俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
四天王インテリオが治めていた古代迷宮を突破し、勇者一行は新たな目的地へと到達した。
四方を高く堅牢な白い城壁に囲まれ、中央には天を突くような巨大な尖塔を持つ大聖堂がそびえ立つ、祈りと信仰の中心地──聖都サンクチュリアである。
一行が市門をくぐった瞬間、彼らを待っていたのは、王都への凱旋パレードをも凌駕するほどの、熱狂的で圧倒的な歓迎の嵐であった。
「勇者様だ! 勇者タチバナ様が来られたぞ!」
「ああ…なんと美しく、高潔な御顔立ち…! 私たちの光!」
沿道には身分を問わず無数の民衆が詰めかけ、その多くを占める年頃の美少女たちが、タチバナの姿を一目見ようと押し合いへし合いしながら黄色い歓声を上げていた。
中には、感極まって涙を流しながら花束を投げてくる者や、警備の兵士の制止を振り切ってタチバナの腕にすがりつこうとする者までいる。
(ふはははは! 見たか、俺のこの圧倒的な人気を! これも全ては、俺の洗練された美貌と、世界を救うという名目で振りまいた人徳のなせる業よ!)
タチバナは、左右から群がってくる美少女たちの芳しい香りと、布越しに伝わる柔らかい感触を全身で受け止めながら、内心で有頂天になっていた。
英雄というものは、常に民衆の希望の象徴であらねばならない。彼らが差し出す敬意と好意を無下にすることは、民の心を傷つける行為に他ならない。だからこそ、彼は誰に触れられても決して拒まず、平等に愛想を振りまいているのだ。
という、極めて身勝手な理屈で己の下心を正当化していた。
(うひょー! 聖都、最高だぜ! 信仰に篤い街だから貞淑な女ばかりかと思いきや、これほどまでにレベルの高い美女が入れ食い状態じゃねえか! ぐへへへ、どの子から手をつけて、俺の夜の熱烈な祈りのお相手をしてもらおうかな…!)
タチバナが目の前の少女たちの顔と身体の起伏を値踏みしながら、下劣極まりない夜の品定めを行っていたその時である。
彼のすぐ背後からぷくーと空気を頬に溜め込むような、明らかに不機嫌な音が三つ連続して聞こえてきた。
振り返ると王女騎士アリシアが腕を固く組んで、ツンとそっぽを向いている。その耳の裏は赤く、足の先で石畳を苛立たしげにコツコツと叩いていた。
魔法使いメグは、「あたしたちの勇者様なのに…! なんであんなに群がるのよ…!」と、唇を尖らせて小声で文句を垂れている。
僧侶セシリアは、何も言わずに少し悲しそうな顔で俯き、両手で自分の法衣の裾をぎゅっと握りしめていた。
そのあまりにも分かりやすい「嫉妬」の態度に、タチバナの胸の奥底でさらなる優越感と万能感が爆発的に膨れ上がった。
(ははは! 素晴らしい! 街の女たちだけでなく、この才色兼備な三輪の華までもが、俺という一人の男を巡って静かに火花を散らして争っている! これこそが、男として頂点を極めた、真の英雄の姿よ!)
タチバナが己のカリスマ性に完全に酔いしれ、緩みきっただらしない笑みを顔面いっぱいに浮かべようとした、まさにその瞬間だった。
『…脳内の花畑が満開になり、毒々しい色の花粉をまき散らしているところ大変恐縮ですが。貴方の、その一切の緊張感と知性を欠いた、だらしなく緩みきった顔面を、今すぐどうにかしてはいかがですか。あまりにも品性がなく、観測しているこちらの精神が汚染されそうです』
タチバナの隣の空間に透明化したまま浮遊している精霊フィリアから、絶対零度の冷水を浴びせるような思念が脳髄へと突き刺さった。
(うるさい! 英雄の凱旋と、民衆との交流という崇高な儀式の邪魔をするな!)
