俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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フィリア視点


至福の耳掃除と恋心の分析報告

 聖都サンクチュリアの大聖堂に設けられた、豪奢な客室。聖剣の精霊フィリアは、物質界の物理法則に一切干渉しない半透明の霊体のまま、ベッドの上で大の字に寝転がっている己の契約者を静かに見下ろしていた。

 

 勇者タチバナは、天井を見つめながら、だらしなく口元を歪め、ひっひっひと下品な笑い声を漏らしている。

 精霊であるフィリアの知覚網には、彼の脳内で現在どのような情報処理が行われているかが、極めて鮮明な情動の波長として読み取れていた。

 先ほどまで行われていた、王女騎士アリシアとの剣の稽古。否、稽古という大義名分を悪用した、巧妙かつ卑劣なセクシャルハラスメントの記憶である。

 

 

(…汗に濡れた肌の質感、身体が密着した際の弾力、そして鼻腔を抜けた香り。それらの視覚、触覚、嗅覚の情報を、彼の脳は延々とリピート再生し続けているようですね。己の生存を脅かす危険な戦いの記憶は瞬時に忘却するくせに、己の劣情を刺激する記憶に関しては、一連の動作を寸分の狂いもなく反芻できる。極めて偏った、そして無駄に優秀な記憶領域です)

 

 

 フィリアは果てしなく低俗な快楽の海で溺れている主に向け、絶対零度の思念を直接脳髄へと送り込んだ。

 

 

『随分と学習能力と進歩のない脳ですね、タチバナ。同じ記憶の断片を何度も再生しては、同じように交感神経を興奮させ、血圧を上げている。まるで、単純な命令しか実行できない壊れた玩具のようです』

 

 

 不意の冷や水にタチバナはビクッと身体を震わせたが、すぐに悪魔のような傲慢な笑みを浮かべて霊体のフィリアへと顔を向けた。

 

 

「(うるさい! お前のような血も涙もない精霊に、男の繊細で豊かな精神活動が理解できてたまるか! 俺は今、過酷な任務を乗り切るための活力となる『美の結晶』を、心の宝物庫に大切に保管している作業中なんだよ!)」

『その宝物庫とやらは、すでに腐臭を放つ欲望の泥で満杯になっていると思われますが』

 

 

 タチバナはフィリアの皮肉を全く意に介さず、むくりと上半身を起こした。そして欲望によって淀んだ瞳をフィリアに向け、図々しく身勝手な要求を口にした。

 

 

「(なあ、フィリア。あの極上の感触を思い出していたら、脳が興奮しすぎて逆に疲れてきた。お前のその神秘的な力で、俺を極限まで癒やしてくれないか)」

『どうせ、ろくでもない要求なのでしょうが…一応、契約者としての権限に基づき要件だけは聞いて差し上げます』

 

 

 タチバナは自らの天才的な閃きに酔いしれるように、実に晴れやかな顔で命令を下した。

 

 

「(実体化して、俺に膝枕で耳掃除をしてくれ)」

 

 

 その言葉を受信した瞬間、常に無表情を貫くフィリアの端正な眉が、ほんの数ミリだけ不快げに中央へと寄った。

 

 

『…霊体である私が、物質界に物理的な質量を持って顕現するには、相応の魔力を消費することをご存じですか? 魔王討伐という大目的の達成に一切寄与しない、貴方の極めて個人的な耳の衛生管理のためだけに、私の力を使えと? 本気で言っているのですか』

「(もちろん本気だ! 俺は勇者であり、お前の主だぞ! 主の心身の健康を保つことも、聖剣の管理者の立派な務めだろうが! さあ、俺の命令に従え!)」

 

 

 タチバナのその増長しきった態度。

 フィリアは一瞬、彼の脳幹に直接魔力の電流を流し込んで気絶させてやろうかと考えた。

 だが彼女の冷徹な演算回路はこの要求を逆手にとり、目前で有頂天になっている愚かな人間に「己の真の立場」を骨の髄まで再認識させるための、絶好の教育的指導の機会であると計算を弾き出した。

 

 

『承知いたしました。貴方のその命令、確かに受諾します』

 

 

 フィリアの半透明な身体が淡く、密度の高い銀色の光に包まれた。

 大気中の魔力が急速に集束し、光の粒子が質量を持つ物質へと変換されていく。

 やがて光が収束した時。そこには月光を編み込んだような銀髪と透き通るような白い肌を持つ、等身大の美しい少女が実体として座していた。

 

