俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
聖都サンクチュリアの大聖堂。その一角に設けられた、美しい花々が咲き誇る庭園の東屋にて。
王女騎士アリシアと僧侶セシリアは、大理石のテーブルを挟んで向かい合い、午後の静かなお茶の時間を過ごしていた。
昨日の訓練場での「出来事」──アリシアとタチバナの密着──以降、彼女たちの間には表面上は穏やかでありながらも、互いを強力な競争相手として牽制し合う、ヒリヒリとした緊張感が漂っていた。
「セシリア。この聖都の茶葉は、心を落ち着かせる素晴らしい効能があるようですな」
「はい、アリシアさん。神の加護を受けた土地の恵みですから」
言葉少なに陶器のカップを傾けていた二人の耳に突如として、その静寂を乱暴に切り裂く快活な声が飛び込んできた。
「あーっ! 勇者様、見っけ!」
その声が誰のものであるか、確認するまでもなかった。
アリシアとセシリアの肩が、同時にピクリと大きく跳ねる。
二人は示し合わせたように音を殺して席を立ち、回廊の太い柱の陰へと滑り込んで、声のした方角をそっと窺った。
そこには、廊下の角で勇者タチバナの左腕にぐいっと己の両腕を絡めつけ、豊かな胸をこれでもかと押し当てている赤毛の魔法使い、メグの姿があった。
タチバナは一瞬驚いたような顔をした後、満更でもないような表情で彼女を見下ろしている。
「あのメグ…! 昨日、私がタチバナ様と手合わせをした際に、あれほど激しく非難していたというのに、己は臆面もなくあのような白昼堂々の抜け駆けを…!」
アリシアの白く美しい額に、青筋が浮かび上がった。
騎士たるもの、言動は一致させるべきである。「他者の抜け駆けを非難しておきながら、自らも奇襲を仕掛ける」という行為は、戦術としては有効であっても、人間としての信義に反する。
というのは表向きの理屈であり、彼女の胸の奥で煮えたぎっているのは「嫉妬」であった。
「め、メグさん…! 神聖なる大聖堂の廊下で、あのような大胆な密着をされるなんて…!」
セシリアは顔を真っ赤に染め上げ、手にした扇子で口元を隠した。
聖職者としての常識からすれば信じがたい破廉恥な行為だ。
だが、セシリアの瞳の奥にあるのは、非難の色だけではない。
「私にはあそこまで積極的にタチバナ様に触れる勇気がない」という、己の奥ゆかしさに対する歯がゆさと、メグの行動力に対する羨望が複雑に絡み合っていた。
やがて、メグが「実験に付き合って」とタチバナの手を引き、二人が連れ立って大聖堂の外──聖都の郊外へと向かって歩き出すその後ろ姿を見送りながら、アリシアとセシリアは無言で視線を交わした。
昨日の自分の抜け駆けに対し、メグとセシリアは一時的に共同戦線を張っていた。
今この瞬間、共通の「敵」は明確にメグへと移り変わった。状況の変化に応じ、最も合理的な同盟関係を再構築する。それは過酷な戦場を生き抜くための絶対法則である。
「セシリア。少し、外の空気を吸いに、散歩と参りましょうか」
アリシアが冷静な、しかし氷のように冷たい声で提案した。
「はい、アリシアさん。私も、街の外の植生に興味がありましたので、喜んでお供いたします」
聖都サンクチュリアの郊外。
草木もまばらな荒涼とした岩場の片隅で、アリシアとセシリアは、身を隠すのに十分な大きさの岩陰に潜み、息を殺して前方の様子を窺っていた。
眼下の開けた場所には、巨大な岩塊をターゲットに見立てたメグと、その少し離れた斜め前方に立つタチバナの姿があった。
「なるほど。新しい攻撃魔法の威力を測る『実験』ですか。タチバナ様を誘い出すための口実としては、極めて合理的で悪くありませんね」
アリシアが、騎士としての冷静な視点で状況を分析する。
