俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
聖都サンクチュリアの大聖堂は、荘厳な静寂に包まれていた。その静寂の裏側で勇者タチバナを巡る乙女たちの恋の駆け引きは、かつてないほどの緊張状態を迎えていた。
絶世の美貌を持つ聖女アナスタシアの登場により、これまで三人の間で辛うじて保たれていた均衡が完全に崩れ去ろうとしていたのだ。
大聖堂の長い廊下の角。
天才魔法使いのメグと、心優しき僧侶のセシリアは、大理石の壁に背を預けたまま、息を潜めていた。彼女たちの耳に、回廊の先から決定的な言葉が届いたからである。
「タチバナ様。出立に向けた調整として、私と手合わせを願えませんか」
普段の厳格さをかなぐり捨てたような、熱を帯びた声。王女騎士アリシアの申し出であった。それに応じるタチバナの余裕に満ちた承諾の声。
二人の足音が訓練場の方角へと遠ざかっていくのを確認した瞬間、メグの顔から表情が抜け落ちた。
「なっ…! あの女狐、抜け駆けしやがった!」
メグは手にした魔法の杖をへし折らんばかりの力で握りしめ、わなわなと全身を震わせた。
聖女アナスタシアがタチバナに甲斐甲斐しく世話を焼いている間、三人で「どうやってあの聖女から勇者様を引き離すか」という無言の共闘体制を敷いていたはずだった。
それなのに、アリシアは己の「騎士」という立場を最大限に悪用し、「手合わせ」という誰も文句の言えない大義名分を盾にして、タチバナとの二人きりの時間を強奪したのだ。
「あ、アリシアさん…」
隣に立つセシリアは突然の事態にショックを受け、言葉を失っていた。純白の法衣の胸元をぎゅっと握りしめる彼女の瞳には、明らかな焦燥と悲哀が浮かんでいる。
メグとセシリアの視線が交錯した。
普段であれば、タチバナの隣を争う最大のライバル同士である。
しかし今この瞬間だけは違った。「抜け駆けをしたアリシア」という共通の敵を前にして、彼女たちの間には、言葉を交わさずとも成立する、鉄の結束のような奇妙な連帯感が生まれていた。
「ちょっと様子、見ていかない?」
メグが小声で囁いた。
普段のセシリアであれば、「盗み見るなど、はしたない真似はできません」と嗜めるところだ。が、今は神への祈りよりも、己の胸で燃え盛る嫉妬と不安の火が勝っていた。
彼女はコクリと静かに頷いた。
こうして、「打倒アリシア」と「タチバナ様の様子を密かに観察する」という明確な目的の下、二人の乙女による臨時秘密同盟が結成された。
二人は足音を極限まで殺し、訓練場を見下ろすことができる二階の回廊へと忍び込んだ。太い石柱の影に身を潜め、眼下の中庭に併設された訓練場をこっそりと窺う。
そこにはすでに木剣を手にして向かい合う、タチバナとアリシアの姿があった。そのアリシアの姿を視界に捉えた瞬間、メグとセシリアは同時に息を呑み、絶句することとなった。
「あいつ本気じゃん…!?」
メグの琥珀色の瞳が、驚愕に見開かれた。そこに立っていたのは、いつもの重厚な白銀の鎧で全身を固めた「王女騎士」ではなかった。
アリシアが身に纏っていたのは、王国騎士団の訓練用装束である白いシャツと、短いキュロットスカート。
その着こなしは異常であった。
極端に身体のラインにフィットしたシャツは、彼女の豊かな胸の起伏を暴力的なまでに浮き彫りにし、少し広めに開けられた胸元からは、眩しいほどの白磁の肌と谷間の入り口が露わになっている。
さらに、太ももの半ばまでを惜しげもなく晒すスカートからは、鍛え上げられた脚線美が完璧な造形として伸びていた。
メグは戦慄した。
あれは、ただの稽古着などではない。女としての魅力の全てを武器にし、男の理性を直接的に破壊するための、覚悟を決めた「戦闘服」だ。
自分は今まで若さと元気さ、そして露出の多い魔導衣というアドバンテージで、タチバナにアピールできていると信じていた。
普段は鉄壁の防御を誇るアリシアが、己に足りなかった「色気」という武器を恥じらいを捨てて真正面から行使してきたのだ。
(悔しい。すごく悔しい。でもそれ以上にあのギャップ、女のあたしから見ても羨ましいと思ってしまう…!)