 実体化による一時的な魔力消費に、フィリアはかすかに息をついた。彼女は感情の読めない紫水晶の瞳でタチバナを見下ろすと、ベッドの端に静かに腰掛け、自らの膝の上を細い手でぽんぽんと二度叩いた。

 

 

「(おお…! 本当にやりやがった! 物質化された精霊の膝枕! これは贅沢の極みだ!)」

 

 

 タチバナは狂喜し、一切の躊躇いなく彼女の膝の上へと自らの頭を横たえた。

 霊体であった時の冷たさとは違う、生物的な温もりは持たないものの、滑らかで心地よいひんやりとした感触と、確かな弾力が彼の頭部を優しく受け止めた。

 フィリアは魔力で生成した細く滑らかな竹の耳かきを手に取ると、極めて正確な手つきでタチバナの右耳の中へとそれを差し込み、緻密な力加減で内壁をなぞり始めた。

 

 

「(あぁっ…そこ…最高だ…力加減が完璧すぎる…)」

 

 

 タチバナが物理的な快感に脳を溶かされ、間抜けな恍惚の表情を浮かべていると、フィリアは耳掃除の作業を止めることなく、極めて事務的なトーンで報告を開始した。

 

 

『ところでタチバナ。先ほどの訓練場での、王女アリシアに関する事後観測の報告です。貴方のあの意図的な転倒と密着という一連の行動により、彼女の貴方に対する好意の指数は、測定上、これまでの二倍以上の極大値へと跳ね上がったことをお知らせしておきます』

「(に、二倍以上!? マジかよ! やはり俺の計算通りだな!)」

 

 

 耳の奥を的確に掻かれる甘い快感と、自らの策略が完璧に的中したという自己顕示欲の充足。タチバナは今、至上の悦楽の頂点に立っていた。

 

 

『ええ、貴方の思い描いた通りの結果です。貴方のあの最低なセクハラ行為と、事後にとりつくろった吐き気を催すほどに陳腐な口説き文句が、彼女の極端な恋心のフィルターを通ることで、『荒々しくも情熱的な愛の証明』として完璧に誤訳され、保存されました。彼女の騎士としての理性は、もはや貴方への盲目的な情動の前に完全に崩壊しています。お見事ですね』

「(だろ!? 厳格な騎士ってのは、ああいう強引でダイレクトな接触に弱いんだよ! 俺の男としての魅力の前では、気高き王女様もただの一人の女になるってわけだ! ぐへへへ! あ、フィリア、その奥の方、もう少しだけ強く…)」

『はいはい』

「(んんきもちぃ…お前、本当に耳掃除の才能があるな…)」

 

 

 タチバナは自らの意思を完全に放棄し、フィリアの指先の動きの虜となっていた。

 

 

『さらに報告を続けます。貴方とアリシアのあの卑俗なやり取りを、大聖堂の回廊の物陰から盗み見していた者が二名おりました。魔法使いメグと、僧侶セシリアです。彼女たちの貴方に対する執着と嫉妬心もまた、現在、最高潮の域に達しております』

「(なに!? あいつら、俺たちのあれを見てたのか! 最高じゃねえか!)」

 

 

 タチバナの興奮は、羞恥心を知らぬままさらに高まりを見せる。

 

 

『メグの精神波長を解析した結果、彼女は『次は絶対にあたしがもっとすごいことをしてやる』と、アリシアに対する強烈なライバル心とリベンジの炎を燃やしていました。おそらく彼女は次の機会にはより大胆で、貴方の肉体に直接触れるような過激なアプローチを仕掛けてくるものと予測されます』

「(うおおおお! 望むところだ! あのメグの健康的なダイナマイトボディが、自ら俺を襲いに来るのか! 想像しただけで血圧が上がるぜ! ああ…そこ…そこだフィリア…たまらん…!)」

 

『そして、僧侶セシリアですが。彼女は貴方とアリシアの密着を目撃し、絶望するどころか『私にも己の殻を破る勇気をお与えください』と、神に対して恐ろしい誓いを立てていました。彼女の精神内において、貴方はすでに不可侵の神格へと昇華されています。次なる彼女の行動は、我々の論理的予測を遥かに超えた狂気的な献身…あるいは、貴方のためならば己の全てを投げ打つような、狂信的な自己犠牲の形態をとる可能性が極めて高いですね』

