俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
聖都サンクチュリアの大聖堂。勇者一行に割り当てられた豪奢な客室は、最高級の調度品と清潔なリネンで整えられ、神聖な静寂に包まれていた。
その静寂はベッドの上に勢いよくダイブした一人の青年の、およそ英雄らしからぬ下品な笑い声によって無惨に引き裂かれた。
「ぐへへへ…!」
聖剣の精霊フィリアは、物質界の物理法則に一切干渉しない半透明の霊体のまま、ベッドの上で身体をくねらせている己の契約者──勇者タチバナの姿を、冷徹な紫水晶の瞳で静かに観測していた。
高位精霊である彼女の知覚網には、タチバナの脳内で現在どのような情報処理が行われているかが、極めて鮮明な情動の波長として読み取れている。
【主タチバナの思考探知開始】
(最高だった…! 爆風から守るふりをして抱きしめた時の、メグのあの信じられないほど柔らかい身体! そして、あの不意打ちのキス! まんまと絆されて、完全に蕩けきっていたあの無防備な顔! 唇を離した時に引いた、あの艶かしい銀色の糸! 思い出すだけで、また血圧が上がってムラムラしてきたぜ!)
タチバナの脳裏では、先ほど聖都郊外の岩場で行われた「魔法の実験」という名目の、極めて悪質で計画的なセクシャルハラスメントの記憶が、何度も繰り返し再生されていた。その思考の構造は、人間が持ちうる理性や道徳観を完全に排除した、実に単純かつ不純な欲望のみで構成されている。
フィリアは、半透明の姿のまま彼の枕元へとふわりと浮遊し、絶対零度の冷気を帯びた思念を直接脳髄へと送り込んだ。
『随分とご満悦のようですね、タチバナ。貴方のその、計算され尽くしたクズ極まりない行動が、またしても一人の乙女の精神を完全に掌握し、堕落させたこと、祝着至極に存じます』
タチバナは、不意に脳内に響いた氷のような皮肉にも全く動じることなく、むくりと上半身を起こした。
「だろ!? これも全て、俺の圧倒的な魅力と実力よ! 俺の完璧な計画通り、メグは完全に俺にメロメロになったからな!」
タチバナは得意満面の笑みを浮かべ、誰もいない部屋の中で高らかに胸を張った。彼の中では、己の生存本能と性欲に従っただけの行為が、深遠なる知略の勝利として見事にすり替えられているのである。
「なあ、フィリア、聞いてるか? アリシアもメグも、もう完全に俺の虜だ!」
タチバナの自画自賛は止まらない。彼は立ち上がり、部屋の中を意味もなく歩き回りながら演説を始めた。
「昨日の剣の稽古で、アリシアは俺の頼もしい男らしさに完全にやられちまった。そして今日の実験で、メグは俺の深い優しさと情熱的な口づけに完全に落ちた! 完璧だ! 美少女たちが俺のために競い合う、完璧なハーレム計画の完成だ!」
フィリアは一切の感情を排した無表情のまま、その滑稽な妄言に対して淡々と相槌を打った。
『ええ。実に完璧な「勘違いの連鎖」ですね。王女アリシアは、貴方の意図的な転倒による明白なセクハラ行為を『荒々しくも情熱的な愛の告白』だと信じ込んでいます。そして魔法使いメグは、貴方の下心しかない不意打ちのキスを『命を懸けて自分を守り抜いてくれた英雄からの、至高のご褒美』だと完全に誤解している。偽りの偶像を崇拝させるという点においては、確かに素晴らしい成果と言えるでしょう』
「勘違いだろうがなんだろうが、結果的に惚れたもん勝ちなんだよ! 過程なんてどうでもいい、最後に甘い汁を吸うのはこの俺様だ!」
フィリアの冷酷な事実の突きつけを「敗者の嫉妬」として都合よく処理し、タチバナは下劣な笑いを顔面いっぱいに張り付けた。
「残るは僧侶のセシリアだけだが…まあ、あいつは放っておいても勝手に俺のものになる! 何せ、あいつにとって俺はすでに絶対的な神様みたいなもんだからな!」
タチバナは両手を広げて自信満々に言い放った。
己の命の危機から生じた自己中心的な絶叫が、結果的に大呪詛を解く奇跡を引き起こした一件。その事実が、セシリアの彼に対する感情を盲目的な信仰へと変質させていることを、彼なりに都合よく理解しているのだ。
その慢心しきった言葉に対し、フィリアは緩やかに首を横に振った。
『残念ながら、タチバナ。貴方のその安直で低俗なハーレム計画には、一つだけ、極めて致命的で大きな見落としが存在しています』
「なんだと?」
タチバナの動きが止まり、怪訝そうな顔でフィリアを睨んだ。フィリアは観察者としての無慈悲な特権を行使し、淡々と事実を告げた。
『本日、貴方がメグと共に岩場へ向かい、そこで行っていた一連の破廉恥な行為ですが。その一部始終をアリシアとセシリアの二名が、少し離れた茂みの影から全て盗み見ていました』
「……は?」
