俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
謁見の間での儀式を終え、あてがわれた自室に戻ったアリシア・フォン・ローゼンバーグは、静かに、しかし深く長い息を吐き出した。それは疲労によるものではない。己の魂の奥底から湧き上がるような熱情を、騎士としての冷徹な理性で鎮めるための、一種の儀式であった。
彼女は部屋の中央に立ち、腰に帯びていた愛剣をゆっくりと抜き放つ。窓から差し込む陽光が、曇り一つなく磨き上げられた刀身を白銀に染め上げた。その眩い輝きを見つめながら、アリシアの脳裏には、先ほどまで対峙していた一人の青年──勇者タチバナの姿が鮮烈に焼き付いて離れなかった。
王族として生を受け、王国最強の騎士として鍛錬を重ねてきた彼女には、人を見る目があるという絶対の自負がある。口先だけで勇気を語る者、権力に媚びる者、己の武力のみを過信する者。それらの有象無象とは全く異なる、圧倒的な「覇者の器」を、彼女はタチバナの内に見たのだ。
アリシアは清潔な布を取り出し、刀身を丹念に拭き始めた。静寂な部屋の中で、布が鋼を擦るかすかな音だけが響く。そのリズムに合わせ、彼女の思考は極めて論理的に、先ほどの光景を解析していく。
まず、あの「眼光」だ。タチバナが彼女たちの前に姿を現した時、彼は一切の言葉を発さず、ただ無言で彼女たちを見つめた。その視線の、なんと鋭く、かつ執拗であったことか。
アリシアの記憶の中で、タチバナの瞳は、彼女の顔から始まり、首筋、そして白銀の鎧に覆われた胸部、腰の括れ、太ももに至るまでを、穿つように凝視していた。
常人であれば、それを無遠慮な視線だと不快に思うかもしれない。だが、アリシアの構築する戦術理論は、そのような表面的な感情論を即座に排撃する。魔王討伐という人類史上最も過酷な死地へ赴こうとする者が、色欲などに囚われるはずがない。ならば、あの視線の意味は一つしかない。
(極めて高度な、戦力分析…)
アリシアは感嘆の吐息を漏らす。彼は見ていたのだ。アリシアが身につけている王家伝来の装甲。その金属の厚み、継ぎ目の構造、そして可動域。さらに、その冷たい鋼の内側に秘められた筋肉の収縮、重心の置き方、立ち姿から滲み出る体幹の強靭さ。
それら全ての要素を、あの一瞬の凝視によって丸裸にし、彼女が「前衛としてどれほどの耐久力と破壊力を有しているか」を、冷徹に演算していたのである。
特に、彼が最も長い時間をかけて注視していた胸部装甲。
(あれは、心臓という最大の急所を守る傾斜角度と、激しい剣戟の最中における呼吸の許容量を正確に測っていたのだ。鎧の上からでも、私の剣技の癖や持久力の限界までも看破された気分だ…恐るべき御方だ)
アリシアは、恐怖にも似た畏敬の念に打たれていた。言葉などという不確かなものに頼らない。視線を交錯させるだけで、相手の力量を限界まで測り切る。これぞ達人の領域。
そして、何よりもアリシアの騎士としての誇りを激しく震わせたのは、彼が最後に放ったあの一言だった。
『…俺の背中は、お前たちに預ける』
アリシアは剣を置き、胸に手を当ててその言葉の重みを噛み締めた。戦術の基本において、背後とは「死」の象徴である。最も無防備であり、最も致命的な死角。
指揮官たる者、通常は安全な後方に陣取るか、あるいは四方を強固な近衛兵で固めるのが絶対の定石だ。初対面の他人に背中を晒すなど、常軌を逸した愚行である。
だが、タチバナはそれを選んだ。「背後を守れ」と命令するのではない。「預ける」と断言したのだ。
それはすなわち、「お前たちの武を完全に認めた。ゆえに、我が命の半分を委ねる」という、究極の信頼の証。共に血を流し、一蓮托生で死線を越える戦友として認められたという、何よりの栄誉であった。
さらに、退出間際の光景がアリシアの心を熱くする。王から装備を受け取るよう促されるまで、彼は防具も持たずに丸腰で出撃しようとしたのだ。
『民の悲鳴が聞こえる。鎧を着る時間すら惜しい』
あの言葉に、嘘偽りなどあるはずがない。彼はあまりにも優しすぎるのだ。己の身の安全よりも、今まさに苦しんでいる誰かの痛みを優先してしまう。その自己犠牲の精神は、危ういほどに純粋であった。
「だからこそ…私が守らねばならない」
アリシアは、強く拳を握りしめた。彼があのように己の命を顧みない高潔な魂の持ち主であるならば、自分がその物理的な鎧となり、彼に届く全ての刃を弾き返さねばならない。
