俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
四方を堅牢な白い城壁に囲まれ、中央に天を貫く大聖堂の尖塔を抱く祈りと信仰の中心地、聖都サンクチュリア。
その壮麗な正門前は、かつてないほどの熱狂と喧騒に包まれていた。
魔王軍の脅威から世界を救うべく現れ、すでに二人の四天王を討ち果たしたという生ける伝説──勇者タチバナ。
彼らが足を踏み入れた瞬間、沿道を埋め尽くした数え切れないほどの民衆、とりわけ若い娘たちから、鼓膜を破らんばかりの黄色い歓声が上がった。
「タチバナ様! ああ、こちらを向いてくださいましたわ!」
「なんと美しく、憂いを帯びた御顔立ち…! 私たちの光!」
自分たちの指導者であり密かに想いを寄せる男が、群衆の波にあっという間に飲み込まれていく。
タチバナは決して驕り高ぶることなく、押し寄せる娘たちに対しても一人一人に優しく微笑みかけ、時にはその手に優しく触れて応えている。
その光景を彼の一歩後ろに控える三人の乙女たちは、複雑で重苦しい感情を抱きながら見つめていた。
王女騎士アリシア・フォン・ローゼンバーグは腕を固く組み、毅然とした態度でその光景を眺めていた。
(ふん。民が英雄を讃え、熱狂するのは当然のこと。タチバナ様がこれほどまでに人々の心を惹きつける偉大な御方であることの、何よりの証明だ。私が彼の最初の仲間であり、王家を代表して一番の理解者であるという事実に、揺るぎはない。このような俗世の喧騒に取り乱すなど、騎士の、そして…いずれ彼の隣に立つべき正妻のすることではない)
アリシアは必死に、己の内に「王族としての余裕」を言い聞かせていた。完璧なポーカーフェイス。彼女の顔には、微塵の動揺も表れていない。
しかし腕を組むその白魚のような指先が、自身の二の腕の肉に爪が食い込むほど強く激しく握りしめられていることには、誰も気づかなかった。
(あのパン屋の娘。タチバナ様の腕に、許可なく触れようとしている。馴れ馴れしい。あの仕立て屋の娘。タチバナ様に、媚びるような、色目を使う視線を送っている。はしたない)
アリシアの胸の内で、理性の鎖が軋みを上げる。
(そもそも、お前たちのような平民の女たちが、気安くタチバナ様に触れていいと、誰が許可した? 四天王を退けたその尊い御身体は、いずれこのローゼンバーグ王家とそして私一人のものとなるべき神聖なものなのだぞ…!)
完璧なポーカーフェイスの下で、彼女のサファイアブルーの瞳は嫉妬という名のどす黒い青い炎を激しく燃やし続けていた。
その隣で、天才魔法使いメグ・フレイムハートは、アリシアのように感情を隠す器用さを持ち合わせていなかった。
「むぅぅぅぅ…!」
メグは頬をこれ以上ないというくらいぷっくりと膨らませ、不満を全身で表現していた。彼女の思考はもっと直接的で、そして我がままだ。
(なんなのよ、あいつら! ぽっと出の田舎娘のくせに、馴れ馴れしいんだよ! 勇者様は、あたしたちの勇者様なのに!)
タチバナと最初に出会い、行動を共にしたのは自分たちだ。彼の恐ろしいほどに冷静で冷徹な戦術眼を、一番近くで見てきたのも自分たち。
彼が暗闇で倒れ込んできた時、その腕に抱きしめられ、胸に触れられたのも、自分が最初だ!
(なのになんであんなどこの馬の骨とも分からない女たちが、勇者様の隣ではしゃいでるわけ!? あたしの場所なのに! あたしだけの特等席なのに!)
メグは今すぐ特大の火球魔法を詠唱し、あの群がる女たちの頭上に寸止めで叩き込んでやりたいという、極めて物騒な衝動に駆られていた。
もちろん、そんなことをすればタチバナに「魔力制御もできないのか」と失望されてしまうことくらいは、天才の彼女にも分かっている。
だから彼女は代わりにタチバナの背中に向かって、「勇者様の、馬鹿ー!」と誰にも聞こえない声で可愛らしく、本気の悪態をつくことしかできなかった。
そして、僧侶セシリア・ホワイトリリーは、二人のような怒りではなく悲しそうに深く俯いていた。彼女の嫉妬はアリシアやメグのそれとは、質が根本的に異なっていた。
(ああ。タチバナ様は、やはり万民を照らす光なのですね…。私一人が、独り占めしてはならない、あまりにも尊すぎる御方…)
聖職者として、そう頭では理解しようとする。しかし、彼女の心臓は、ちくり、ちくりと、棘で刺されたように痛んでいた。
タチバナが、自分以外の女性にあの優しい笑顔を向けている。自分以外の女性が、彼のお側に侍り、彼の手を引いている。それはセシリアにとって、自分の「存在価値そのもの」が脅かされるような、耐え難い不安を感じさせる光景だった。
(私よりも、あの娘たちの方が、タチバナ様を笑顔にできるのでしょうか…? 私の祈りよりも、あの娘たちの無邪気な声の方が、彼のお心を癒やせるのでしょうか…?)