タチバナの得意満面だった顔の筋肉が、瞬時に石膏のように凍り付いた。自慢げに広げていた両腕が、力なくだらりと下がる。
「み、見てたのか!? あいつら!? 俺とメグの、あの…!?」
『ええ。最初から最後まで、文字通り全てを観測されていました。貴方が爆風に乗じてメグの上に覆いかぶさる瞬間も。貴方が彼女の唇を強引に奪う瞬間も。そして唇を離した瞬間に引かれた、あの官能的な銀色の糸が切れる瞬間までも、余すところなく』
情景を的確に描写する丁寧すぎる説明に、タチバナの顔面から全ての血の気が急速に失われていく。
「や、やべえ…! じゃ、じゃあ俺はあいつらに…!」
『ええ。二人の女性を天秤にかけ、裏で別の女と密会して唇を重ねる…間違いなく、最低な浮気者として認識され、激しい怒りと軽蔑を一身に集めていることでしょうね』
「どうすんだよ! アリシアとセシリアに嫌われたら、俺の安全で快適なハーレム計画が根本から崩壊しちまうじゃないか!」
タチバナは頭を両手で抱え込み、部屋の絨毯の上をオロオロと歩き回り始めた。せっかく手に入れた最高の護衛兼世話係を失う恐怖が、彼をパニックへと追い込む。
その醜い狼狽ぶりに、フィリアは深々とため息をついた。
『貴方は本当に、人間の精神の歪さというものを何も分かっていませんね、タチバナ』
「何がだよ! 浮気現場を見られたんだぞ! 普通なら幻滅して包丁持って刺しに来るレベルだろ!」
『それは、相手が正常な倫理観を持っている場合の話です。彼女たちは、貴方に幻滅など一切していませんよ。むしろ、事態はその全く逆の方向へと進行しています』
フィリアは自らの知覚網が捉えた最新の精神波長の分析結果を、冷徹に報告した。
『王女アリシアは、貴方とメグの口づけを目撃し、『あの魔法使い…! 次は私が必ず、タチバナ様の唇を真っ向から奪い取ってくれる!』と、騎士としての闘争本能に火をつけ、新たな闘志を燃やしています。彼女の精神内において、貴方はもはや敬うべき指導者であると同時に、『女の意地を懸けて奪い合うべき、絶対的な戦利品』へと変質しているのです』
「しょ、賞品!?」
『そして僧侶セシリアですが、彼女は物陰で、『神よ、なぜ私ではなく…私も、タチバナ様とあのように…!』と、激しいショックと嫉妬で泣き崩れていました。彼女の貴方への狂気的な信仰心は、今回の件で「強烈な嫉妬」という名の爆発的な燃料を得ました。今後、彼女の献身はより排他的で、より狂信的なものへと進化を遂げることでしょう』
「え?」
フィリアのもたらした常軌を逸した情報処理結果に完全に混乱し、目を白黒させていたまさにその時であった。
コンコン。
静まり返った客室の重厚な木製の扉が、控えめなノックがされた。
「タチバナ様。アリシアです。少し、よろしいでしょうか」
「(ア、アリシア!?)」
タチバナの心臓が、恐怖と焦燥で跳ね上がった。
(どうする!? 怒ってないとはいえ、浮気現場を見られた直後だぞ! どんな顔をして会えばいいんだ!?)
タチバナは内心で絶叫しながらも自らの喉を整え、恐る恐る扉のノブに手をかけた。
扉を開けると、そこには、いつもの堅苦しい鎧姿ではなく、ゆったりとした修道着のような私服に身を包んだアリシアが立っていた。彼女の顔には、どこか退路を断ったような、極めて真剣で、決意を秘めた表情が浮かんでいる。
彼女は、招かれるのを待たずに部屋の中へと一歩足を踏み入れると、逃げ道を塞ぐように扉を閉め、真っ直ぐにタチバナの瞳を見つめて言った。
「タチバナ様。先ほどの、郊外の岩場でのメグとのこと…私、すべて見ておりました」
「(うわああああ! やっぱり! 直球で来やがった!)」
タチバナの額から嫌な汗が噴き出す。いかに彼女が自分に惚れているとはいえ、ここでの対応を間違えれば、首と胴体が物理的に離別する可能性がある。
しかし、アリシアの口から次に紡がれた言葉は、タチバナの卑小な予想を遥かに超えるものであった。
「ですが、私はメグには負けません。貴方様の唇は、本来であれば私が先に奪うはずのものでしたから」
「へ?」
タチバナの口から、間抜けな声が漏れる。
アリシアがグッと距離を詰め、タチバナの顔のすぐ近くまで迫ってきた。彼女のサファイアブルーの瞳は、熱い涙の膜で潤みながらも、絶対に退かないという挑戦的な光を強烈に宿している。
それは獲物を狙う肉食獣の目であり、同時に愛する男を独占したいと渇望する、純粋な女の目であった。
その瞬間。タチバナの極めて優秀な「クズの脳細胞」が、直面した危機を最大限の利益へと変換するための、最高の最適解を弾き出した。
(そうだ。こいつも、俺に完全に惚れ込んでいるんだった。俺が優位な立場にあることに、何一つ変わりはない!)
