俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
謁見を終え、タチバナは案内された王城の一室──彼専用の豪華な控え室に入るなり、重厚な扉が閉まる音を確認するや否や、床の絨毯の上に崩れ落ちた。
「もう終わりだ…完全に終わった…!!」
彼は頭を抱え、最高級の織物の上をゴロゴロと転がり回り、子供のように足をバタつかせて現実逃避を図った。
(魔王討伐なんて無理に決まっている! 殺される、絶対に無残に殺される! 全てはお前とこの呪いの剣のせいだ! どうしてくれるんだ!)
彼が見苦しくもがき苦しみ、内心で悪態をついていると、部屋の空中に淡い光が収束し、精霊フィリアが姿を現した。彼女は腕を組み、床を転げ回る契約者を、汚物を観察するような冷徹な視線で見下ろしていた。
『見苦しいですよ。いつまでそうしているつもりですか』
「うるさい! お前にこれから死地に赴く男の気持ちが分かるか!」
『無知とは罪深いものですね。貴方が選ばれたこの聖剣には、持ち主の力量や意思に一切関係なく、敵対する存在を自律的に認識し、最短かつ最適の剣技で殲滅する『聖なる加護』が備わっています』
その言葉に、タチバナの動きがピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、瞬きを繰り返した。
(…え? 今、なんて言った? 持ち主の意思に関係なく、勝手に敵を倒す?)
タチバナの脳内で、その情報の意味するところが猛烈な勢いで解析されていく。
(つまり、俺が剣を握ってさえいれば、あとはこの剣が勝手に戦ってくれるということか!? 俺は何も考えず、ただ剣の動きに身を任せていれば、どんな強敵もなぎ倒せる…!?)
絶望の淵から、一気に強烈な希望の光が差し込んだ。
(それなら安全じゃないか! 傷つくリスクはゼロだ! 俺は最強の力を手に入れたのと同じだ! ぐへへ、これなら魔王討伐とやらも、後ろで見ているだけで楽勝かもしれないぞ!)
タチバナは一瞬にして立ち直り、先ほどまでの絶望が嘘のように、鼻の下を伸ばして不敵な笑みを浮かべた。しかし、フィリアは彼のその浅はかすぎる歓喜を打ち砕くように、紫水晶の瞳をスッと細めた。
『ええ。その通りです。──ただし、私がその加護を与え続けている限りの話ですが』
「(……え?)」
『この聖剣の真の管理者は私です。もし貴方が勝手に逃亡を図ったり、私の意に沿わない行動をとったり、あるいは単に私の機嫌を損ねるようなことがあれば…』
フィリアの顔に底冷えのするような、極めて嗜虐的な微かな笑みが浮かんだ。
『私はいつでも、その加護の供給を断ち切ることができます。迫り来る魔物の群れに対し、貴方自身のその貧弱な腕力だけで立ち向かっていただくことになりますが…よろしいですか?』
(ひっ…!?)
タチバナは悟った。自分は最強の武器を手に入れたのではない。ただ、この美しくも恐ろしい精霊の、完全なる生体部品として組み込まれただけなのだ。彼女の気分一つで、己の命運はいつでも絶たれる。
(俺の命の決定権は、完全にこの精霊に握られている。逆らえば即死…! 奴隷だ、俺はこの女の絶対服従の奴隷になったんだ!)