「魔法使いが新たな術式を構築した際、指揮官にその威力を提示し、戦術に組み込ませることは部隊の戦力向上に直結します。彼女の行動は、一見するとただの誘惑に見えて、実は軍事的にも完全に理にかなっている…。あの娘、計算してやっているとすれば、なかなかの策士です」
アリシアは恋敵のデート現場であっても、常に相手の行動を論理的に解析しようと努めていた。
「ですが、アリシアさん…! 魔法の実験ならば、なぜタチバナ様をあのような危険な場所…標的のすぐ傍にお立たせするのでしょうか!」
セシリアは、不安で胸が張り裂けそうになっていた。
「いくらメグさんが天才といえど、新術式の行使には暴発の危険が伴います。万が一、タチバナ様の御身に何かあれば…!」
セシリアにとって、タチバナの安全は世界の平和よりも優先されるべき絶対事項である。彼女はメグが己の力を誇示したいがために、タチバナを危険な特等席に置いているようにしか見えず、不満で唇を噛んだ。
やがて、メグが短い杖を掲げ、古代語の詠唱を開始した。
その小さな身体から噴き出す、周囲の空気を歪ませるほどの凄まじい魔力の渦。
「…くっ。あの娘の魔力量と制御の精度は、やはり本物ですね。認めざるを得ません」
アリシアはその圧倒的な魔力の奔流を肌で感じ、少し悔しそうに呟いた。
「はい…。ですが、その強大な力は、タチバナ様を危機からお守りするためにこそ使われるべきですのに…」
セシリアもまたメグの才能を認めつつも、その力の矛先が「タチバナへの自己アピール」に向けられていることに複雑な思いを抱いていた。
二人が息を呑んで見守る中、詠唱に伴って発生した強烈な魔力の風が、メグの極端に短いローブの裾を容赦なく上にめくり上げた。
健康的な太ももが、太い血管と魔脈を露わにするかのように、大胆に風に晒される。
アリシアとセシリアの優れた視力はその瞬間、決して見逃してはならない極めて重要な一つの「事実」を正確に捉えてしまった。
タチバナの熱を帯びた真剣な眼差しが、メグの構築している魔法そのものではなく、風に煽られて激しく揺れ動く彼女の豊かな胸の双丘と、露わになった太ももの絶対領域に完全に釘付けになっていたのだ。
「「(むぅ…!)」」
アリシアとセシリアの心の中に、先ほどまでの冷静な分析を全て焼き尽くすほどの漆黒の嫉妬の炎が爆発的に燃え上がった。
(…あの魔導士! あえて防風措置を施さず、風によって自らの肌を晒すことで、タチバナ様の視線を物理的に誘導しているというのか! なんという卑劣で、そして効果的な戦術…!)
アリシアが、己の鎧に覆われた身体を呪わしく思いながらギリッと奥歯を噛む。
(ああ…タチバナ様の御視線が、あんなにも熱く、メグさんの肌に…神よ! なぜ私には、あのように大胆に肌を晒す勇気がないのでしょうか…!)
セシリアが自らの分厚い僧侶服を握りしめ、敗北感と羨望に打ち震える。
「いっけぇー! あたしの最強魔法! フレイム・ノヴァ!」
メグの絶叫と共に、太陽の破片のような巨大な火球が解き放たれた。
それは恐るべき速度で標的の巨岩に直撃し、天地を揺るがす凄まじい爆発音と共に、岩を原子レベルで粉砕した。
「危ない!」
標的から離れた岩陰にいたアリシアとセシリアでさえ、直後に襲いかかってきた灼熱の爆風と衝撃波に、思わず身を固くして身を縮めた。
数秒後。
砂煙と熱波が通り過ぎ、二人が恐る恐る顔を上げ、荒野の中央へと視線を向けた時。
彼女たちの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景であった。
「な…」
アリシアは、完全に言葉を失った。
そこには爆風からメグの小さな身体を完全に庇うようにして、タチバナが彼女の上に覆いかぶさり、その逞しい身体で彼女を守り切っている姿があった。
(なぜだ。あの役目は、本来、前衛で盾となる騎士であるこの私のもののはずだ。私が、私のこの身体を挺して、タチバナ様をお守りするはずだったのに!)