「(聖母の自己犠牲! それもそそるな! つまり、俺のためならどんな恥ずかしい命令にも従う忠実な奴隷になるってことだろ! ふぅ…もう、お腹いっぱいだぜ…)」

 

 

 タチバナの全身から力が抜け、ゼリーのようにふにゃふにゃになっていく。

 

 

「(フィリア。反対の耳も頼む)」

『承知いたしました』

 

 

 タチバナがベッドの上でだらりと寝返りを打ち、左耳を上に向ける。フィリアは静かに位置を変え、再び緻密な作業を再開した。

 

 

「(なあ、フィリア。一つ確認しておきたいんだが。あの聖女様…アナスタシアも、間違いなく俺のことに惚れてるんだよな? 俺の気のせいじゃないよな?)」

『ええ。その点において、貴方の勘違いは一切含まれておりません』

 

 

 フィリアは竹の先を動かしながら、淡々と事実を肯定した。

 

 

『聖女アナスタシアは、貴方が放ったあの純粋な自己保身からの絶叫を、『他者の命を救うための究極の自己犠牲の愛』だと、寸分の疑いもなく完璧に誤解しています。彼女の精神世界において、貴方は神の愛を体現する聖人であり、同時に、彼女が生まれて初めて恋に落ちた特別な男性として強固に認識されました』

 

 

 フィリアの紫水晶の瞳が、僅かに冷たい光を帯びる。

 

 

『彼女はこれまで抑圧されてきた反動もあり、その感情のベクトルは極めて重く、粘着質です。おそらく彼女は今後、聖女という絶対的な権力と立場を最大限に利用し、他の三人を排してでも、貴方を独占しようとあらゆる手段を講じてくるでしょう。泥沼の権力闘争の始まりですね』

「(絶世の美少女の聖女様が、権力を使ってまで俺を独占しようとする!? ぐへへへへ! たまんねえな! 聖職者だろうが王女だろうが、俺の圧倒的な魅力と手腕の前では、完全に骨抜きにされるってことだ!)」

 

 

 タチバナはもはや理性の枷が完全に外れ、果てしない悦楽の海で溺死寸前であった。

 王国の未来を担う王女騎士。魔法の真理を解き明かす天才魔導士。無償の愛を体現する僧侶。そして、神の奇跡を代行する絶対的な聖女。

 この世界の頂点に君臨する最高級の美女たちが、皆一様に自分という一人の男に夢中になり奪い合っているのだ。

 

 耳掃除がもたらす究極の物理的快感と、己の虚栄心が限界まで満たされるという精神的快感。

 その二つの麻薬的な効果が相まって、タチバナの思考能力は完全に麻痺し、危機管理能力はゼロに等しい状態へと陥っていた。

 

 やがて左耳の掃除も完了し、タチバナはこれ以上ないほどの極上のリラックス状態にあった。

 手足の先まで力が抜け、まぶたは重く、今にも幸福な眠りへと落ちていきそうだ。

 

 

「(…ふぅ…最高だったぜ、フィリア。口は悪いが、こうして俺を癒やす道具としては、たまには役に立つじゃねえか)」

 

 

 タチバナが精霊に対する最低の暴言を吐き、完全に油断しきって目を閉じたその時であった。

 

 フィリアは耳かきを虚空へと消滅させると、タチバナの頭を膝に乗せたままゆっくりと、その顔の上へと自らの上半身を屈め込ませていった。

 月光を束ねたような銀色の長い髪がさらりと流れ落ち、タチバナの無防備な頬や首筋を冷たく撫でる。

 

 フィリアはタチバナの耳元、わずか数ミリの距離まで己の唇を寄せた。

 そして彼女がこれまでの観測生活の中で一度も発したことのない、極めて人間らしく、脳髄を直接溶かすような甘く艶めかしい声で静かに囁いた。

 

 

『ねえ、タチバナ?』

「(ひゃっ!? な、ななななんだよ急に…!)」

 

 

 耳に直接吹き込まれたその甘い響きに、タチバナの心臓が驚きと、そして先ほどまでの優越感とは全く別の意味での急激な興奮によって、ドクンッと激しく跳ね上がった。

 目を開けると自分の顔のすぐ上に、息がかかるほどの距離で完璧な造形美を持つフィリアの顔があった。

 

 