彼女の自己肯定感は、「タチバナの世話を焼き、彼に尽くすこと」で辛うじて成り立っている。その絶対的な役割を、他の誰かに奪われてしまうかもしれないという恐怖。
(神よ。どうかお許しください。この、私の醜く、不浄な独占欲を。ですが、どうか…どうか、タチバナ様が私を必要としてくださる、そのお役目だけは、私から奪わないでください…)
群衆の熱狂を抜け、魔王の「闇の結界」を破るための『聖別の儀式』を受けるべく、一行はサンクチュリア大聖堂の謁見の間へと足を踏み入れた。
ステンドグラスから七色の光が差し込む厳かな空間。
そこで彼らを待っていたのは、大聖堂の最高位に座す存在──「聖女アナスタシア」であった。
月光を紡いだかのようなプラチナブロンドの髪に、ルビーのように深く輝く赤い瞳。一切の穢れを知らない白磁のような肌。
その人間離れした幻想的で神々しいまでの美しさは、同性であり自らも絶世の美貌を誇るアリシアたちでさえ、思わず息を呑むほどであった。
三人の乙女たちは、本能の次元で瞬時に理解した。
先ほどの街の娘たちなどとは、格もレベルも圧倒的に違う。
本物の『敵』が現れたのだ、と。
「お待ちしておりました、勇者タチバナ様」
アナスタシアが、鈴を転がすような美しい声で深々と頭を下げる。
その瞬間、アリシアの全身に高圧電流が走ったような強烈な衝撃と警戒心が走った。
(な…なんだ、この女は…!?)
美しさだけではない。その佇まい、気品、そして全身から溢れ出す空間を支配するような神々しいオーラ。
一国の王女である自分が、同じ空間にいるだけで霞んでしまうほどの、絶対的な存在感。
何よりもアリシアのプライドを逆撫でし許せなかったのは、そのアナスタシアがタチバナに向ける、「値踏み」するような瞳だった。
(この女…! 神に仕える身でありながら、一人の男としてタチバナ様を品定めしている…! そして、あわよくば自分の精神的影響下に置き、手懐けようとしている…!)
アリシアは王族として権力闘争を生き抜いてきた直感で、聖女の奥底に潜む「女」の部分を正確に見抜いた。同時にこれまでにないほど激しい、燃え盛るような対抗心が爆発した。
(…聖女だからと、いい気になるな。タチバナ様の隣に立ち、その背中を守るのはこの私だ。政治的にも血統的にも、一人の女としても…! 貴女のような、俗世から離れた箱入りの聖職者に、過酷な戦場を生き抜くタチバナ様の真の価値が痛みが分かるはずがない!)
アリシアは、アナスタシアに向けて完璧な王女としての優雅な笑みを貼り付けながら、その瞳の奥で決して引くことのない激しい敵意の炎を燃やしていた。
一方メグはアナスタシアの圧倒的な姿を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
(うわ…なに、この人…超、美人…ていうか、人間? 本当に生きてるの?)
自分の健康的な若さや快活さとは全くベクトルの違う、ガラス細工のような儚げで、神秘的な美しさ。
彼女から無意識に発せられる聖なる魔力の、あまりにも強大で恐ろしいほどに清らかな質。
天才魔導士であるメグは、魔力の根源的な「格の違い」を肌で理解してしまった。
(…勝てない、かも)
単純な魔力量や攻撃力の問題ではない。存在としての、圧倒的な純度の差。
タチバナが、アナスタシアの姿に見惚れ、一言も発せずに真剣な眼差しを向けている。その光景がメグの胸に、鋭い氷の刃のようにぐさりと突き刺さった。
(…やばい。このままだと、勇者様、この人に取られちゃう。あたしの元気とか、明るさとか、そんなの、この完璧な聖女様の前じゃ、ただの子供のお遊びだって、飽きられちゃうかも…)
これまでの人生で一度も挫折を知らなかった天才少女は、初めて自分の最大の武器が通用しないかもしれないという、強大すぎるライバルの出現に本気の焦りと恐怖を覚えていた。
そして、セシリアにとって聖女アナスタシアは本来であれば最も尊敬し、憧憬を抱くべき対象であった。
神に最も近く、奇跡を体現する存在。その神々しい姿を目の当たりにして、彼女の魂は純粋な畏敬の念に打たれていた。
(ああ…なんと美しく、そして清らかな御方なのでしょう…)
その絶対的な聖女が、タチバナに向けて優しく微笑みかける。そしてタチバナもまた今まで自分たちには見せたことのないような、一切の隙のない真摯で憂いを帯びた表情で、彼女を真っ直ぐに見つめ返したその瞬間。
セシリアの心は、絶望という名の絶対零度の氷に覆われた。
(…ああ、そうか。タチバナ様のような、世界を救う尊い御方の隣に立つのは…やはり、私のような俗に塗れた未熟な女ではなく…アナスタシア様のような、完璧で清らかな御方こそが、相応しいのだ…)
聖職者として神の教えに従う者として、それは極めて正しく受け入れるべき結論のはずだった。
それなのに。
どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。
どうして、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息が苦しいのだろう。
(…嫌だ)
彼女の心の中に生まれて初めて神への祈りではない、純粋な一人の「女」としての黒く淀んだ感情が芽生えた。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ。タチバナ様は、誰にも渡さない。あの人に、私の唯一の居場所を、私の存在理由の全てを、奪わせたりはしない…!)
セシリアは深く俯き震える両手で法衣の裾を、生地が破れそうなほど強く強く握りしめていた。