の全てに何か深遠な意味と導きがあるのだと、疑う余地なく信じ込んでいた。
その時である。彼らが休憩していた小部屋の壁が、凄まじい轟音と共に崩れ落ちた。もうもうと立ち込める土煙の中から、巨大な岩石で構成された迷宮の守護者、ストーンゴーレムがその圧倒的な巨体を現した。
しかし今の彼女たちに、恐怖という感情は一ミリも存在しなかった。なぜなら自分たちが信奉する絶対的な「神」が、すぐ隣にいるのだから。
その神であるタチバナが、誰よりも情けない顔をして「ひぃいいいいいっ!」と悲鳴を上げていることに、彼女たちはまだ全く気づいていなかった。
「タチバナ様、お下がりください!」
「ここは、あたしたちに任せて!」
「あなた様の尊い御手を、このような石塊で煩わせるまでもありませんわ!」
三人は迷いなくそれぞれの武器と魔力を構え、ゴーレムの前に立ち塞がった。
その瞳には、先ほどまでの乙女の混乱の色はない。
あるのは、自分たちの神に絶対の信仰を捧げ、その身を守るための「聖戦」に挑む、美しくも恐ろしい狂信者の輝きだけだった。