メグの胸の内で、敗北感に似た感情が渦巻いた。その隣でセシリアはただ顔を真っ赤にして、両手で自らの熱い頬を覆っていた。
「ア…アリシアさん…。あのような、大胆なお姿を…タチバナ様の御前で…」
聖職者であるセシリアの常識からすれば、あのような装いは恥辱の極みである。自分には絶対に真似できない。そう思う一方で、彼女の心に黒い不安がよぎる。
(タチバナ様のお心を繋ぎ止めるためには、あのようなはしたない覚悟すらも、必要なのだろうか…?)
セシリアの視線がアリシアの姿から、彼女と対峙するタチバナへと移った。タチバナの視線は剣の切先ではなく、明らかにアリシアの胸元や露わになった太ももへと吸い寄せられている。その瞳には今まで自分たちに向けたことのないような、熱を帯びた爛々とした光が宿っていた。
(ああ。タチバナ様の御視線が、あんなにも熱く…)
その事実を悟ってしまった瞬間、セシリアの心臓は氷の針で深々と刺し貫かれたように、きゅっと締め付けられるように痛んだ。
鋭い呼気と共に、訓練場での剣戟が始まった。
アリシアが踏み込み、鋭い斬撃を放つ。
柱の影で固唾を飲んで見守る二人の目の前で、タチバナの剣技は、もはや人の領域を遥かに超越した神業として披露された。
一切の無駄を省いた、流麗にして絶対的な動き。
アリシアの全力の剣撃を、彼は最小限の体捌きと手首の返しだけで完璧にいなし、彼女の体勢を崩していく。
どれほど激しく打ち合おうとも、彼の呼吸は乱れず、その歩法には一分の隙も存在しない。
「うん…。分かってはいたけど、やっぱめちゃくちゃ強い…。あんな凄い人に、あたしたち、守られてるんだね…」
メグは先ほどまでの嫉妬を一時的に忘れ、ただ純粋な魔法使いとしての畏敬の念をもって、タチバナの圧倒的な実力を再認識していた。魔王軍の幹部を葬ったその武の極致を目の当たりにし、彼女の胸の奥で誇らしさと強いときめきが激しく鐘を鳴らしている。
「はい…あのお姿こそ、紛れもない真の勇者様です…」
セシリアもまた、熱っぽい溜め息を漏らしながら、祈るように両手を組み合わせた。神の御業としか思えないその剣の軌跡。いかなる脅威からも自分たちを護り抜いてくれるという、絶対的な安心感。
その瞬間だけは、二人の心は完全に一つになっていた。
自分たちの想い人が如何に偉大で美しく、そして尊い存在であるか。
その感動と多幸感を共有し、二人は陶酔しきった瞳で訓練場の二人を見下ろしていた。
剣戟がクライマックスに差し掛かり、訓練場にはアリシアの激しく、そして艶めかしい息遣いが響き渡るようになった。
「はぁっ、はぁ…っ」
汗で濡れた白いシャツが彼女の肌に張り付き、その曲線美をより扇情的に浮かび上がらせている。
そして、その決定的な瞬間は、唐突に訪れた。
アリシアが最後の一撃とばかりに大きく剣を振りかぶった、その直後。無敵を誇っていたタチバナの足が、何もない平坦な地面で不自然にもつれ、彼の身体が大きくバランスを崩したのだ。
「「え?」」
回廊の陰に潜むメグとセシリアの思考が、同時に完全にフリーズした。二人の眼下で時間が止まったかのように、ゆっくりと事態が進行していく。
タチバナの身体が前傾姿勢になっていたアリシアの懐へと、まるで計算し尽くされた軌道を描くように倒れ込んでいく。