タチバナの顔から再び全ての血の気が引き、彼は豪華なソファに崩れ落ちて、今度こそ底なしの絶望の淵へと沈んでいくのだった。
【フィリア視点】
重厚なオーク材の扉が、沈み込むような音を立てて閉ざされた。その瞬間、外界と遮断された豪奢な控え室に、窒息しそうなほどの静寂が満ちる──はずだった。
「終わった…」
静寂は床に崩れ落ちた男の絶望的な呟きによって、即座に汚された。
フィリアは空中に浮遊したまま、眼下の光景を冷徹な視線でスキャンした。この部屋は、王族や国賓を迎えるために設計された、王国の威信をかけた空間である。深紅の絨毯は最高級の羊毛で織られ、壁には歴史的価値のある絵画が飾られている。
本来、ここに入る者は、その品格に相応しい振る舞いを求められる。
しかし、聖剣の契約者であるタチバナは、その概念を根本から冒涜していた。彼は膝から崩れ落ち、四つん這いになり、あろうことか絨毯の上をゴロゴロと転げ回り始めたのだ。
「終わった…完全に終わった…!」
彼は仰向けになり、天井に向かって手足をバタつかせている。その姿は、駄々をこねる幼児そのものであり、あるいは裏返って起き上がれなくなった甲虫のようでもあった。
(…嘆かわしい)
フィリアは感情機能をオフにしたまま、客観的事実として評価を下した。歴代の勇者たちも、重圧に苦しみ、個室で弱音を吐くことはあった。だが、彼らは皆、鏡の前で己を鼓舞し、震える膝を叩いて立ち上がったものだ。
床を転げ回り、クッションを顔に押し当てて奇声を上げる勇者など、聖剣の数千年の記録容量を検索しても存在しない。
「魔王討伐? 無理だろ! 絶対に無理だ!」
タチバナの絶叫が、クッション越しにこもって響く。
「俺の戦闘経験なんて、子供の頃に犬に追いかけられて逃げ回ったのがピークなんだぞ! 勝てるわけがない! 死ぬ! 確実に死ぬ!」
フィリアは、彼のバイタルサインを解析した。心拍数の上昇、発汗、瞳孔の散大。彼が抱いているのは「魔王への恐怖」ではない。「安寧な生活が脅かされることへの拒絶反応」だ。
世界がどうなろうと知ったことではないが、自分が痛い思いをするのは絶対に嫌だ。その純度100%のエゴイズムには、ある種の清々しさすら感じる。
(このまま放置すれば、彼は精神崩壊を起こすか、あるいは窓から飛び降りて脱走を図るでしょうね)
フィリアは判断した。管理者として、介入が必要であると。この廃棄寸前の「生体部品」を稼働させるためには、適切な「餌」と、絶対的な「鎖」が必要だ。彼女は遮断していた視覚認識を解除し、タチバナの目の前に姿を現した。
『…見苦しいですね』
銀色の粒子と共に実体化したフィリアを見て、タチバナは飛び上がらんばかりに驚いた。すぐにその表情を憤怒に歪め、濡れ衣を着せるように喚き立てる。
「う、うるさい! 全部お前のせいだぞ! お前があの時、森で俺を脅したりしなければ! 俺は今頃、村で惰眠を貪っていたんだ!」
『原因と結果の法則を理解していないようですね。貴方が金欲しさに剣を抜いた。それが全ての起点です』
フィリアは淡々と正論を突きつけた。だが、論理が通じる相手ではないことは承知している。
「知るか! 俺は被害者だ! もういい、脱走してやる!」
彼はソファーに深々と体を沈め、投げやりな態度で言い放った。フィリアは小さく息を吐くふりをした。そろそろ、「餌」を与えるタイミングだ。
『…いつまでそうして腐っているつもりですか。貴方がどれほど嘆いても、現実は変わりませんよ』
「だから死ぬって言ってるだろ! 俺の腕力を見ろ!」
タチバナは自分の腕をまくり上げ、白くプヨプヨとした二の腕を叩いて見せた。
「剣なんて振ったこともない。重いし、危ないし、汗をかく。そんな俺が魔物と戦ったらどうなる? 一瞬で挽肉だ」
彼の自己分析は正しい。今の彼の戦闘能力は、農民以下だ。ゴブリン一匹相手でも、悲鳴を上げて逃げ回るのが関の山だろう。
『貴方は、大きな勘違いをしています』
