俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
セシリアの心の中に産声を上げた、黒く、重い独占欲という名の感情。
聖女アナスタシアの祈りによって、大聖堂の祭壇が眩い黄金の光に包まれていくのを、セシリアはどこか上の空で見つめていた。
(タチバナ様と、アナスタシア様。並び立つお二人の姿は、まるで神話の一枚の絵画のように完璧で…私のような未熟な者が入り込む隙など、どこにもないように見えます)
聖剣の威力を底上げし、魔王軍の『闇の結界』を破るための「聖別の儀式」。
光の粒子が舞う神聖な儀式を見守りながら、アリシアとメグもまた、歯がゆさと、コントロールしきれない焦燥感を隠せずにいた。
(くっ…! あの聖女、神聖な祈りを捧げているように見せかけて、その視線は常にタチバナ様を捉え続けている! まるで自らの圧倒的な神聖さと美しさを見せつけ、タチバナ様の心を絡め取ろうとしているかのようだ…!)
アリシアのサファイアの瞳は、祭壇の上の「絶対的な強敵」を鋭く睨み据える。王女としての矜持が、女としての嫉妬に完全に飲み込まれそうになっていた。
(あーもう、本当に気に入らない! 勇者様も、なんであんな真剣な顔で、あの女の人のことを見つめてるのよ! 絶対に、絶対にあの女になんか渡さないんだから!)
メグは手にした魔法の杖を握る指に白くなるほど力を込め、己の内でくすぶる嫉妬の炎を必死に抑え込んでいた。
「あ…」
儀式が最高潮に達しようとした、その瞬間。
セシリアの口から今まで出したことのないような、肺から空気を無理やり絞り出されたような掠れた短い声が漏れた。
「え…?」
セシリアの身体が、不自然に前へと傾く。彼女の視界が急速に暗転し、まるで心臓を直接わし掴みにされ、何本もの氷の刃で深く刺し貫かれたような、耐え難い激痛が全身の神経を駆け巡った。
「セシリア!?」
隣にいたメグが異変に気づき、悲鳴のような声を上げる。
「う…あぁぁぁぁっ……!」
セシリアは堪えきれずその場に崩れ落ち、冷たい大理石の床に両膝をついた。彼女は激しく胸を押さえ、苦悶の表情で身をよじる。
彼女の純白の肌──美しい首筋から鎖骨、そして手の甲にかけて、まるで生き物のように蠢く、黒い茨のような禍々しい紋様が、急速に皮膚を侵食しながら浮かび上がってきていたのだ。
「何事だ! セシリア、しっかりしろ!」
アリシアが血相を変えて駆け寄り、彼女の身体を必死に支える。セシリアの身体は異常なほどの高熱を発し、激しく痙攣を繰り返していた。
「セシリア! いやだ、どうしたの!? 誰か、誰か早く治癒を!」
メグが泣き出しそうな声で周囲に助けを求める。祭壇から駆け下りてきた聖女アナスタシアが、セシリアの腕を取った。その禍々しい黒い紋様を見るなり、その白磁のような顔から完全に血の気を引かせた。
「これは…! 魔王の直属たる存在が放つ、『遠隔呪詛』です…! このサンクチュリアの大聖堂が誇る強固な結界を越えて、直接対象の魂に呪いを刻み込んでくるなど…通常では絶対にありえません…!」
アナスタシアの絶望的な宣告が、広大な大聖堂に冷たく響き渡る。
アリシアとメグの顔面から、体温が失われた。
魔王の呪詛。それは即ち、あらゆる通常の治癒魔法を拒絶する、確実な「死」へのカウントダウンを意味している。
薄れゆく意識、痛みによって白濁していく視界の中で、セシリアの瞳は、ただ一人、自らの「光」である男の姿を必死に追っていた。
(タチバナ様…)
視界の端。そこに立っているタチバナは完全に言葉を失い、まるで石像のように固まっていた。その顔面は恐怖に引きつるように蒼白に染まり、目を限界まで見開いて小刻みに震えている。
(ああ…タチバナ様。私のために、あのように顔を青くして、心を痛めてくださっているのですね…)
セシリアの死の淵へと向かっていく意識は、彼が「回復役を失って自分が死ぬかもしれない」という極限の自己保身から来る個人的な恐怖で青ざめているだけだということなど、決して理解できなかった。
(…なんという、もったいないことです。世界を救うべき尊い貴方様に、私のようなつまらない者の命で、そのような悲しいお顔をさせてしまうなんて…)
アリシアとメグもまた、蒼白な顔で立ち尽くすタチバナを見て、胸を強く締め付けられていた。
(タチバナ様。いかなる強敵の前でも常に冷静沈着なあの御方が、仲間の危機に、あれほどまでに激しく動揺し、悲嘆に暮れておられる。仲間の苦痛を、完全に自らのことのように受け止める、なんと優しく、そして深い慈悲…!)
