俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
三輪の華と欲望の品定め
人間という生き物は、逃れようのない絶望の淵に立たされた時、極端に思考の幅が狭まるか、あるいは逆に、どうでもいい細部に意識を逃避させる傾向があるらしい。現在のタチバナは、間違いなく後者の状態に陥っていた。
(……このソファの布地、とんでもなく上等だな。肌触りが赤ん坊の産毛みたいに滑らかだ。中に入っているのは最高級の水鳥の羽毛か? このクッションを一つ持ち出して裏町で売り捌けば、銀貨何十枚になるだろうか)
王城の特別控え室。タチバナはその豪奢なソファの座面に、まるで形を失った泥のように深く沈み込んでいた。
背骨の支えを完全に放棄し、焦点の合わないうつろな瞳で天井の豪奢な装飾画を見上げる。そこには、古代の英雄が悪しき竜を打ち倒す勇壮な姿が描かれていたが、今のタチバナにはそれが「これから無残に魔物の餌食となる哀れな生贄の図」にしか見えなかった。
終わった。自らの類稀なる容姿と甘え上手な性格を武器に、村の女たちに養ってもらうという「華麗なる寄生生活」。その完璧な人生設計は、今や木端微塵に粉砕された。代わりに強制的に課せられたのは、「魔王討伐」という名の、拒否権のない死の強制労働である。
(俺が何をしたって言うんだ。ただ、森で高く売れそうな石のついた剣を拾い、それを元手に少しばかり贅沢をしようと企んだだけじゃないか。人間なら誰しもが抱く、ささやかな向上心だろうが)
タチバナは内心で激しく毒づく。その向上心の方向性が「自らの努力」ではなく「拾い物の横領」に向いていたことなど、彼は都合よく棚の上に放り投げていた。自分に甘く、他人に厳しく生きるのが彼の絶対的な信条である。
わずかに視線を動かすと、すぐ隣の空間に、この絶望の元凶である銀髪の美少女──聖剣の精霊フィリアが、重力など存在しないかのようにふわりと浮遊していた。
彼女は腕を組み、宝石のように透き通った紫水晶の瞳で、道端の汚物を観察するような冷徹な視線をタチバナに注いでいる。
『…いつまでそうしているつもりですか。見苦しいにも程があります』
脳髄に直接響く声は、氷の刃のように鋭く冷たい。タチバナはビクリと肩を震わせたが、声に出して反論する気力すらなかった。
(うるさい! お前に俺の絶望が分かるか! これから死地に赴く男の悲哀が! 俺の戦闘力は農民以下だぞ? 森のスライム相手でも、三秒で背を向けて逃げ出す自信があるんだぞ!)
『その肉体的な脆弱さは既に確認済みです。だからこそ、聖剣には敵を自動で殲滅する加護が備わっているのでしょう』
(その加護のスイッチを握っているのが、血も涙もないお前だっていうのが最大の問題なんだよ!)
タチバナとフィリアは、決して「一蓮托生」のパートナーではない。彼らの関係は「看守」と「囚人」、あるいは「猛獣使い」と「鞭で打たれる哀れな獣」に等しい。
タチバナが少しでも逃げ出そうとすれば、彼女は戦闘の最中に「あっ、手が滑って加護を切ってしまいました」と涼しい顔で実行しかねない。そしてタチバナが魔物に食い殺された後、彼女は「では、次の持ち主を探しましょう」と何事もなかったかのように去っていくのだ。
タチバナの命の決定権は、完全にこの無機質な精霊に握り潰されていた。
(…詰んだ。俺の人生、完全に詰んだ)
タチバナが再びソファの柔らかな生地に顔を埋め、現実逃避のまどろみに落ちようとした、その時だった。コンコン、と。控えめで、しかし逃れようのないノックの音が重厚な扉から響いた。
「勇者タチバナ様。王がお呼びです。ご同行ください」
扉越しに聞こえる騎士の低い声。それはタチバナにとって、死刑執行を告げる呼び出しに等しかった。
(またかよ! さっき謁見は終わっただろうが! もう勘弁してくれ!)
