俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
聖なる光に包まれていた大聖堂の祭壇は、一瞬にして絶望の闇に塗り潰された。
先刻まで平穏に祈りを捧げていた僧侶のセシリアが、突然の苦悶の声を上げて床に崩れ落ちたのだ。彼女の純白の肌を、まるで悪意を持って生きているかのように、不気味で禍々しい黒い茨のような紋様が急速に侵食していく。
「セシリア! しっかりしろ!」
「いやっ、どうして!? なんでこんな……!」
アリシアとメグが血相を変えて駆け寄り、必死に彼女の身体を支えるが、セシリアは高熱に浮かされたように激しく痙攣し、その意識は急速に死の淵へと向かっていた。
「私の…浄化の力が、通じません…!」
最高位の聖職者である聖女アナスタシアが、顔面を雪のように蒼白にさせながら、絶望的な声を震わせた。
「これは、単なる毒や病ではありません。魔王の直属たる存在が、対象の魂そのものに直接編み上げた『遠隔呪詛』です…! 術者の魔力規模が桁違いすぎる…私の祈りでは、呪いの進行を止めることすら…!」
周囲に控えていた高位の神官たちも、聖女のその絶望的な宣告に言葉を失い、ただオロオロと右往左往し、天を仰いで神に祈ることしかできなかった。
その大混乱のただ中で。
勇者タチバナは、祭壇から少し離れた安全な位置に立ったまま、顔を真っ青にしてその光景を眺めていた。
(おいおいおい、なんだよこいつら! この街で一番偉い聖職者の集まりなんだろ!? 聖女様なんだろ!? 奇跡を起こすのが仕事だろうが! 祈ってばかりで何も解決してないじゃないか! 使えねえな、おい!)
タチバナは内心で、聖職者たちを全力で罵倒していた。彼の思考の大部分を占めているのは、倒れたセシリアの痛みに対する共感や悲しみなどではない。
(俺のこの過酷な旅における貴重な、いや絶対に必要な『回復役』が、今目の前で死にかけている…!)
強烈な焦燥感だけであった。
そこに、アリシアが悲痛な面持ちでタチバナへと縋り付くように振り返った。
「タチバナ様…! どうか、どうかセシリアを! 貴方様ならば、何かこの呪いを破る手立てが…!」
(知るか! 俺に聞くな! 俺が何かできるわけないだろ! 俺が一番解決策を知りたいんだよ!)
どうやってこの場を切り抜けるか。いや、いかにして「自分にはどうしようもなかった」という免罪符をでっち上げるか。タチバナが必死に頭を回転させていると、精霊フィリアのいつになく冷徹で事務的な思念が響いた。
『無駄ですよ。聖女の言う通り、あれは魔王の直属が標的の魂に直接絡みつかせた呪詛。人間の持つ微弱な魔力量や祈りの力程度では、解呪は物理的に不可能です』
(なんだと!? じゃあ、どうすんだよ! セシリアは、このまま死ぬっていうのか!? 俺のパーティの生命線である回復役が!?)
タチバナが青ざめて食ってかかると、フィリアは間髪入れずに言葉を続けた。
『方法は、たった一つだけ残されています』
(本当か!? なんだよそれ!)
タチバナは、すがるような思いでフィリアの次の言葉を待った。
『ええ。聖剣の本来の力を解放することです。この聖剣が内包する、世界を構成する原初の『聖なる力』。それを対象に直接流し込むことができれば、あるいは、魔王の呪詛といえども完全に打ち消すことができるかもしれません』
(なんだよ、そんな便利な機能があるなら、もったいぶらずにさっさと使えよ! 早くあいつの呪いを解いてやってくれ!)
タチバナの安堵と焦りが入り混じった声に対し、フィリアは無慈悲な事実を突きつけた。
『勘違いしないでください。私はあくまで剣の機能の一部。奇跡を引き出すのは、持ち主である貴方自身です。そして、その原初の力を引き出すには、持ち主の強烈な『祈り』と『覚悟』が必要不可欠となります』
(祈りと覚悟?)
『ええ。世界の平穏を願い、邪悪を退けんとする清らかな祈り。そして何より…たとえ自らの生命力が削られ、己が死の危険に直面しようとも、絶対に仲間を救い出すという、偽りなき自己犠牲の覚悟。それがトリガーとなって初めて、聖剣は奇跡を起こすのです』
「(……は?)」
タチバナの思考が、完全に、そして物理的な音を立ててフリーズした。
祈り? 覚悟? 自己犠牲?