アリシアが、己の無力さを呪いながら、血が滲むほど唇を強く噛む。
(勇者様…あたしたちの仲間が傷ついたこと、すごく怒って悲しんでくれてるんだ…ごめんなさい、勇者様。あたしたちがもっと強ければ、こんなことには…)
メグもとめどなく涙を流し、タチバナのその沈黙を深すぎる怒りと悲哀の究極の表現として完全に美化して受け取っていた。
三人の乙女たちの心は、この絶望的な状況下にあってもなお、「勇者の底なしの優しさと絆」という美しき幻影に包まれ、より一層、彼への思いを強固で狂信的なものへと鍛え上げていくのであった。
『…やはり、あの温泉宿の女将が、人類の歴史における数少ない、奇跡的な突然変異の例外だったのかもしれませんね。この世界の人間に、真っ当な知性と観察眼を期待した私がバカでした。モブの美少女たちも、とんでもない勘違いをしてしまっている』
一方の聖剣の精霊フィリアは、大聖堂の高い天井付近の空間に浮遊しながら、物理法則の影響を受けない霊体の頭を、深々と抱え込んでいた。
彼女の極めて精密な演算回路は、現在この聖都サンクチュリア全体に蔓延しつつある「未知の感染症」──すなわち、勇者タチバナという中身の全くない虚像に対する、無差別かつ異常な崇拝の波を正確に観測し、強い眩暈を覚えていた。
市門前での出来事が思い出される。
タチバナが、群がる少女たちの胸元や太ももを凝視し、「(どの子からお持ち帰りしてやろうか、ぐへへへ!)」と、人間の底辺を這いずるような下劣な妄想と品定めを行っていたあの時。
パン屋の娘は、彼が歩くのが面倒なだけの無気力な顔を『凄惨な死線を越えてきた男が持つ、生命への悲哀』と解釈した。
仕立て屋の娘は、彼の下心に満ちた性的な視線を『余裕のある大人の男の、妖艶な流し目』と解釈した。
神官見習いの少女に至っては、彼のただの怠惰な佇まいを『俗世の欲望を超越した聖人のオーラ』と錯覚し、あろうことか神に感謝の祈りまで捧げていたのである。
(…馬鹿しかいないのでしょうか、この世界は)
フィリアは人類の絶望的なまでの現実認知能力の欠如に、本気で世界は一度滅びを受け入れるべきかとすら考え始めていた。
モブの群衆の勘違いなど、これから始まる本題の喜劇に比べれば、まだ可愛らしいもの。
フィリアの無機質な紫水晶の瞳は、眼下の祭壇で繰り広げられている惨劇──魔王の呪詛に倒れたセシリアと、それを取り囲む者たちへと向けられていた。
【主タチバナの思考スキャン開始】
(うわ、なんかすごい大変なことになってるな。魔王の遠隔呪詛? なんだよそれ、反則だろ。あの黒い茨みたいな模様、見るからに痛そうだし、最悪だ。…でも、まあ、苦しんでるのは俺じゃなくてセシリアだしな。俺に直接呪いがかかってるわけじゃないんだから、別に俺には関係ないしいいか。俺は痛くないし。聖女様がなんとかしてくれるだろ)
極限のシリアスな状況。仲間が今まさに命の危機に瀕しているその瞬間に、タチバナの脳内で弾き出された演算結果は、「俺じゃないからどうでもいい」という、究極的に利己的で、ある意味で清々しいほどの自己中心主義であった。
一切の共感能力の欠落。
フィリアは、一切の感情を交えることなく、絶対零度の冷気を持ったテレパシーを、彼の脳髄へと垂直に叩き込んだ。
『…事態を完全に他人事と捉え、呑気なことを考えている場合ですか。この、知能指数が単細胞生物以下の男』
(あ? なんだよ、いきなり。俺は何も悪いことしてないぞ。呪われたのはセシリアなんだから、俺に当たるな)
タチバナの、事態を俯瞰しすぎた不満げな思考に対し、フィリアは氷の刃のような事実を突き刺す。
『よく聞きなさい。その床で倒れ、今まさに命の灯火が消えようとしているセシリアは、貴方のパーティにおける、唯一無二のヒーラーです。彼女がもしここで再起不能になるか、あるいは死亡してパーティから離脱した場合…貴方のこれからの旅の安全保障がどうなるか、その空っぽの頭蓋骨で理解できますか?』
(…え? 回復役がいなくなる? それって、つまり…)
タチバナの脳細胞が、ようやく「自らに降りかかる致命的なデメリット」の計算を開始する。
傷を瞬時に塞ぎ、毒を浄化してくれる聖母がいなくなる。それは、今後の戦闘において、かすり傷一つが命取りになることを意味する。己の生命維持ラインの崩壊。
『その通りです』
フィリアが、彼が辿り着いた結論を冷酷に肯定し、決定的な死刑宣告を下した。
『貴方の、そのミジンコにすら劣る基礎戦闘能力で、回復役の完璧なサポートなしでの冒険。確実に断言しましょう。おそらく、次の戦闘で、貴方はゴブリンの群れにすら対応しきれず、傷口を化膿させ、なぶり殺されて、誰にも看取られることなく無惨な死を迎えることになりますね』
(……)
タチバナの顔面から全ての血の気が、滝が落ちるような勢いで引いていく。
(や、やべえじゃん!!!)
