俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
聖都サンクチュリアの大聖堂は、数百年もの間変わらぬ静寂と祈りに包まれている。
しかし僧侶セシリア・ホワイトリリーの心の中だけは、ここ数日、微細で無数の棘に刺されたような痛みに絶え間なく苛まれていた。
(…このままではいけません)
ステンドグラスから差し込む光を浴びながら、セシリアは胸の前で両手をぎゅっと固く握りしめた。
彼女の心臓を締め付けているのは、他でもない。共に勇者タチバナの背中を護る仲間である、アリシアとメグの積極的すぎる行動の数々であった。
剣の稽古という名目で、普段は決して見せないような軽装でタチバナの隣を確保したアリシア。
魔法の実験と称してタチバナを郊外へ連れ出し、自らの身を挺して守られるという究極の絆を結んだメグ。
(あの後、二人がどのような甘い時間を過ごしたのか、想像するだけで胸が苦しくなります…)
彼女たちは、自らの女性としての魅力を最大限に活用し、タチバナとの距離を確実に縮めている。それに比べて、自分はどうだろうか。
常に一歩引いた場所から、彼が怪我をした時にだけ癒やしの祈りを捧げるだけの存在。待っているだけで、自分から行動を起こそうとはしない、意気地のない女。
(私も…私も、もっとタチバナ様のお役に立ちたい…いいえ、お役に立つだけではないのです)
セシリアは、己の内に芽生えた感情の正体を、もはや否定しなかった。
神に仕える身として、万人に等しく愛を注ぐべきであるという教義。しかし、その高尚な理屈を完全に吹き飛ばすほどに、彼女は彼に惹かれてしまっていた。
(私は、あの方の特別な一人になりたい…!)
利己的な想いが、彼女にこれまで持ったことのない大きな勇気を与えた。
セシリアは深呼吸をし、大聖堂の中庭で一人、大理石のベンチに腰掛けている黒髪の青年──タチバナの元へと、弾かれたように歩みを進めていた。
一歩近づくごとに、心臓が張り裂けそうなくらいに激しく高鳴る。
もし迷惑そうな顔をされたらどうしよう。忙しいと断られたら、私はきっとその場で泣き崩れてしまうだろう。
「あ、あのタチバナ様…」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
タチバナが、ゆっくりとこちらを振り返る。その端正な顔立ちと、静かな瞳がセシリアを捉えた。
「ん? どうしたセシリア」
「その皆様のお怪我を癒やすための、補充用の薬草が少なくなってまいりまして…もし…もしよろしければ、私と一緒に、森へ薬草摘みに行っていただけませんでしょうか…?」
顔が火のように熱い。セシリアは俯き、自分のつま先を見つめながら必死に言葉を紡いだ。
数秒の沈黙。その時間が、セシリアには永遠のように感じられた。
やがて、頭上から、信じられないほど優しく、そして頼もしい声が降ってきた。
「ああ、もちろん同行しよう。君を一人で行かせるわけにはいかないからな」
セシリアがハッと顔を上げると、そこには、彼女を包み込むような、聖母…いや、全てを許し受け入れる神のような慈愛に満ちた完璧な笑顔を浮かべたタチバナがいた。
(ああ…! 私のことを、私の身の安全を一番に心配してくださっている… …!)
その絶対的な事実だけで、セシリアの心は重力から解放されたように天にも昇る心地であった。
彼女が勇気を振り絞って踏み出したその小さな一歩は、彼女の人生の軌道を大きく変える、世界で一番大きな一歩となったのだ。
聖都の郊外に広がる、豊かな緑に包まれた静かな森。
木漏れ日が差し込む獣道を、タチバナとセシリアは二人きりで歩いていた。
森の中は静寂に包まれ、時折聞こえる鳥のさえずりと、風が木の葉を揺らす音、そして、タチバナが枯れ枝を踏む足音だけが、心地よいリズムを刻んでいた。
周囲に、アリシアもメグもいない。護衛の騎士もいない。
ただ、自分と、彼だけ。
(タチバナ様と、二人きり…)
その事実が、セシリアの胸の奥底から甘い幸福感を湧き上がらせ、全身を満たしていく。
彼女は、足元に生えている薬草を丁寧に摘み取りながら、時折、立ち上がってはこっそりとタチバナの横顔を盗み見ていた。
周囲の警戒を怠らず、常に気を張っているような真剣な表情。そして、自分が転ばないように、歩幅を合わせてくれる優しい気遣い。
(素敵…)
胸がきゅんと、痛いほどに高鳴る。