アリシアの口から、可愛らしい短い悲鳴が上がる。
二人の身体が激しくぶつかり合い、そのまま芝生の上へと折り重なるように倒れ込んだ。
タチバナの顔面がアリシアの汗ばんだ豊満な胸の深い谷間へと、隙間なく深々と埋没していくその一部始終を。
二人は声を発することもできず、ただ見開かれた目で目撃してしまった。
「アリシアァァァァァッ!!!!」
数秒の空白の後、メグの理性の限界を示す導火線が音を立てて弾け飛んだ。彼女は手すりを乗り越え、今すぐ訓練場に飛び降りて、あの許し難い光景を引き剥がそうと身を乗り出した。
「メ、メグさん! お待ちください! お気を確かに…!」
セシリアがパニックに陥りながらも、必死の力でメグの背後から羽交い締めにして、その暴走を食い止めた。
「離してセシリア! あいつわざとよ! 絶対に自分から倒れ込んで、勇者様を誘惑した!」
「し、しかし…! しかし…!」
セシリアの目からも大粒の涙が溢れ出し、彼女の身体は小刻みにぷるぷると震えていた。聖職者としての矜持も、嫉妬という名の激しい炎の前に燃え尽きようとしている。
倒れ込んだのはタチバナの方だ。あれは不測の事故なのか、それとも…。セシリアの頭の中で、様々な絶望的な推測が渦巻く。
二人が物陰で揉み合っている間にも、下ではさらなる地獄の光景が展開されていた。
タチバナが、ゆっくりとアリシアの胸元から顔を上げる。そして、顔を真っ赤にして硬直しているアリシアの耳元へと顔を寄せ、何かを囁いた。
言葉の内容までは、二階の回廊にいる二人には届かない。だが、その言葉を受けた瞬間の、アリシアの表情の変化が、全てを物語っていた。
騎士としての誇りも王女としての気高さも完全に崩れ去り、蕩けきったような、極上の甘い表情。
瞳を熱く潤ませ、己を奪った男をうっとりと見つめ返す、完全に陥落した女の顔。
「「……」」
それは疑う余地のない、完全な勝利宣言であった。アリシア・フォン・ローゼンバーグがこの熾烈な恋の戦いにおいて、圧倒的な一歩を抜け出し勝利をもぎ取ったのだと。
メグは手すりを握っていた手の力を抜き、ずるずるとその場に崩れ落ちた。セシリアもまた足の力を失い、石の床に膝を折った。
二人の乙女は、物陰にへたり込んだまま、絶望的な敗北感に打ちひしがれていた。
彼女たちは、選ばれし勇者のパーティメンバーである。ただ泣き寝入りするような、柔な精神は持ち合わせていない。
(見てなさいよアリシア! あんたがその気なら、あたしだって容赦しない! 次は絶対あたしがもっともっとすごいことして、勇者様を夢中にさせてやるんだから!)
メグは涙を腕で拭い琥珀色の瞳に不屈の闘志と、過激な独占欲の炎を燃やした。
(タチバナ様。私は、まだ諦めません。どうか、神よ。この私に己の殻を破り、あの方のお心を射止めるための勇気をお与えください…!)
セシリアはこれまでの教義をかなぐり捨てるような、誓いの祈りを捧げた。
アリシアの会心の一撃は残された二人の乙女たちの心に、新たな過激で熾烈な戦いの炎を灯した決定的な号砲となる。
勇者タチバナを巡る愛の修羅場はここ聖都サンクチュリアにおいて、引き返すことのできない新たな次元へと突入していくのであった。