タチバナは、フィリアの的確すぎるツッコミを強引に跳ね除け、引き続き歓声の中で愛想笑いを振りまき続けた。
群衆の熱狂をようやく抜け出し、一行は目的の場所である、街の中央にそびえる大聖堂へと続く長い参道を進んでいた。
「で、アリシア。わざわざこんな厳かな場所に寄ったってことは、何か重要な用事があるんだろ?」
タチバナは周囲の目を気にしつつ、指揮官としての体裁を保つために「一応理由を知っているが、部下に確認してやっている」という態を装って尋ねた。
アリシアは、先ほどの嫉妬の余韻を隠すように一度小さく咳払いをしてから、真面目な顔つきで答えた。
「はい。次の四天王、そしてその先にいる魔王の討伐にあたり、我々の前に立ちはだかる最大の障壁。それは、魔王軍の幹部クラスが展開する『闇の結界』です。物理的な刃も、通常の魔術も、その結界の前では威力を著しく減衰されてしまいます」
メグが、横から補足するように口を開いた。
「そう! だから、その厄介な結界を中和して打ち破るためには、聖剣そのものが持つ浄化の力を、さらに限界まで引き上げる必要があるの。そのための『聖別の儀式』を行えるのが、この大聖堂の奥にいる最高位の聖職者だけなんだよ」
「その御方こそが、神の声を聴き、奇跡を体現すると言われる、聖女アナスタシア様です。タチバナ様の聖剣に、彼女の祈りが込められれば、魔王軍のいかなる邪悪な結界も、必ずや切り裂くことができるでしょう」
セシリアが、深い尊敬の念を込めて締めくくった。
彼女たちの真剣な説明を聞きながら、タチバナの内心は、およそ勇者らしからぬ怠惰な感想で満たされていた。
(聖女? ふーん。神の声を聴くとか奇跡を体現するとか、大仰な肩書きを持ってる奴に限って、実際はシワシワで説教くさい、頭の固いばあさんだったりするんだよな。全く興味が湧かん。まあ、俺が何もしなくても、儀式とやらで聖剣が勝手にパワーアップしてくれるっていうんなら、俺の生存確率が上がるわけだし、別に受けてやってもいいけどよ)
聖剣の強化=自分が戦わずに済む安全マージンの拡大。
それがタチバナの思考の全てであった。
『実に貴方らしい、下半身の欲求と自己保身のみで構成された興味の方向性ですね。ですが、残念ながら貴方のその浅はかな「説教くさい老婆」という予測は、このあと良い意味で貴方の理性を根底から揺さぶる形で裏切られることになりますよ』
フィリアの含みを持たせた思念が脳内に響く。
タチバナは、その言葉の真意が測りかねず首を傾げたが、一行はすでに、大聖堂の巨大な扉の前へと到着していた。
重厚な木の扉が開かれ、一行はステンドグラスから七色の光が差し込む、広大な大聖堂の「謁見の間」へと足を踏み入れた。
部屋の最奥、数段高くなった祭壇の前に、一人の人物が静かに立っていた。タチバナの視線が、その人物を捉えた瞬間。彼の心臓が、ドクンッ! と、これまでにないほど大きな音を立てて跳ね上がった。
そこにいたのは、シワシワの老婆などでは断じてなかった。
月光を紡いだかのような、艶やかで透き通るプラチナブロンドの長い髪。一切の穢れを知らない白磁のような肌。そして、その純白の肌に鮮烈な対比を描く、ルビーのように深く、神秘的に輝く赤い瞳。
身に纏っているのは、身体のラインを隠すようなゆったりとした純白の祭服であったが、それでも隠しきれない、女性としての柔らかな曲線美が、布越しにありありと伝わってくる。
それは言葉を失うほどの絶世の美少女であった。
(な…なんだ、この超絶美少女は…!?)
タチバナの脳内で、先ほどまでの「興味がない」という怠惰な思考が、莫大な爆薬によって一瞬で吹き飛ばされた。
(聖女って、こんなに、信じられないほどレベルが高かったのか!? 冗談じゃない、そこらへんの王族の姫君なんて目じゃないぞ! そして…あの、神聖そうで隙のない祭服の下は、一体、どういう構造になっているんだ…!? この神聖な場所にふさわしい、清楚な純白の下着か!? いや、逆に、抑圧された欲求の反動で、見えないところはとんでもなく扇情的な黒のレースだったりするのか!? 頼む、俺にその真実を……確かめさせてくれえええ!!)