「我が剣は、今日より勇者タチバナ様のために」
アリシアは誰に聞かせるでもなく、天への誓いのように呟いた。彼女は、タチバナの視線がただの「女性の肉体鑑賞」であり、言葉が「前線に出たくないという責任転嫁」であり、装備の件が「換金目的」であったことなど知る由もない。
王女騎士の極めて論理的で美しい誤解は、何重もの強固な鎧となって彼女の心を縛り、永遠に解けることのない忠誠心へと昇華していくのだった。
■
「ふぅ──っ!」
重厚な客室の扉が閉まったのと同時だった。
赤毛の天才魔法使い、メグ・フレイムハートは、部屋の中央にある天蓋付きの特大ベッドに向かって、助走をつけて飛び込んだ。バフンッという小気味よい音と共に、高級な羽毛布団が彼女の小柄な体を受け止める。
「ん〜〜! 柔らか〜い!」
彼女は仰向けのまま手足をバタつかせ、ローブの裾が乱れて健康的な太ももが露わになるのも気にせず、天井を見上げて満面の笑みを浮かべた。王立魔法院始まって以来の神童。若くして炎の理を極めた天才にとって、王城での堅苦しい儀礼は退屈以外の何物でもなかった。
だが、今日。彼女はついに、自分の知的好奇心と魔法の探求心を満たしてくれる「本物」と遭遇したのだ。
「勇者タチバナ…かぁ。あいつ、絶対にただ者じゃないね」
メグはベッドの上であぐらをかき、腕を組んで深く頷いた。脳裏に蘇るのは、謁見の間で彼と対峙した時のことだ。
最初は魔力の覇気も感じられない、ひ弱な青年に見えた。だが、彼がメグの太ももや胸元をじっと見つめていたあの時間、メグは彼の瞳の奥に恐ろしいほどの知性の光を見たのだ。
(普通の男なら、あたしのこの短いスカートや開いた胸元を見て、いやらしい顔をするだけ。だけど、勇者は違った)
メグは自らの太ももをパンと叩く。彼女がなぜ、このような露出の多いローブを着ているのか。それは男の目を引くためではない。極めて合理的な『魔力排熱理論』に基づいた結果である。
高火力の爆炎魔法を行使する際、術者の体内には膨大な魔力が駆け巡り、それに伴って致死的な高熱が発生する。分厚いローブで全身を覆っていては、体内に熱が滞留し、魔力回路が焼き切れてしまう。
だから彼女は、太い血管と魔脈が集中する太ももや胸元をあえて露出させ、外気へと効率的に熱を放出する術式を自らの肉体に刻んでいるのだ。
タチバナのあの瞬き一つしない凝視。あれは、メグの肌の下を流れる微細な魔力の脈動を読み取り、この服装の理由が「冷却効率の最大化」にあることを完全に見抜いていたからに違いない。
(すごい解析力…。あたしの魔法使いとしての設計思想を、あの一瞬で完全に理解したんだ。だから『君の服装は理に適っているね』なんて野暮な口出しはしなかった。無言の観察こそが、魔法の真理を知る者同士の共鳴なんだ)
メグの中で、タチバナへの評価は天井知らずに跳ね上がっていた。そして、彼女の心を最も躍らせたのは、彼が放ったあの言葉だ。
『…俺の背中は、お前たちに預ける』
「これよこれ! この言葉、魔法使いに対する最高の賛辞だって分かってて言ったのかな?」
通常、魔法使いは体力が低いため「後衛」に配置され、前衛の騎士に守られながら魔法を放つのが戦術の基本である。
だが、タチバナは逆を提案したのだ。「俺の後ろはお前が守れ」と。
それはつまり、「お前の圧倒的な火力があれば、俺の背後に回った敵など一瞬で灰燼に帰すことができるだろう」という、彼女の攻撃力に対する絶対的な信頼の証である。
「普通は『僕が守るから後ろにいて』とか言うのに。それって、あたしの魔法を信じきれてないってことだもん。でも、彼は違う。『後ろの敵は全部お前が焼き尽くせ』っていう、超攻撃的な陣形の提案だったんだ!」
メグの琥珀色の瞳がワクワクと輝く。彼なら、メグの魔法を恐れることなく存分に使わせてくれる。危険だからと威力を制限されることもない。
さらに、装備の受け取りに関するあの一連の駆け引き。一度は丸腰で行こうとして王を焦らせ、最終的に「民のため」という大義名分のもと、国庫から最も価値のある装備を引き出す。
「最初は軽く断って、一番いい条件を引き出す…うわぁ、食えない男。純粋なだけじゃなくて、政治的な交渉術も完璧なんて」