フィリアは静かに告げた。タチバナが、訝しげに眉をひそめる。
『貴方は、貴方自身の力で戦うと思っているのですか?』
「あ? 戦うだろ、普通。剣を持って、敵を切る。それが勇者の仕事だろ」
『いいえ』
フィリアは否定し、ふわりと降下した。タチバナの目の前、手の届く距離まで近づく。そして、彼が腰に下げている(下げさせられている)聖剣の柄に、霊体の指先を添えた。
『この聖剣は、単なる鋭利な鉄塊ではありません。これは、古の魔導技術の粋を集めて作られた、自律思考型の殲滅兵器です』
「兵器…?」
『人間には理解し難いかもしれませんが……この剣には、「自動戦闘補助(オート・バトル・アシスト)」とも呼ぶべき術式が刻まれています』
タチバナの表情が、ポカンとしたものになる。専門用語を理解できていない。フィリアは、彼の知能レベルに合わせて噛み砕いて説明した。
『簡単に言えば…貴方が剣の柄を握っている限り、聖剣が敵を自動で認識し、貴方の筋肉に魔力の電気信号を送り、強制的に身体を動かすのです』
フィリアは、タチバナの貧相な腕を指差した。
『貴方の意志や反射神経は不要です。聖剣が貴方の肉体を操り人形のように駆動させ、歴代の剣聖すら凌駕する絶技を繰り出させます。敵の攻撃回避、急所への斬撃、魔法防御…全て、聖剣が最適解を実行します』
タチバナの口が半開きになる。情報の処理が追いついていないようだ。フィリアはダメ押しの一言を添えた。
『つまり、貴方はただ棒立ちになって、剣を握りしめているだけでいい。あとは聖剣が、勝手に敵を細切れにしてくれます』
瞬間。タチバナの顔色が、劇的に変化した。死刑宣告を受けた囚人の顔から、宝くじに当たった瞬間の小市民の顔へ。
「…マジか?」
『ええ』
「俺は、何もしなくていいってことか!?」
彼はソファーから跳ね起きた。その瞳に宿っているのは、勇気でも希望でもない。強烈な「怠惰」への渇望だ。
「努力不要! 修行不要! 労働ゼロ! ただ突っ立ってるだけで、魔物が勝手に死んでいく!? マジかよ、そんな夢のような機能があるのか!」
彼の思考が、フィリアへ流れ込んでくる。
(すげぇ! それなら安全じゃないか! 戦場の真ん中で鼻歌を歌っていても勝てる! 汗もかかずに英雄になれる! 最高の「他力本願」だ!)
『ええ。貴方のような、無能で怠惰な人間のために誂えたような機能ですね』
「最高じゃねえか!」
タチバナは満面の笑みを浮かべ、フィリアに向かって親指を立てた。先ほどまでの絶望はどこへやら。彼は今、聖剣を「便利な全自動掃除機」か何かだと思っている。
「よし、分かった! 勇者やってやるよ! 俺が剣を持って、お前が戦う。完璧な分業制だ! 俺たちは最高のパートナーになれるぜ!」
「くくく…魔王だか何だか知らんが、俺の力でひねり潰してやるぜ! 観光旅行気分で王都へ凱旋だ!」
彼は有頂天になり、誰もいない空間に向かって剣を振るう真似事をしている。その滑稽な姿を見つめながら、フィリアの唇が微かに歪んだ。
「餌」には食いついた。次は、「鎖」をかける番だ。
『ふっ』
フィリアの口から、冷ややかな笑いが漏れた。それに気づいたタチバナが、ピタリと動きを止める。室内の温度が数度下がったような錯覚を、彼も感じ取ったのだろう。
『単純ですね、タチバナ。「最高のパートナー」? …道具風情が、思い上がりも甚だしい』
「あ?」
フィリアの紫水晶の瞳が、怪しく輝きを増す。彼女は、タチバナの耳元へ顔を寄せ、死神のように囁いた。
『一つ、重要な条件を説明し忘れました』
「じょ、条件?」
『この「自動戦闘補助」機能ですが…常時、無条件に発動しているわけではありません』
タチバナの表情が強張る。
『その起動権限は全て管理者である私、フィリアが掌握しています』
「え?」
『つまり…私が「戦闘モード起動」と判断し、術式を展開しない限り、聖剣はただの重たい金属の棒です。貴方はその貧弱な腕力で、迫りくる魔物と戦わなければなりません』