タチバナの内心では、絶叫が暴風雨のように吹き荒れていた。だが彼はこれまでの旅路から、一つの重要な処世術を学習していた。
(いかん! ここで顔を緩ませて鼻の下を伸ばしたり、鼻血でも出そうものなら、隣にいるアリシアたちの好感度が暴落するだけじゃない。あの性格の悪い精霊から、何を言われるか、どんな物理的報復を受けるか分かったもんじゃない!)
タチバナの生存本能が、性欲の暴走にギリギリのところで強烈なブレーキをかけた。
彼は、全身の顔面筋を極限までコントロールし、表情を一切崩さず、むしろ、世界の悲しみを背負っているかのような、真剣で、どこか憂いを帯びた「高潔な勇者の顔」を完璧に作り上げた。
「お待ちしておりました、勇者タチバナ様。遠路はるばる、よくぞお越しくださいました」
聖女アナスタシアが、鈴を転がすような美しい声で、深々と頭を下げる。
その声を聞きながら、タチバナは外面では「…ああ。聖女殿の祈りの力、頼りにしている」と、低く響く声でクールに返しつつ、内心では(その声で俺の耳元で甘く囁いてくれえええ!)と身悶えしていた。
外面の完璧なポーカーフェイスと、内面で暴れ狂う下劣な欲望の嵐。そのあまりにも激しいギャップを、霊体として全て正確に読み取っているフィリアは心の底から呆れ果てていた。
『己の醜悪な本性を隠蔽し、外面だけを完璧に取り繕うという、猿でも数回教え込めばできる程度の知恵は、ようやく身についたようですね。ええ、実に大きな進歩です。称賛に値しますよ』
フィリアの、最大級の皮肉と侮蔑を込めたテレパシーが響くが、タチバナはそれを完全に無視し、聖女との接触の機会をどうやって合法的に作り出すか、その計算に全神経を集中させていた。
挨拶もそこそこに、すぐに魔王討伐への対抗手段である「聖別の儀式」が執り行われることになった。
大聖堂の最奥、最も神聖な気が満ちる祭壇。
タチバナは言われるがままに聖剣を祭壇の上に置き、少し離れた場所からその様子を見守っていた。アリシア、メグ、セシリアの三人も、彼の背後で静かに祈りを捧げるように控えている。
聖女アナスタシアが、聖剣の前に歩み寄り、両手を胸の前で組んだ。
彼女が古代の神聖語で祈りの言葉を紡ぎ始めると、祭壇を中心に、まばゆい黄金の光が渦を巻き始めた。その光は次第に収束し、聖剣の刀身へと吸い込まれ、錆びついていた刃に神々しい輝きを取り戻させていく。
(おお…すげえ…! あれが聖女の力か!)
タチバナは祭壇の光景を眺めながら、現金な計算を弾いていた。
(これで聖剣の威力がさらに上がるってわけだな。つまり、俺が次に遭遇するかもしれない化け物どもの攻撃も、この剣が勝手に、もっと簡単に防いで倒してくれるってことだ! 戦力アップによる俺の生存確率の上昇。楽勝だぜ! これで安心安全の旅が保証されたようなもんだ!)