タチバナは心の中で悲鳴を上げる。まさか、もう魔王軍が王都に攻めてきたのか? 「さあ勇者よ、今すぐ城壁の前に立って死んでこい」という命令か? タチバナは、死刑台の階段を上る罪人のような絶望的な足取りで立ち上がり、重い足を引きずりながら再び謁見の間へと向かった。
再び足を踏み入れた謁見の間は、先ほどと同じく圧倒的な威圧感と、目が眩むほどの豪華さでタチバナを迎えた。高い天井から吊るされた魔石の灯具、床に敷き詰められた深紅の絨毯、居並ぶ大臣たち。そして正面の一段高い場所には、威厳に満ちた国王リチャード三世が鎮座している。
タチバナの目は、それら全ての豪奢な装飾を完全に素通りした。彼の視界は、玉座の傍ら、王の右手側に整列している「三つの影」に強烈に釘付けになったのだ。
王が「共に旅をする最高の仲間を用意した」と言っていたのは覚えている。どうせ、筋肉の塊のような大男か、気難しそうな年老いた魔術師、あるいは説教臭い神官あたりだろうと予測していた。だからタチバナは、適当な理由をつけて彼らとの会話を拒否し、少しでも自室で休む時間を稼ごうと考えていたのだ。
しかし現実は、タチバナの貧困な想像力を遥かに凌駕していた。そこに並んでいたのは、むさ苦しい戦士などではなかった。この世の美の結晶を具現化したかのような、三人の絶世の美少女たちだったのだ。
「…っ!?」
タチバナの絶望に塗りつぶされていた思考が、一瞬にして鮮やかな色彩を取り戻した。灰色だった彼の世界に、爆発的な光が差し込む。心臓の鼓動が、「死の恐怖」による早鐘から、「オスの本能」による歓喜の乱打へと切り替わった。
タチバナの目は、獲物を品定めする商人のように鋭く、そして粘着質に、彼女たち一人一人の全身を舐め回し始めた。
まず、一番左に立つ少女。輝くような金髪を優雅な縦巻きに整え、意思の強そうなサファイアブルーの瞳を持つ。育ちの良さが全身の立ち振る舞いから滲み出ている。彼女が身に着けているのは、白銀の美しい甲冑だ。
だが、タチバナが注目したのはその防御力ではない。装甲の「形状」である。
(なんてこった。あの金属の胸当て、彼女の豊かな胸の膨らみに合わせて、完璧な曲線で成形されてやがる!)
鋼鉄の硬さを誇りながら、その内側に豊満な果実が存在することを、これでもかと主張するような扇情的なデザイン。くびれた腰から広がるスカートアーマー、そしてそこから伸びる、鍛え抜かれたしなやかな脚。武骨な鎧でありながら、女性特有の柔らかさを一切損なっていない。
(気品ある顔立ちに、あの暴力的なまでのプロポーション…! 文句なしの合格だ! 超合格だ!)
タチバナの脳内審査員が、狂喜乱舞しながら満点の札を挙げる。
次に、真ん中の少女。燃えるような赤毛を二つ結びにし、大きな琥珀色の瞳を好奇心で輝かせている。口元には不敵な笑みを浮かべる、元気はつらつとした少女だ。彼女が纏うのは魔法使いのローブだが、その丈は常軌を逸して短かった。
(おいおい、正気か? あのスカート丈、ちょっと前屈みになっただけで全てが露わになるぞ?)
健康的な素肌が眩しい。太陽の下で駆け回るために作られたような、引き締まった脚。そして、無造作に開かれたローブの胸元からは、金髪の騎士に勝るとも劣らない、重力に逆らう二つの豊かな膨らみが主張している。彼女が動くたびに、その質量が弾むように揺れるのを想像し、タチバナの喉がゴクリと鳴った。
(活発な元気っ子! しかもあの露出度! あの無防備さは、俺のような男を誘っているとしか思えん! 神よ、やはりあなたは俺を見捨ててはいなかった!)
そして最後、右端に立つ少女。彼女を見た瞬間、タチバナの理性の防波堤は完全に決壊した。
ふんわりとした桜色の長い髪。少しタレ気味の、エメラルドグリーンの瞳。そこには、見る者の心を溶かすような慈愛と優しさが満ち溢れている。身に纏うのは、聖職者であることを示す純白の法衣。だが、その服の作りが、彼女の発育の良さに全く追いついていなかった。
(ぐはっ…! とどめだ…! なんだあの僧侶は!)