「ま、待てよ」
タチバナは引きつった笑みを浮かべた。彼の浅知恵が回転する。
(いや、でも俺が死んだら困るのはコイツだろ? 契約者なんだから。だったら、ピンチになれば勝手に助けてくれるはずだ)
その思考を読み取り、フィリアは冷酷に告げた。
『勘違いしないでくださいね。私は困りません。貴方が死ねば、契約は解除されます。私はまた聖剣の中で眠りにつき、次の適合者を待つだけですから』
「…ッ!」
もちろん、これは半分嘘だ。適合者はそう簡単には現れない。だからこそ、この「ゴミ」をリサイクルしようとしているのだ。だが、今のタチバナにそれを見抜く眼力はない。彼は、フィリアの言葉を「真実」として受け取り、顔色を青ざめさせた。
『タチバナ。貴方は先ほど、脱走を画策していましたね?』
「ギクッ」
『もし…貴方が私の指示に従わず、逃亡を企てたり、英雄としての品位を損なう言動をとったりした場合。あるいは、私の機嫌を損ねた場合』
フィリアは、タチバナの喉元に、霊体の指を突きつけた。物理的な接触はない。だが、魂を直接撫でられるような悪寒が、彼を貫く。
『私は、戦闘の真っ最中に、補助機能をオフにします』
「!!」
『想像なさい。目の前には、飢えたオークの群れ。彼らが巨大な斧を振り下ろしてきたその瞬間に、貴方の身体から力が抜け、聖剣の守りが消失する』
フィリアは、淡々と、しかし鮮明に情景を描写した。
『貴方の柔らかい皮膚は容易く切り裂かれ、内臓が飛び出し、貴方は自分の血の海で溺れながら、絶望の中で死んでいく。…私はそれを、特等席で記録させていただきます』
「ひっ…!」
タチバナが尻餅をつき、後ずさりする。絨毯を擦る音が、彼の恐怖を物語っていた。
『理解しましたか? 貴方は私のパートナーではありません』
フィリアは彼を見下ろした。それは、家畜を管理する飼い主の目だ。
『貴方は、私の「動力源」であり、「運搬係」であり、「奴隷」です』
「……」
『生殺与奪の権は、私が握っています。楽をして生きたいのでしょう? ならば、死ぬ気で私に奉仕しなさい。私の意に沿う「理想の勇者」を演じなさい。魔王を倒すその瞬間まで、私の操り人形として踊り続けるのです』
タチバナは、口をパクパクと動かしたが、声にはならなかった。彼の脳内で、「楽な勇者生活」という幻想が崩れ去り、「地獄の強制労働」という現実が構築されていく。
『返事は?』
フィリアが短く促すと、タチバナは土下座の姿勢をとった。プライドも何もない。ただの生存本能による服従だ。
「は、はい。分かりました…やらせていただきます…」
『声が小さい』
「やります! 何でもします! だから見捨てないでくれぇぇぇ!」
彼は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、絨毯に擦り付けた。完全に心が折れた音だ。
『結構』
フィリアは満足げに頷いた。やはり、この男には「恐怖」による動機付けが最も効率的だ。
『では、これより貴方を勇者として「運用」します。…もしボロを出したら、今夜の夢の中に、貴方のお母様の死に顔を鮮明に再現して投影しますよ?』
「それだけはやめてくれぇぇぇぇぇ!」
彼の悲鳴が、部屋に虚しく響く。フィリアは、その無様な姿を見つめながら、内なる記録領域にログを残した。
《対象タチバナの精神的制圧、完了。管理レベル1からレベル5へ移行。これより、魔王討伐プログラムを強制実行する》
王や大臣たちは、彼を「覚悟を決めた勇者」だと信じている。だが真実は、サディスティックな管理システムに首輪をつけられ、死の恐怖で鞭打たれる哀れな奴隷が一人、生まれたに過ぎない。
(さあ、行きましょうか、私の可愛い奴隷さん)
フィリアは表情を変えず、しかしどこか愉悦を含んだ思考と共に、震える主を見下ろしていた。
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