彼が今後の快適な旅の行程を思い描き、内心で呑気にほくそ笑んでいた、その瞬間であった。
「っく! あ、あぁっ…!」
背後から、突然、苦痛に満ちた呻き声が響いた。
タチバナが振り返る。そこにいたのは胸を強く押さえ、顔を苦痛に歪めて石の床に膝をついた僧侶セシリアの姿であった。
「セシリア!?」
「どうしたのセシリア! どこか痛いの!?」
アリシアとメグが血相を変えて彼女の元へと駆け寄る。タチバナの視界に、信じられないものが映り込んだ。
セシリアの純白の法衣の隙間、彼女の首筋から手の甲にかけて黒い茨のような禍々しく不気味な紋様が、皮膚の下から急速に浮かび上がってきていたのだ。
その異常事態を目の当たりにしても、タチバナの心に焦りや悲壮感は微塵も湧き上がらなかった。彼の思考回路は冷酷な自己中心主義に則り、瞬時に状況を「自分にとっての損害」として計算した。
(うわ、なんかすごい大変なことになってるな。毒か? 呪いか? あの黒い模様、見るからに痛そうだし、最悪だ。…でも、まあ、苦しんでるのは俺じゃなくて、セシリアだしな。俺の身体じゃないんだから、別にどうでもいいか)
タチバナは、倒れて苦しむ仲間を前にしても、自分の命に直接的な危険が及んでいないという理由だけで、完全に他人事としてその光景を傍観していた。
祭壇から駆け下りてきた聖女アナスタシアが、セシリアの脈を診て、顔面を蒼白にさせた。
「これは…! 魔王の直属たる存在が放つ、『遠隔呪詛』です…! サンクチュリアの結界を越えて、呪いを飛ばしてくるなど……通常ではありえません…!」
アナスタシアの絶望的な声が聖堂に響き渡る。アリシアとメグが、「そんな…!」「セシリアを助けて!」と悲痛な叫びを上げる。
そのあまりにもシリアスで重苦しい展開に、タチバナはただ、「(うわぁ、面倒くさいことになったな…)」と、心底面倒くさそうに眉をひそめていたその時である。
タチバナの脳内に、フィリアの、いつもとは全く違う、数段冷たく、そして極めて真剣な怒気を孕んだ声が響き渡った。
『…状況を完全に履き違えて、呑気なことを考えている場合ですか。この、知能指数が単細胞生物以下の男』
(あ? なんだよ、いきなり。俺は何も悪いことしてないぞ)
タチバナが不満げに反論すると、フィリアは氷の刃のような思念を突き刺してきた。
『いいですか、よく聞きなさい。その床で倒れているセシリアは、貴方のパーティにおける、唯一無二の「ヒーラー」です。彼女がもしこのまま呪いによって再起不能となるか、あるいは死亡してパーティーから離脱した場合…貴方のこれからの旅がどうなるか、その足りない頭で理解できますか?』
フィリアのその言葉に、タチバナの脳細胞が初めて「事の重大さ」というキーワードに直結した。
(え? 回復役がいなくなる? それって、つまり…)
彼の頭の中で、極めて現実的で、恐ろしいシミュレーションが展開される。
これからの旅。魔物との戦闘で、もし聖剣の防御をすり抜けた攻撃が、自分にかすり傷一つでも負わせたとしたら。これまではセシリアの治癒魔法が一瞬で痛みを消し去り、傷を塞いでくれていた。
だが、彼女がいなければ?
傷は化膿し破傷風になり、病に倒れても治す術はない。体力は削られ続け、疲労は限界を超え、やがて回復アイテムが尽きた瞬間、彼は致命的な状態に陥る。
(つまり、今後の俺の戦闘における生存率が絶望的なまでに激減するってことか…?)
『その通りです』
フィリアが、死刑宣告のように冷徹に肯定した。
『貴方のそのミジンコ以下の基礎戦闘能力で、回復役のサポートなしでの冒険。…確実に断言しましょう。おそらく次の戦闘で、貴方はゴブリンの群れにすら対応しきれず、なぶり殺されて無惨な死を迎えることになりますね』
フィリアからの、あまりにも具体的で、そして現実味のあるリアルな「死の宣告」。
「……」
タチバナの顔面から全ての血の気が滝のようにさーっと引いていった。足の先から頭頂部まで氷水に漬けられたかのような、絶対的な恐怖が全身を駆け巡る。
(や、やべえじゃん!!!!!)
他人の命などどうでもよかった。だが、セシリアの死が「自分自身の確実な死」に直結するという、逃れられない因果関係。
タチバナは、ようやく、この事態が自分の身に直接降りかかっている、致命的で取り返しのつかない危機であることを、細胞レベルで理解したのだ。
彼は、顔を真っ青に引きつらせながら、苦し気に浅い呼吸を繰り返すセシリアと、絶望の表情を浮かべる聖女アナスタシアを、交互に激しく見つめた。
(ど、どうすんだよ、これ!? 早くあの呪いとやらを解かないと、俺の命が危ない! 誰か、なんとかしろ! おい、フィリア! お前の力でなんとかしろおおおおお!)
仲間への心配など微塵もない。
ただ純粋に己の命が惜しいという自己保身のための、見苦しい絶叫。
それがタチバナの脳内にだけ虚しく木霊し、大聖堂の冷たい石壁に吸い込まれていくのであった。