それらの単語はタチバナがこれまで生きてきた人生の辞書において、存在すらしていない完全に未知の言語であった。
(む、無理だろ、そんなの…! 俺に、そんな高尚で立派な精神状態を作り出せるわけねえだろ! 第一、命が削られるってなんだよ! 他人を助けて自分が死んだら全く意味がないじゃないか!)
タチバナが当然の理屈で全力拒否の思考を返すと、フィリアは冷酷に宣告した。
『でしょうね。自己保身の塊である貴方には、最も縁遠い条件です。ならば、諦めるしかありません。貴方の貴重な回復役は、残念ながらここで失われることになります』
回復役の喪失。
その事実が意味する未来の光景が、タチバナの脳内に極めて鮮明な絶望の映像としてフラッシュバックした。
魔物との戦闘。回避しきれなかった敵の凶刃。
己の身体から吹き出す赤い血。焼けるような痛みと、薄れゆく意識。
これまでは、それを背後からセシリアの温かい治癒の光が一瞬で消し去ってくれていた。
だが、その光はもう、どこにもない。傷は腐り体力は限界を迎え、無様な悲鳴を上げながら、冷たい土の上でのたうち回って惨めに死んでいく自分自身の姿。
(…死ぬ)
彼は己の直面するであろう無惨な未来を、ありありと想像してしまった。
(嫌だ! 絶対に嫌だ! 俺は死にたくない! 俺はただ安全に楽して、女の子に囲まれて暮らしたいだけなんだ!)
究極の純度百パーセントの「自己保身」という名の強烈な感情の爆発が、彼の足に力を与え背中を激しく押した。覚悟を決めたタチバナは群がる神官たちを無言で押し退け、苦しむセシリアの元へと真っ直ぐに歩み寄った。
「タチバナ様…!」
「勇者様!」
アリシアとメグが、一縷の希望を見出したように道を空ける。聖女アナスタシアも、息を呑んで彼の行動を見守った。
大聖堂にいる全ての人間の視線が、タチバナの一挙手一投足に集中し、文字通り固唾を飲んでいた。タチバナは床に倒れ伏し、呪いの苦痛で熱く火照ったセシリアの手を両手で強く骨が軋むほどに握りしめた。
(くそっ! やるしかねえ! 祈りだろ!? 覚悟だろ!? やってやるよ! 神でも聖剣でもなんでもいい、俺の本物の一切の嘘偽りない魂の叫びを聞かせてやる!)
「しっかりしろ、セシリアァァァァァッ!!!」
彼の、心の底からの、限界を突破した絶叫が、高い大聖堂の天井に凄まじい反響を伴って響き渡った。
「お前がいなくなったら、俺が困るんだ! この俺が!!」
(そうだ、お前がいなくなったら、誰が俺の戦闘中の擦り傷を治してくれるんだ! 誰が俺の精神的ストレスをその柔らかい胸で癒してくれるんだ!)
「俺の、安全で、快適な旅の計画が、全て台無しになるだろうが!!」
(回復役のいない冒険なんて、ただの自殺行為だ! 俺は絶対に死にたくない! 痛い思いをするのはまっぴらごめんだ!)
「誰が、俺の怪我を治してくれるんだ! 誰が、俺を守ってくれるんだよ!!」
(俺は弱いんだよ! お前たちが盾になり、回復してくれなきゃ、一日だって生きていけないんだよ!)