タチバナの顔から焦りが消え、代わりに底知れぬ大人の余裕を装ったニヤリとした笑みが浮かんだ。
彼はアリシアがさらに言葉を続けようと唇を開いたその瞬間を狙い、彼女の滑らかな顎に、そっと右手を添えた。
「え…?」
驚きにアリシアのサファイアブルーの瞳が大きく見開かれた。タチバナは、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、一切の躊躇いなく、そのまま己の顔を傾け、強烈な勢いで自分の唇を彼女の唇へと重ね合わせたのである。
「っ!!」
メグの時のような、ふわりとした柔らかさとは違う。過酷な鍛錬に耐えてきた騎士らしい、けれど内側から燃えるような熱を帯びた唇の感触。
不意を打たれたアリシアの身体がビクンッと大きく跳ね上がり、彼女の両手が力なくタチバナの胸の辺りを彷徨う。
タチバナは己の支配欲を満たすように、数秒間だけその極上の感触をじっくりと味わい尽くし、そしてゆっくりと名残惜しそうに唇を離した。
アリシアは顔を耳の先まで真っ赤に染め上げ、呼吸を忘れ完全に呆然と立ち尽くしている。
そんな彼女の反応を完璧に計算に入れた上で、タチバナは悪戯っぽく甘く低い声で耳元に囁いた。
「フライングは感心しないな、アリシア。だが君のその積極性は、決して嫌いじゃない」
吐き気を催すほどにキザで計算された言葉が投下された瞬間。
アリシアの騎士としての強靭な理性は完全に音を立てて崩壊し、彼女の思考回路は修復不可能なレベルで停止した。彼女はただ、熱を帯びた瞳でタチバナを見つめ返すことしかできなくなっていた。
完全に放心状態となり、足元をふらつかせながら夢見心地で部屋を後にしたアリシアを見送った後。
タチバナは、扉に鍵をかけると、再び豪華なベッドへと勢いよく倒れ込んだ。
部屋の空間が微かに歪み、事の顛末を全て観測していたフィリアが静かに姿を現す。
『お見事ですね、タチバナ。嫉妬の炎に油を注ぐという言葉を、これほどまでに完璧な形で、自らの欲望のためだけに実践してのける人間を、私は貴方の他に知りません』
フィリアの声にはもはや怒りも呆れも超越した、純粋な感嘆に似た虚無感が漂っていた。
だが、タチバナはフィリアの皮肉を意にも介さず、ベッドの上で身をよじりながら、最高に下品で、幸せに満ちた笑い声を腹の底から響かせた。
「ぐ…ぐへ…ぐへへへへ!」
タチバナは両手で顔を覆い、狂喜乱舞する。
「最高じゃねえか…! 天才魔法使いと王女騎士、この世界でもトップクラスの美女たちが、この俺の唇を巡って本気で争っている! これぞまさに英雄の証! まさに全てを手に入れた覇王! ああ、たまんねえ! この優越感、死んでも手放したくないぜ!」
フィリアはベッドの上で完全に理性のタガが外れ、自らの築き上げた砂上の楼閣の頂点で踊り狂う完全なるクズの姿を、ただ無感動な紫水晶の瞳で見下ろしていた。
(…駄目ですね、こいつ。もう完全に手遅れです。自ら地雷原の中央でタップダンスを踊っていることにすら気づいていない)
主の果てしない堕落と、これから確実に訪れるであろう凄惨な破滅的未来を確信し、フィリアはそれ以上の言葉を発することなく、静かに霊体を霧散させ、聖剣の奥底へと戻っていった。
ベッドの上で歓喜に酔いしれるタチバナは、まだ気づいていなかった。
大聖堂の分厚い扉の向こう。長い廊下の暗がりで僧侶セシリアが、握りしめたロザリオに異常なほどの力を込めながら、
「次は…次は必ず私の番ですわ…!」
と、瞳の奥にどす黒い情念の炎を燃やし、恐るべき闘志を研ぎ澄ませていることを。
偽りの英雄が自ら招いた、欲望と狂信が入り乱れる本当の地獄は、まだほんの序章に過ぎないのだった。