『これだけ貴方の下劣な欲求に従い、尽くして差し上げたのですから。…私にも、何か特別な「お礼」をくださっても、良いのではないですか?』

「(お、お礼…!? ま、まさか、精霊のお前も、ついに俺の魅力に…っ!)」

 

 

 タチバナの脳内に、ついにこの無愛想な精霊までもが自分に陥落したという、究極のハーレム妄想が展開されかけた。

 

 

『ええ。例えば、そうですね…』

 

 

 フィリアの顔が、さらに近づく。

 

 

『貴方の、その脈打つ心臓とか』

「(し、ししし心臓!?)」

『ふふっ。冗談ですよ』

 

 

 フィリアは、感情を持たないはずの顔に、極めて精巧に模倣された「蠱惑的な笑み」を浮かべた。

 彼女の白く冷たい手が、タチバナの胸の左側──心臓が脈打つその位置へとそっと置かれた。

 衣服越しであってもトクントクン…という、タチバナの早鐘のような心拍が、実体化したフィリアの掌へと直接的に伝わってくる。

 

 

『ですがタチバナ、決して忘れないでくださいね』

 

 

 彼女の声から先ほどまでの甘い響きが完全に消え去り、絶対零度の吹雪のような冷酷さが戻っていた。

 彼女の唇は美しい弧を描いて笑っている。しかし、至近距離で見つめ合うその紫水晶の瞳の奥底には、一切の光も感情も存在していなかった。

 

『聖剣の管理者である私と、仮初の主である貴方は、魔術的な魂の回線で深く接続されている。すなわち、私がその気になれば…物質界の肉体に干渉し、貴方のこの滑稽な鼓動を、いつでもいかなる手段を用いても、完全に停止させることができるのですよ』

「(ひっ…!)」

 

 

 タチバナの喉が引きつり、声にならない悲鳴が漏れた。乗せられている膝が突然、処刑台の断頭台のように感じられる。

 

 

『例えばこうして…』

 

 

 フィリアがタチバナの敏感な耳の奥へと、意図的に『ふぅ…』と人間と同じ熱を帯びた吐息を吹きかけた。

 

 

 ビクンッ! とタチバナの身体が、抗えない反射によって大きく跳ね上がる。

 

 

『貴方の肉体を甘く痺れさせ…骨の髄までとろとろに溶かして、一切の抵抗力を奪い…貴方がこれ以上ない最高の快楽と幸福に浸っている、まさにその絶頂の瞬間に。…私の指先一つで、ぷつり、と』

 

 

 その声は、魔王の呪いよりも恐ろしく、そして魅惑的な、本物の悪魔の囁きであった。

 

 

『貴方の心臓の機能を、完全に停止させますね』

「(やめろおおおおおおおおおおおおっ!!!!)」

 

 

 タチバナの、魂の根源からの絶叫が、誰にも聞こえない念話となって部屋中に響き渡った。

 先ほどまでの全能感など微塵も残っていない。そこにあるのは、自らの命を完璧に握られている絶対的強者に対する、純粋な恐怖と服従の姿勢だけであった。

 

 

「(俺以外の奴がどれだけ死んでもどうでもいいが、俺を殺すのだけは絶対にやめろ!! 勘弁してくれ! お前は道具じゃなくて俺の絶対的な監視者です! どうか、どうか命だけはお助けください、フィリア様!!)」

『ふふっ。貴方のその、己の命の危機に対する理解の速さだけは、評価に値します。分かればよろしい』

 

 

 フィリアは、タチバナのその完全に屈服した無様な精神状態を確認し、満足げに微笑むと、胸に置いていた手をすっと離した。

 そして、ベッドからゆっくりと立ち上がり、実体化を解いて、再び元の半透明な精霊の姿へと戻っていった。

 

 膝枕から解放されたタチバナは、ベッドの上でガタガタと震えながら、自らの心臓がまだ動いていることを確かめるように、両手で胸を強く押さえつけていた。

 王女も魔導士も僧侶も聖女も。彼女たちがどれほど自分を愛し、崇めようとも。

 結局のところ自分の生殺与奪の権を完全に握っているのは、この感情を持たない銀髪の精霊なのだ。

 

 タチバナは、女たちを支配しているという浅ましい全能感を完膚なきまでに打ち砕かれ、自らがどこまでも逃げられない「絶対的な奴隷」であることを、最も恐ろしい形で再認識させられたのであった。

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