タチバナがふと視線をこちらに向けると、セシリアは心臓が口から飛び出しそうになり、慌てて視線を足元の薬草へと逸らす。そして、彼が前を向くと、またそっとその横顔を見つめる。
その無意識の繰り返し。まるで、古い恋愛小説に登場する、初恋を知ったばかりの純真な少女そのものであった。
「セシリア。あっちの崖の縁の方に、見慣れない植物が生えているのが見える。もしかしたら、より効能の高い珍しい薬草かもしれない。俺が安全を確認しながら案内するから、少し見てみよう」
タチバナが立ち止まって前方を指差し、セシリアを導くように優しく声をかけた。
「はい! タチバナ様!」
セシリアは何の疑いも持たず、喜んで彼の広くたくましい背中を追いかけた。
彼が導いてくれる道ならばいかなる危険な場所であろうとも、そこは光に満ちた安全な場所となる。
彼女は彼を独占できる幸せな時間が一日でも一秒でも長く永遠に続けばいいのにと、心の底から神に祈っていた。
森の木々が途切れ、視界が急に開けた場所へと出た。そこは眼下に切り立った岩肌と深い森の底が広がる、見晴らしの良い崖であった。
足元の土は脆く、一歩間違えれば底知れぬ谷底へと真っ逆さまに転落してしまう危険な場所。
「気をつけろよ、セシリア。足元が緩くなっているからな」
「はい、ありがとうございます、タチバナ様。…あ、本当に。岩の隙間に、青い花が…」
セシリアの視線が崖の縁のギリギリの場所に咲く、一輪の美しい可憐な花に捉えられた。
彼女がその花を近くで見ようと、タチバナの横を通り抜けて無防備に一歩前へと踏み出した、まさにその瞬間だった。
「うわっ!?」
タチバナの、予期せぬ驚きの声。
次の瞬間。セシリアは、自らの腕を、万力のような強い力で後ろからがしりと掴まれるのを感じた。
「え…?」
理解する間もなかった。
足元から地面の感覚が完全に消失し、強烈な重力だけが彼女の身体を支配した。
視界が上下に反転し、青い空と緑の森が、凄まじい速度でぐるぐると回転していく。
自分が、タチバナと共に、この高い崖から空中へと投げ出され、落下しているのだという事実を脳が処理した瞬間。
「きゃああああっ!!!!」
死の恐怖がセシリアの全身を貫き、森の静寂を切り裂く悲鳴が口からほとばしった。
だが彼女の心を支配した最大の絶望は、自らの命が失われる恐怖ではなかった。
(私のせいで…! 私が不注意に縁に近づいたせいで、タチバナ様を巻き込んでしまった…!)
自らの不用意な行動が、世界を救うべき尊い命を、ここで終わらせてしまう。
その圧倒的な罪悪感と絶望が、落下する彼女の思考を真っ黒に塗り潰そうとしていた。
ガクンッ!! という、関節が外れるかのような凄まじい衝撃。
落下による風切り音が止まり、セシリアはハッと我に返った。
気づけば、自分は底知れぬ谷底に叩きつけられたわけではなく、温かく、そして圧倒的に力強い「腕の中」に、しっかりと抱きしめられ、固定されていた。
タチバナが、空中で奇跡的な身体能力を発揮し、片手で崖の中腹から突き出た太い木の根にぶら下がり、もう片方の腕でセシリアの身体を落ちないように全力で支えてくれていたのだ。
「だ…大丈夫か、セシリア! しっかりしろ!」
頭上から降ってきた、苦痛に耐えるような、しかし決して諦めない必死な声。
セシリアは、タチバナの胸に顔を埋めたまま、恐怖と罪悪感でわなわなと震えていた。
「も…もうだめです…! タチバナ様、私のことはお構いなく、その手を離してください…! 貴方様だけでも、助かって…!」
片腕だけで二人の体重を支え続けることなど、物理的に不可能だ。このままでは、二人とも落ちてしまう。
セシリアは、涙を流しながら彼に身を切るような願いを告げた。
「馬鹿なことを言うな!」
タチバナの怒号が、谷間に響いた。
「俺が、君を見捨てるわけがないだろうが!」
「ですが…! このままでは、二人とも…!」
「絶対に離さない!」
タチバナは彼女の身体を抱きしめる腕の力を、さらに強く骨が軋むほどに強めた。
「君がいないパーティなど、考えられない! 君がいない世界など、俺には全く意味がないんだ!」
──君がいない世界など、意味がない。
その言葉がセシリアの鼓膜を震わせた瞬間、彼女の世界から死の恐怖も罪悪感も全てが完全に消え去った。
意味がない?
私がいないと?
この、取るに足らない、ただ癒やすことしかできない私が、世界を救う英雄である貴方にとって、それほどまでに絶対的で、不可欠な存在であると?