清楚な布地の上からでもはっきりと分かる、圧倒的なまでの山脈。彼女が呼吸をするたびに、胸元のボタンが悲鳴を上げて弾け飛びそうなほどの異常な緊張感を生み出している。少し視線を下げるだけで、そこに形成された深い谷間が、男の理性を吸い込む底なし沼と化していた。
おっとりとした聖母のような微笑みと、その凶悪なまでの肉体的暴力のギャップ。
(癒されたい…! あの胸に顔をうずめて、俺の日頃のストレスを全て吐き出したい…! 回復役がこんな美女とか、わざと怪我をして手当てをせがむ奴が続出するだろ! 主に俺が!)
三者三様。気品の騎士、情熱の魔法使い、慈愛の僧侶。全員が息を呑むほどの美貌と、タチバナのストライクゾーンを粉砕するほどの肢体の持ち主であった。しかも、これから「仲間」として一緒に旅をするのだ。
寝食を共にし、野営で彼女たちの無防備な寝顔を眺め、怪我をしたフリをして合法的なスキンシップを図ることができる。
(ぐへへ、ハーレムだ…! これは夢のハーレム勇者パーティだ!)
あまりの供給過多。
莫大な視覚情報の洪水。
タチバナの脳内は、欲望という名の処理で完全に埋め尽くされ、限界を超えて機能停止に陥った。
彼は口を半開きにし、誰が見てもだらしないアホ面を晒したまま、彼女たちを凝視して固まった。瞬きすら忘れた。言葉も出ない。ただひたすら、三人の美女の「揺れる箇所」や「柔らかな箇所」を目で追いかけ、脳内でその感触を想像することに全知能を注いでしまったのだ。
タチバナの煩悩まみれの凝視によって、謁見の間に奇妙な沈黙が落ちた。王が何か言いたげに口を開きかけ、大臣たちも勇者の次の行動を待って固唾を飲んでいる。だが、タチバナは微動だにしない。目の前の「楽園」を網膜に焼き付ける作業に忙殺され、現実世界への応答機能が完全に停止していたからだ。
その完璧な静寂の世界に、氷の刃を突き立てる不届き者が約一名存在した。
『…欲望が、顔の全てのパーツからだらしなく漏れ出ていますよ』
脳髄に直接響く、鈴の音のように美しいが、絶対零度の冷たさを含んだ声。隣に浮遊する精霊、フィリアだ。
『口が半開きです。鼻の下がだらしなく伸びきっています。瞳孔が開いています。…まるで、発情期の獣ですね』
(う、うるさい! 黙ってろ! 男なら当然の反応だろうが!)
タチバナは心の中で猛烈に反論する。せっかくの至福の時間だ。目の前には、この世の奇跡とも言える三人の美少女がいる。その肢体を鑑賞することの何が悪いというのか。これは高尚な芸術鑑賞である。
『涎を垂らす前に、口元を拭くことを強く推奨します。あまりにも見苦しい。王や彼女たちの前で、国辱ものの醜態を晒すつもりですか』
フィリアの指摘に、タチバナはハッとして口元に手をやった。危ない。本当に一筋、だらりと垂れかけていた。
彼はあくまで自然な動作を装い、顎に手を当てて深く思索にふけるポーズを取りながら、親指の腹でサッと涎を拭い去った。周囲には「考え込みながら口元に手をやった」ように見えたはずだ。
(ほっとけ! これは俺へのご褒美なんだ! お前に命を握られて勇者をやらされるんだから、これくらいの役得がないと割に合わん!)