計算高くて、けれど根底には熱い信念がある。メグの天才的な頭脳は、タチバナの下心と強欲さを、「魔力理論の理解」と「高度な戦術的・政治的駆け引き」という極めて高度な論理に変換し、美しい誤解の塔を完成させていた。
「背中? 任せといてよ。あいつに指一本触れさせないくらいの炎の壁を作ってあげるから!」
メグはベッドの上でガッツポーズを決め、これからの冒険に胸を弾ませた。己の才能が、一人のクズ男の逃走経路を確保するためだけに消費される未来など、彼女の辞書には存在しなかった。
■
王城の西側に位置する静かな客室。窓から差し込む斜陽が、部屋の中央で静かに祈りを捧げる僧侶、セシリア・ホワイトリリーの純白の法衣を柔らかな黄金色に染めていた。
彼女は胸の前で両手を組み、目を閉じている。彼女が祈りを捧げているのは神に対してではなかった。今日出会ったばかりの、黒髪の青年──勇者タチバナの、傷ついた魂に対してである。
「…勇者、タチバナ様」
セシリアはそっと目を開け、自らの豊かな胸に手を当てた。心臓の鼓動が、静かに、しかし力強く打っているのを感じる。彼女の脳裏から離れないのは、謁見の間での彼の姿だった。
(あのような…悲痛で、救いを求めるような眼差しを、私は初めて拝見しました)
タチバナは、言葉を発することなく、ただじっと彼女たちを見つめていた。その視線は、アリシアやメグに向けられた後、最終的にセシリアの胸元──心臓の位置に強く固定されていた。
世の多くの男たちが、彼女の身体的な豊満さに目を奪われることは知っている。だが、神に仕え、人の魂の揺らぎを感知する術を学んできたセシリアには、タチバナの視線が肉欲によるものではないことが明確に理解できた。
(あの方は、私の肉体を見ておられたのではありません。命の源である『心臓』、すなわち『心の在り処』を探しておられたのです)
世界の命運という、あまりにも巨大な重荷を突如として背負わされた青年。王の前で立派に振る舞ってはいたが、その内側はどれほどの恐怖と孤独に苛まれているだろうか。誰も彼をただの人間としては見てくれない。
(あの方が私を見つめていた時の、あの縋るような瞳。まるで、『僕のこの苦しみを、少しでも癒やしてくれるのか?』と、無言のうちに問いかけているようでした)
セシリアの胸の奥で、強烈な母性と使命感が燃え上がった。彼が言葉を発しなかったのは、言葉にすれば張り詰めた心の糸が切れてしまうからだ。そして、彼が最後に残した言葉。
『…俺の背中は、お前たちに預ける』
その言葉の意味を、セシリアは僧侶としての精神治癒の観点から深く解釈した。背中。それは、自分自身では決して触れることも、守ることもできない場所である。
(背中を預けるということは、『自分一人ではもう立っていられない。どうか支えてほしい』という、あの方なりの精一杯の弱音の吐露だったのですね…)
さらに、彼が自身の身を守る防具すら拒否しようとした姿。『鎧を着る時間すら惜しい』。その言葉は、他者のために自分をどこまでも犠牲にしようとする、自傷的とも言えるほどの危うい献身の表れであった。
「…なんて、危うい御方なのでしょう。私が、私が止めなければ」
セシリアは、強く拳を握りしめた。彼の肉体の傷を癒すのは当然の務めだ。だが、それ以上に重要なのは、擦り切れそうな彼の精神を癒すこと。戦いの恐怖、他者の命を奪う罪悪感、誰にも理解されない孤独。
それら全てを、自分が受け止め、優しく包み込んであげなければならない。
「私が、貴方様の帰る場所になります。傷ついた時は、どうか真っ直ぐに私のところへいらしてください」
セシリアは、窓の外の空に向かって優しく語りかけた。もし彼が戦いの恐怖に震え、泣き言を漏らしたなら、神が与え給うたこの胸に抱きしめ、母親のように髪を撫でて、徹底的に甘やかしてあげよう。彼にはそれだけの安らぎを得る権利があるのだから。
(タチバナ様…。私の手が届く範囲に、ずっといてくださいね)
彼女の慈愛に満ちた瞳は、どこまでも純粋であった。
彼女が「傷ついた高潔な魂」だと信じて疑わないその男が、今頃自室で「いかにしてセシリアの胸に顔をうずめるか」という物理的な接触の算段のみに全知能を費やしていることなど、知る由もない。
底なしの無償の愛は、タチバナという究極の怠惰を甘やかすための、最も危険な揺り籠へと変貌しようとしていた。
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