彼女のエメラルドグリーンの瞳から絶望ではなく、歓喜の大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「タチバナ…さま…」
セシリアは、彼を見上げた。
その表情は、もはや死に怯える脆弱な少女のものではなかった。
絶望の底知れぬ淵において、自らの命を削ってまで自分を救い出してくれる、ただ一つの絶対的な光。唯一無二の神を見上げる、敬虔な信徒のそれであった。
彼女は震える細い両腕をゆっくりと伸ばし、タチバナの首にしっかりと回した。そして彼の力強い身体に、己の全てを委ねるようにぎゅっとしがみついた。
「もう…私の命は、貴方様だけのものです…これから先どこまでも…お供させてください…」
彼と共にあるのなら、このまま落ちて死ぬことさえ怖くない。彼女は本心からそう思えた。
「ああ。絶対に助けてやる。だから、俺を信じろ」
タチバナの迷いのない力強い言葉。
セシリアはこくこくと、涙を流しながら深く頷いた。
そうして、どれほどの時間が経過しただろうか。
タチバナが身体を持ち上げ、木の根から岩肌へと飛び移り、二人はなんとか崖の上へと生還することができた。
セシリアは草の上にへたり込んだまま、まだ全身の震えが止まらなかった。
タチバナが彼女の隣に腰を下ろしその細い肩を力強く、そして優しく抱き寄せてくれる。
「ふぅ…もう大丈夫だ、セシリア」
その声が先ほどの必死な叫びとは打って変わり、あまりにも優しくて、温かくて。セシリアはまた、堰を切ったように泣きそうになった。
生きてる。彼のおかげで。
彼に守られた。
その絶対的な事実が、彼女の心を底なしの幸福感で満たしていく。
もはや彼女が彼に向ける想いは神に対する感謝や、英雄に対する尊敬などという安全な距離を保ったものではなくなっていた。
(…好き。大好き)
ただ一人の男性として、心の底から魂の奥底から愛おしい。
その想いが、彼女の小さな胸の中で今にも爆発してしまいそうだった。
その時だった。
タチバナが彼女の肩を抱いていた手を動かし、彼女の柔らかい顎にそっと指先を添え、顔を下から覗き込んでくるように傾けてきた。
「え…?」
タチバナの真剣で熱を帯びた黒い瞳が、まっすぐに彼女の瞳を射抜いている。
セシリアの心臓が、耳元で狂ったように早鐘を鳴らし始めた。
彼の顔が、ゆっくりと、しかし確かな意思を持って近づいてくる。
ダメだ。神に仕える身として、洗礼前のこのような行いは許されない。
そう、理性では分かっているのに。彼女の身体は魔法にかけられたように一ミリも動かず、ただ彼の熱を受け入れる準備をしてしまっていた。
そして。
柔らかくて少しだけ乾いた彼の唇がセシリアの震える唇に、そっと隙間なく重ねられた。
「んっ…!」
セシリアの身体が、ビクンッと大きく跳ねた。
頭の中の思考が完全に真っ白に染め上げられる。
ただ、唇に触れる彼の確かな体温と、力強い男性の香りだけが、世界で唯一の現実として彼女の神経を支配していた。
一度だけ、軽く触れるように離れた唇が、今度は僅かに角度を変え、より深く、逃げ道を塞ぐように重ねられる。
「ん…ぅ…っ」
セシリアの口から、抑えきれない甘い声が漏れた。
彼の舌が彼女の唇の隙間を優しく、けれど強引になぞり、こじ開けようとしてくる。
ダメだと分かっているのに、彼女にはそれを拒む力など残されていなかった。
セシリアはおずおずと、自ら唇をわずかに開き、彼の一切を受け入れた。
初めての、深く侵入されるキス。
それは花の蜜のように甘く、彼が唇を噛んだのか少しだけ鉄の味がした。
彼女の腰を抱くタチバナの腕の力が強まる。
息が苦しい。酸素が足りない。
でもそれ以上に、彼とこうして溶け合っている事実が幸福すぎて、心が完全に蕩けてしまいそうだった。
永遠にも感じられる長い長い口づけの後。
ゆっくりと名残惜しそうに二人の唇が離れる。
セシリアは潤みきった瞳で、ただ彼をうっとりと見つめることしかできなかった。
頬が火傷しそうに燃えるように熱く、呼吸を整えることすらままならない。
「すまない。これも君を危険な目に遭わせ、守りきれなかった俺からの罰だ。でも本当は、ずっとこうしたかったのかもしれないな」
タチバナの、少し照れたような、低く掠れた囁き。
その言葉が、セシリアの心に掛けられていた最後の錠前を、完全に破壊し尽くした。
(信仰? 聖母としての務め? そんなものは、もうどうでもいい)
彼女の目の前にいるのは、万民を救う神様なんかじゃない。
この世界でただ一人私が愛し私を愛してくれる、たった一人の男性だ。
「タチバナ様…!」
セシリアは、もはや己の感情の奔流を抑えきることはできなかった。
彼女は自らタチバナの広い胸へと身を投げ出し顔を深くうずめると、子供のように声を上げてわんわんと泣きじゃくった。
死の恐怖から解放された涙ではない。
一人の乙女として己の全てを懸けた恋が見事に成就した、極上の嬉し涙であった。