「セシリアの死」イコール「自分の安全な生活の完全崩壊」かつ「確実なる己の死」であるという因果関係に直結した瞬間、自己保身の本能が、これまでにない最大級の警報をけたたましく鳴らし始めたらしい。
(ど、どうすんだよ、これ!? 早くあの呪いとやらを解かないと、俺の命が、俺の人生が終わっちまう! 誰か、なんとかしろ! おい、フィリア! お前の力でなんとかしろおおおおお!)
仲間を案じる高尚な気持ちなど欠片もない。ただ純粋に「自分の命が惜しい」という理由だけで、タチバナは顔面を蒼白に引きつらせ目を見開き、内心でパニックに陥りながらもがいていた。
だがフィリアはその男のあまりにも醜悪な姿が、周囲の人間たちの眼球というレンズを通して、いかに「美しい形に誤訳」されているかを同時にスキャンし、深い、底なしの絶望感を味わっていた。
アリシアの思考。
(タチバナ様が、あれほどまでに顔色を変え、取り乱しておられる…! 常の冷静さを完全に失うほどに、セシリアの苦痛を自らのことのように悲しんでおられるのだ…!)
メグの思考。
(勇者様…あたしたちの仲間が傷ついたこと、すごく、すごく怒って、悲しんでるんだ…あんな絶望した顔の勇者様、初めて見た…!)
そして。フィリアの視界の端で、先ほどまで気高く神聖なオーラを放っていた聖女アナスタシアまでもが、タチバナの蒼白な顔を見て、そのルビーのように美しい瞳を、乙女のように小さく震わせていた。
【聖女アナスタシアの内心スキャン】
(…なんという方でしょう。自らの身の危険でもないのに、仲間の痛みにここまで深く心を寄り添わせ、まるで自らの半身をもがれたかのように絶望されるなんて。これまで多くの聖騎士や英雄を見てきましたが、これほどまでに剥き出しの、深く、そして温かい愛情を持つ方を私は見たことがありません。タチバナ様…貴方様こそが、真の…)
『あぁ聖女まで…完全に手遅れですね』
フィリアは感情の起伏を持たないはずの霊体の口元を、わずかに引きつらせた。
自意識と自己保身の塊であるクズ男の、自らの死を恐れただけの焦りが、アリシアとメグの忠誠心と恋心をさらに強固にし、あろうことか、物語の新たな重要人物である聖女アナスタシアの心にまで、「初恋」という名の不治の病の種を植え付けてしまったのだ。
(この男の放つ『勘違いの感染力』は、もはや魔王の呪詛よりもタチが悪い、人類を滅ぼす不治の病です。このままでは、世界の半分の女性が『タチバナ教』の狂信者と化してしまうのも時間の問題ですね…)
フィリアは眼下で繰り広げられるシリアスな命の危機と、主人公の果てしないクズさと、救いようのない勘違いの連鎖が複雑に絡み合ったドタバタ劇を見下ろした。
かつて自分と唯一精神の同調を果たしてくれた、あの老練な女将の顔を思い浮かべずにはいられなかった。
(女将。貴女の経営するあの温泉宿に、今すぐ帰りたい気分ですよ。この狂った世界で、まともな知性と観察眼を持っているのは、私と貴女だけなのですから)
フィリアは、諦観の溜息を吐き出すのだった。