タチバナは開き直る。これから命の危険に晒されるのだ。ならば、その対価として目の保養を得る権利がある。これは等価交換の原則だ。フィリアは、深く、冷ややかな溜め息をついた気配がした。
『…やれやれ。どうやら私の主は、死の恐怖だけでなく、極めて低俗な性欲によっても容易にコントロール可能な単細胞生物のようです』
精霊の軽蔑など、今のタチバナには心地よい春風のようなものだ。彼はひたすらに、目の前の三輪の華を愛で続けた。
だが、ここで一つの奇妙な現象が起きた。タチバナがこれほど無遠慮に、いやらしい視線で彼女たちの全身を嘗め回しているにもかかわらず、彼女たちから「不快感」や「軽蔑」の気配が全く感じられないのだ。
それどころか、タチバナの視線を受けた彼女たちの反応は、彼の予想の斜め上を行くものだった。
金髪の騎士アリシアは、タチバナの粘着質な視線が彼女の胸元から腰のラインへ移動した瞬間、カッと目を見開いた。そして何を思ったか、さらに背筋をピンと伸ばし、あの素晴らしい胸部装甲をタチバナに見せつけるように、堂々とした姿勢をとったのだ。表情は硬いが、そこには真剣な光が宿っている。
(ほう…? 俺の視線から逃げるどころか、『もっとよく見てください』とばかりにプロポーションを誇示してくるとは。最高じゃないか)
次に、赤毛の魔法使いメグ。彼女はタチバナと目が合うと、プイと逸らすどころか、ニヤリと口角を上げて不敵に笑い返してきた。まるで、タチバナの視線を正面から受け止め、楽しんでいるかのような余裕すらある。
(いい度胸だ。普通なら『何見てんのよ』と睨まれる場面だが、逆に笑いかけてくるとは。…さては、俺のこの甘いマスクに一目惚れしたか?)
そして、桜色の髪の僧侶セシリア。タチバナが彼女の豊かな胸元に熱視線を注ぎ続けると、彼女の白磁のような頬が、みるみるうちに熟した桃のように赤く染まっていった。恥ずかしそうに視線を泳がせているが、拒絶はしない。ただ潤んだ瞳で、上目遣いにタチバナを見つめ返してくるだけだ。
(…たまらん。俺の視線だけでここまで恥じらうとは、なんてウブなんだ。勇者に見つめられることに喜びを感じるタイプか?)
三者三様、全員がタチバナの視線を「受け入れている」。謁見の間の空気は重苦しいほどに張り詰めていたが、タチバナは勝手に納得した。
(なるほど、これが『勇者特権』か)
勇者ともなれば、初対面の美少女をいやらしい目で見つめても許されるのだ。タチバナは、自分が何か言葉を発して教養の無さやボロを出すよりも、このまま意味ありげに黙って見つめ続ける方が、勝手に評価が上がるのだと計算した。
労力ゼロで好感度が上がる。これこそ究極の効率化だ。
自分の欲望全開の視線が、彼女たちの脳内で「魂の器量を見定める王者の眼光」などという、とんでもない誤解に変換されていることに全く気づかぬまま、タチバナはただひたすらに沈黙の鑑賞会を続行した。
やがて、その奇妙な膠着状態を破ったのは、玉座の国王リチャードだった。彼は満足げに深く頷くと、荘厳な声で告げた。
「…うむ。互いに、魂の深い部分で通じ合ったようだな」
(は?)
タチバナは内心で首を傾げた。魂が通じ合った? 俺はただ「デカいな」「柔らかそうだな」と考えていただけだが、王様の目にはどう映っているのだ。
「紹介しよう。彼らが、勇者タチバナよ、そなたと共に忌まわしき魔王へ挑む、我が国が選び抜いた最高の英傑たちだ」
王の言葉を合図に、三人の少女たちが一歩前に進み出た。最初に動いたのは、金髪の騎士だ。ガシャリと心地よい金属音を立てて、華麗な騎士の礼をとる。
「お初にお目にかかります。王女騎士、アリシア・フォン・ローゼンバーグと申します。今日よりは、勇者タチバナ様の剣となり、盾となりましょう」
(王女!? マジかよ! 王様の娘ってことか!)
タチバナの脳内で瞬時に打算の火花が散る。王女と親密になれば、逆玉の輿だ。しかも「盾になる」と宣言した。つまり、俺がピンチの時は彼女が自ら肉壁になって俺を守ってくれるということだ。身分が高くて金もあり、その上自ら盾になってくれる。こんな優良物件はない。
続いて、赤毛の魔法使いが元気よく飛び出してきた。
「あたしはメグ・フレイムハート! 魔法アカデミーを最年少で卒業した天才魔法使いさ! どんな敵も遠くから魔法で吹っ飛ばしてあげるから、よろしくね、勇者様!」
(天才! しかも遠距離攻撃! 素晴らしい!)