アリシアの騎士としての矜持と女としての独占欲が、同時に激しく打ち砕かれた。タチバナに「守られる」という圧倒的なヒロインの座を、メグに完全に奪われてしまったのだ。
「ああ…! タチバナ様は、やはりどこまでもお優しい…! ご自身の命の危険も顧みず、咄嗟にメグさんをお守りになられたのですね…!」
セシリアはタチバナの自己犠牲的な行動に、感動でエメラルドグリーンの瞳を極限まで潤ませていた。
自らを犠牲にして他者を救う。それこそが、彼女の信奉する「神たる勇者」の完璧な姿であったからだ。
しかし。
セシリアのその崇高な感動と、アリシアの深い絶望は、次の瞬間、彼女たちの精神を根本から破壊する「究極の地獄絵図」へと変貌を遂げることになる。
「え…?」
アリシアの戦術的思考を司る脳細胞が、完全に活動を停止した。
「あ…?」
セシリアの祈りを紡ぐための桜色の口が、だらしなく半開きになった。
タチバナの顔が傾き、メグの顔が驚きに見開かれる。
二人の距離がゼロになり。
タチバナの唇とメグの唇が、隙間なく重なり合った。
「「……」」
岩陰に潜むアリシアとセシリアの周囲から、世界のあらゆる音が消滅した。
時が、完全に凍りついた。
二人は声を発することすらできず、ただ呼吸を忘れ、目の前で繰り広げられる信じられない光景を、網膜が焼き切れるほどに見開かれた目で呆然と見つめることしかできなかった。
それは、事故ではない。不可抗力でもない。
明確な意思を持った、男性から女性への、愛情と支配欲の表現行為──「口づけ」であった。
一度だけではない。
タチバナは少しだけ顔の角度を変え、今度はより深く、より力強く、メグの唇を貪るように押し付けた。
遠目からでもはっきりと分かる。メグの身体がビクンと跳ね、完全に抵抗をなくして彼を受け入れ蕩けきっていく様。
そして、永遠にも等しい数秒の後。
ゆっくりと二人の唇が離れた瞬間、その間には、陽光を反射して艶かしく光る、一本の官能的な銀色の糸が引かれていた。
「「あぁぁぁっ!!!!!!!!!」」
アリシアとセシリアの喉の奥から声帯を震わせることのない、魂そのものが引き裂かれるような絶望の無音の絶叫が、荒野の岩陰で虚しく木霊した。
(あの魔法使い…!)
アリシアは岩を砕かんばかりの力で拳を握りしめ、怒りと屈辱で奥歯をギリギリと噛み締めていた。
(私との稽古の様子を物陰から盗み見ていたな! そして、私が得た『言葉の告白』のさらにその上を行く、『口づけ』という物理的な既成事実を強奪するとは…! 許さん! 騎士の誇りにかけて、断じて許さん! 次は絶対に、この私がタチバナ様の唇を真っ向から奪い取ってくれる!)
アリシアのサファイアの瞳に、これまでにないほど狂暴で、血に飢えたような闘志の炎が宿る。
(ああ…神よ…なぜです…なぜ、私ではなくメグさんが…)
セシリアはあまりのショックと限界を超えた嫉妬により、その場に力なく泣き崩れていた。
(私も…私もタチバナ様とあのように深く唇を重ねて…あの方の熱を私の中にも…!)
彼女の胸の内にあった「聖母としての無償の愛」は、メグの濡れた唇と銀色の糸を目撃した瞬間、完全に崩壊した。
そこにあるのは一人のメスとして、ただひたすらに愛するオスの独占を渇望する剥き出しの狂気的な欲望だけであった。
天才魔法使いメグ・フレイムハートの、自らの魔法すらも囮にした会心の奇襲攻撃。
それは残された二人の乙女たちの心に、昨日以上の絶望を与えると同時に、血で血を洗うような「より熾烈で、より直接的な戦い」の始まりを告げる、決定的な号砲となったのである。