「だから、死ぬな! 絶対に死ぬな! 俺のために、俺の未来のために、生きろぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
それは仲間を想い、世界の平和を願う高潔な英雄の祈りなどでは断じてなかった。
ただひたすらに自分の都合と自身の安全な未来と、快適な生活が脅かされることへの恐怖から生み出された、純度百パーセントの、究極の自己保身と自己中心的な欲望の叫びであった。
「おお……!」
その時だった。彼が腰に提げていた聖剣から、今までとは比べ物にならないほどの、熱を帯びたまばゆい黄金の光が解き放たれた。
溢れ出した光の波がタチバナが握る手を通じて、セシリアの全身を優しく包み込んでいく。
その神聖なる光に触れた瞬間、彼女の白磁のような肌を無惨に蝕んでいた禍々しい黒い紋様が、まるで朝日を浴びた夜霧のように、ジュッという微かな音を立てて急速に焼き尽くされ、消滅していくではないか。
やがて、部屋を埋め尽くしていた黄金の光が静かに収束した時。そこには呪いの痕跡など微塵も残さず、穏やかで安らかな寝息を立てる、元の美しい姿に戻ったセシリアが横たわっていた。
神の御業としか思えない真の奇跡が、タチバナの極めて不純な動機によって引き起こされた瞬間であった。
「信じられない。魔王の直属が放った、絶対の死を約束する大呪詛を、己の魂の力だけで完全に打ち破るなど…」
聖女アナスタシアがその場にへたり込み、震える両手で口元を覆いながら呆然とした声で呟いた。彼女のルビーのような赤い瞳からは驚愕と、それ以上の深い畏敬の念から生じた涙が溢れ出している。
「おお…! おおおお…! まさに、神の奇跡だ! 聖女様をも凌駕する、底知れぬ聖なる御力!」
「勇者様は、やはり神の御使いであらせられたのだ!」
周囲を取り囲んでいた高位の神官たちが、次々とその場に膝をつき、タチバナに向かって平伏し祈りを捧げ始めた。
「タチバナ様…っ! ああ、タチバナ様…!」
「勇者様、ありがとう…! 本当に、ありがとう…!」
アリシアとメグが、顔をくしゃくしゃにして感涙にむせびながら、タチバナの両腕にすがりついてくる。
そのあまりにも異様で、狂信的なまでの尊敬と畏敬に満ちた群衆の視線を全身に浴びて、タチバナの脳内にようやく、自分の置かれた状況の異常さが処理され始めた。
(…あれ? なんだこの空気。なんか、ものすごい崇拝されてないか、俺?)
彼はただ自分が死にたくなくて、自己中心的な理由で喚き散らしただけなのだ。目の前の光景は、彼が己の命を削って仲間を死の淵から救い出した、生ける伝説の誕生を祝う儀式と化していた。
その時、床に横たわっていたセシリアが、微かに睫毛を震わせ、ゆっくりとそのエメラルドグリーンの瞳を開いた。
セシリアの瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「タチバナ様…貴方様は、このような取るに足らない私のために…御自らの魂を削ってまで…!」
「え? いや、違う、俺はただ…」
タチバナが慌てて否定しようとした言葉を、セシリアは震える手で優しく遮った。
「聞こえておりました…。深い闇の底で、貴方様が私の名前を、あのように悲痛な声で叫んでくださったのが…」
セシリアの脳内変換フィルターは、タチバナのあの利己的な絶叫を、以下のように完璧に美しい形に誤訳して受け取っていた。
『お前がいなくなったら、俺が困る(私にとってお前は唯一無二の存在だ)』
『俺を守ってくれ(これからはずっと、私の傍で私を支えて生きてくれ)』
「はい。私は、決して死にません。貴方様が望まれる限り…この身も魂も、永遠に貴方様のためだけに捧げて、生きてみせます…!」
完全に乙女の愛の告白であった。セシリアのその言葉に、アリシアもメグも深く頷き、神官たちは感動のあまり咽び泣いている。
(やべえ。なんか、俺の意図と全然違う方向に話が転がって、とんでもない聖人だと思われちまったぞ…! これ、この後少しでも変なことしたら、即座に失望されて殺されるんじゃないか…!?)
タチバナの顔面が、先ほどの呪いの恐怖とは別の、自らが作り上げてしまった巨大すぎる偶像に対するプレッシャーによって激しく引きつった。
その彼の横顔を、隣の空間に現れたフィリアが、これ以上ないほどに冷ややかに、そして面白そうに見つめていた。
『お見事でしたね。貴方のその、純度百パーセントの最低な自己保身の心が、物理法則すらねじ曲げ、結果として最高の奇跡を生み出しました。己のクズさを極めた結果、神聖なる聖人として崇め奉られる。実に皮肉で、そして実に貴方らしい、最高に滑稽な結末です』
(お前のせいだろ! お前が変な条件を提示するから、俺は必死になっただけだ!)
タチバナが内心で噛みつくと、フィリアはふふっと霊体の口元をわずかに吊り上げた。
『おや。貴方は今、この大聖堂の全ての人間から感謝され、称賛されているのですよ? 非難される覚えは一切ありませんが?』
完全に逃げ道を塞ぐしれっとした正論に、タチバナは何も言い返すことができなかった。