魔法使いが遠くから敵を攻撃してくれるなら、俺は安全な後方に隠れていられる。最前線で剣を振るう危険を冒さずに済むのだ。
最後に、桜色の髪の僧侶がしずしずと前に出た。両手を胸の前で組み、祈るようにタチバナを見つめる。
「僧侶の、セシリア・ホワイトリリーです。皆様のお怪我は、私が必ず癒します。どうか…お側にいさせてくださいませ」
(回復役! 俺の生存率を直結で左右する生命線だ!)
痛いのが大嫌いなタチバナにとって、ヒーラーは神に等しい。しかもこの絶世の美女。ちょっとかすり傷を負ったフリをして泣きつけば、あの豊かな胸に抱かれながら治療してもらえるという合法的なスキンシップの権利を得たようなものだ。
三者三様の自己紹介。どれもがタチバナにとって「利用価値」と「観賞価値」の塊であった。彼は内心で狂喜乱舞していたが、思考が欲望に支配されすぎていたため、口から出た言葉は極めて貧弱なものだった。
「お、おう…」
「ああ…」
「よろしく…」
気の利いた返事の一つもできない。だが、この上の空で中身のない返事が、またしても奇跡的な化学反応を起こした。アリシアは「余計な言葉はいらないということか」と頷き、メグは「余裕ってやつ?」と目を輝かせ、セシリアは「言葉少なに受け入れてくださった」と頬を染めた。
なぜか「泰然自若とした英雄の態度」として処理されている。
ここで、王が口を開いた。
「うむ。良き仲間を得たな。…して、勇者よ。これから命運を共にする彼女たちに、リーダーとして何かかける言葉はあるか?」
キラーパスだった。タチバナは冷や汗をかいた。気の利いた演説など用意しているはずがない。広間の全員の注目が、一斉にタチバナに集まる。アリシアの期待に満ちた目。メグのワクワクした目。セシリアの潤んだ目。
(やべえ! 何か言わなきゃ! 何かそれっぽくて、カッコよくて、それでいて『俺は戦いたくない』という本音をオブラートに包んだ言葉を!)
沈黙が続く。タチバナの脳が高速で言い訳を検索し、ようやく一つのフレーズを絞り出した。彼は三人を見渡し、腹の底から声を絞り出した。
「…俺の背中は、お前たちに預ける」
言った。この言葉の真意は、極めて単純かつ下劣である。『俺は戦闘が始まったら絶対に後ろへ逃げるか隠れるから、前線はお前たちが何とかしろ。俺の背後(逃走経路)の安全だけは確保しろよ』という、純度百パーセントの責任転嫁と自己保身の宣言だ。
俺は前に出ない。盾にもならない。攻撃はお前らに丸投げする。タチバナは内心で(これで責任は押し付けたぞ)と安堵の息をついた。しかし。
「…ッ!!」
アリシアが、息を呑んだ。そのサファイアの瞳が、感動で激しく揺れている。
「はっ…! その御信頼、身に余る光栄…! このアリシア、命に代えましても、勇者タチバナ様の背中に傷一つつけさせませぬ!」
彼女はガシャンと音を立てて跪き、深く頭を垂れた。
「え?」とタチバナが間抜けな声を漏らす。
続いてメグが、満面の笑みを浮かべてガッツポーズをした。
「へへっ、かっこいーじゃん! 背中を預けるって、あたしたちのことそこまで信じてくれるわけ? 任せといてよリーダー! あたしの魔法で、背後の敵なんて消し炭にしてやるから!」
最後にセシリアが、胸の前で組んだ手に力を込め、うっとりとタチバナを見つめた。
「はい…! 私たちの全てで、あなた様をお守りします…! あなた様が安心して前だけを見据えられるよう、私が全力でお支えいたします…!」
王が、玉座の肘掛けをバンと叩いて立ち上がった。
「素晴らしい!! 『背中を預ける』…出会って間もない仲間に、己の命そのものである背後を委ねるとは…! タチバナよ、そなたのその器の大きさ、まさに王者の風格!」
大臣たちが、一斉に拍手喝采を送る。ワァァァァッ! と広間が沸き立った。
タチバナは、拍手の嵐の中で呆然と立ち尽くした。
(…なんで?)
ただ、「俺は働かないからお前らがやれ」と言っただけだ。それがどうして、「究極の信頼の証」みたいに受け取られているのだ。しかし、結果オーライだ。彼女たちはやる気満々だし、俺は公然と「俺は戦わない」という免罪符を手に入れた。
(…勝った)
タチバナは心の中で小さくガッツポーズをした。これからの旅、俺は彼女たちの後ろに隠れ、その美しい後ろ姿を眺めながら、安全な旅を楽しむことができる。これぞ、俺が求めていた他力本願ライフだ。
「では、行くぞ! 我が最強の仲間たちよ!」
タチバナは調子に乗って、存在しないマントを翻すような仕草を見せ、意気揚々と出口へ向かって歩き出した。この堅苦しい謁見の間から一刻も早く立ち去り、ふかふかのベッドがある自室に戻って横になりたい。その一心だった。
だが、大股で歩き出した彼の背中に、王の慌てたような声が飛んだ。
「待たれよ、タチバナ! 装備を忘れるでないぞ!」
「…あ?」
タチバナはピタリと足を止め、振り返った。王が玉座の脇を指し示す。そこには、純白の騎士鎧や、宝石の埋め込まれた杖、魔力を帯びた豪奢な法衣など、国庫から出されたであろう最高級の装備品の数々がうやうやしく並べられていた。
「(…ああ、そういえば何かそんなことを言っていたな。だが、冗談じゃない。あんな金属の塊を全身に纏って歩くなんて、重くて肩が凝るだけだ。俺の基本戦術は『逃走』だぞ。いざという時に走り出せないような重装備など、ただの鉄の拘束具だ)」
タチバナは「いや、俺は身軽な布の服で十分だ」と断ろうと口を開きかけた。だが、次の瞬間、彼の優れた打算のアンテナがピピッと反応した。
(…待てよ? あれ、国庫の最高級品だよな。ミスリル鋼とか、純金とか、そういうのがふんだんに使われているんじゃないか? つまり…めちゃくちゃ高く売れるってことじゃないか!?)
タチバナの目の色が、カッと金貨の色に変わった。何という失態だ。重いから嫌だという怠惰な理由で、一生遊んで暮らせるかもしれない莫大な資産を受け取り拒否するところだった!
彼は即座に表情を引き締め、咳払いを一つすると、さも感動したような顔を作って王に向き直った。
「…王よ。俺は、己の身を守る防具の存在すら忘れるほど、一刻も早く民を救うために旅立ちたいと焦っていたようです。ですが、王のその深い御心、決して無駄にはいたしません。ありがたく、全て頂戴いたします!」
胸に手を当てて深く一礼するタチバナ。
『身を守ることも忘れて民を想う自己犠牲』という、あまりにも美しい(そして完全にでっち上げられた)言い訳に、王や大臣たちはまたしても「おおお…!」と涙を流して感激している。ヒロインたちも「なんてお優しい…」と感極まった目で見つめてきた。
(よし! これで最初の街に着いたら、あの中のいくつかを質屋にぶち込んで当面の活動資金…もとい、俺の贅沢資金にしてやる!)
タチバナが内心でゲスな錬金術を成立させてニヤついていると、隣の空間から氷のような思念が脳髄を刺した。
『…重いから嫌だと断ろうとした0.5秒後に、換金目的で手のひらを返しましたね。貴方のその底なしの浅ましさ、一周回って見事な喜劇です』
(うるさい! これは勇者に与えられた正当な資産運用だ! 黙って見てろ!)
タチバナは精霊の冷たいツッコミを強引に脳内からシャットアウトすると、これから手に入る莫大な「売却益」に胸を躍らせながら、今度こそ意気揚々と謁見の間を後にした。
これから始まるのが、自らの嘘と欲望が引き起こす、命がけの勘違いと修羅場の連続であることなど、この時の彼には知る由もなかった。
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