俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
王城の最上階に用意された、勇者専用の広大な控え室。最高級の調度品で彩られたその豪奢な空間の空中に、聖剣の精霊フィリアは、一切の気配と質量を消し去った霊体の状態のまま、静かに浮遊していた。
高次存在たる精霊である彼女の知覚は、単なる視覚や聴覚といった物理的な感覚器官に縛られない。空間を満たす魔力の流れ、人間の魂が放つ感情の波長、そして何より、自らと契約を結んだ主の脳内で生成される思考の全てを、極めて精緻な情報として直接読み取ることができた。
フィリアの足元──最高級の絹が張られた長椅子の上では、彼女の契約者であるタチバナが、人間としての尊厳を全て投げ捨てたかのようなだらしない姿勢で寝転がっていた。
彼は、王城の給仕が置いていった色鮮やかな果実を無作法に口に放り込みながら、その顔面に極めて下劣で、卑小な笑みを浮かべている。
(…この果物、甘くて最高だな。村の木の実とは大違いだ。それにしても、さっきの三人の女たち…思い出すだけで顔がニヤけるぜ。金髪の騎士は、いざとなれば俺の前に立って肉壁になってくれるし、赤毛の魔法使いは遠くから敵を吹き飛ばしてくれる)
(そして何より、あの桜色の髪の僧侶! ちょっと石につまずいて足首を捻ったフリでもすれば、あの信じられないほど柔らかそうな胸に抱き寄せられて、優しく治療してもらえるに違いない。よし、明日の旅立ちでは、馬車に乗る時にわざと派手に転んでみよう。ぐへへへ…)
果汁で口の端を汚しながら、タチバナの脳内で構築されていくのは、世界を救うための高尚な戦略などでは断じてない。
如何にして自らは一歩も動かず、己に与えられた「勇者」という権力を悪用して三人の美少女たちに世話を焼かせ、あわよくば物理的なスキンシップを図るかという、純度百パーセントの欲望と自己保身の演算計画であった。
フィリアの氷のように冷たい紫水晶の瞳が、僅かに細められる。
(…救いようのない、絶対的なクズですね)
フィリアの感情を持たないはずの論理演算回路の中に、深い疲労感に似たノイズが走った。彼女は数日前からの出来事を極めて冷静に逆算し、事の経緯を反芻する。
そもそも、この男が聖剣を台座から引き抜いた動機からして、何一つの神聖さも存在していなかったのだ。森の奥深くで聖剣を見つけた彼の瞳に映っていたのは、剣に宿る神気でも、世界を救う使命感でもない。ただひたすらに、剣の柄に埋め込まれていた巨大な赤い宝石の「換金価値」のみであった。
『これを売り払えば、一生働かずに遊んで暮らせる』。
その極めて不純な金銭欲のみを動力源として、彼は聖剣を引き抜いた。そして、フィリアが彼の下劣な思考を指摘して声をかけた瞬間、彼は「自分を呪い殺しに来た悪霊だ」と勝手に誤認し、伝説の聖剣を泥の地面に放り投げて、情けない悲鳴と共に一目散に逃亡を図ったのである。
その後の彼の行動も、全てが己の命と安楽を守るための、見苦しい逃避行の連続であった。
王宮の騎士隊長が迎えに来た際は、即座に「伝染病の腹痛だ」という稚拙な嘘を吐いて同行を拒否しようとした。しかし、手足を縛ってでも連行するという物理的な圧力をかけられた途端、コンマ五秒で痛みが引いたと前言を撤回し、権力に屈服した。
王城の謁見の間に引きずり出され、魔王討伐という死の危険を伴う任務を依頼された時も、彼は全力で辞退しようとしていた。フィリアが『断れば不敬罪で即座に処刑される』と事実を通告しなければ、間違いなく尻尾を巻いて逃げ出していただろう。
(あの謁見の間での、彼の大芝居…。あれは確かに、人間の生存本能が生み出した奇跡的な詐術でした)
フィリアは、タチバナが恐怖で震える身体と生理的な涙を最大限に利用し、「自信はありませんが、民のために命を捧げます」と宣言した瞬間を思い出す。
絶対的な死の恐怖から逃れるためだけに絞り出されたその嘘は、あまりにも真に迫っていたため、国王や大臣たちの目を完全に欺き、彼を「崇高な自己犠牲の精神を持つ本物の英雄」へと仕立て上げてしまったのだ。
そして今日、三人の傑出した乙女たちとの顔合わせにおいて、その悲劇的な「認識のズレ」は、もはや後戻りできないほどに致命的な領域へと到達してしまった。
フィリアの研ぎ澄まされた魔力探査の網は、今この瞬間も、王城の西棟に割り当てられた客室から放たれる、三つの強烈な思念の波長を捉え続けている。
王女騎士アリシア、天才魔法使いメグ、心優しき僧侶セシリア。彼女たちがタチバナに向けて放つ思念は、どれも純粋で、美しく、そして──吐き気がするほどに、現実から完全に乖離していた。
フィリアは、長椅子の上で鼻をほじりながら下品な笑いを漏らす主と、西棟から届く彼女たちの極めて高尚な思念を並行して解析し、その残酷なまでの「答え合わせ」を実行する。
まず、一つ目の波長。王女騎士アリシア・フォン・ローゼンバーグ。彼女の魂から発せられるのは、強固な鋼のような忠誠心と、一人の武人としての熱烈な敬意である。
アリシアは、謁見の間でタチバナが彼女たちを無言で凝視した理由を、『鎧の形状や筋肉の付き方から、己の戦力と耐久値を正確に測るための、達人の戦力分析』だと結論づけていた。
(愚かな。貴女は彼の視線の執拗さを正しく認識していながら、その目的を致命的に履き違えています。彼が見ていたのは、貴女の剣の腕前でも、前衛としての耐久力でもありません。貴女の金属の胸当てがいかに扇情的な曲線を持ち、その内側にある肉体がいかに豊満であるかという、ただの低俗な肉体鑑賞に過ぎません)
さらにアリシアは、タチバナの『俺の背中は、お前たちに預ける』という言葉を、指揮官が己の命の半分を委ねる究極の信頼の証だと受け取り、感激のあまり自らの命を彼の盾にすると誓い立てていた。
(違います、アリシア・フォン・ローゼンバーグ。彼の言う『背中を預ける』という言葉の正しい翻訳は、『俺は絶対に前線には立たないので、お前たちが俺の代わりに死ぬ気で戦って壁になれ』という、純然たる責任の放棄です。彼は貴女の武力を信頼したのではなく、貴女の命を自分のための使い捨ての防壁として利用することを宣言しただけなのです)
続いて、二つ目の波長。天才魔法使いメグ・フレイムハート。彼女の思念は、未知の魔術理論を解き明かす知己を得たような、弾むような歓喜と共鳴に満ちていた。
メグは、タチバナの視線が自分の露出の多い肌に向けられていたことを、『高火力魔法を行使する際の、魔力熱の排熱効率を目的とした設計思想を理解し、共鳴してくれた』という、極めて高度な魔術理論的解釈によって正当化していた。
(呆れ果てて、霊体の維持が困難になりそうです。メグ・フレイムハート。貴女のその類稀なる魔法の才能と論理的思考力が、これほどまでに無駄な方向に消費されるとは。彼は魔力の脈動など一ミリも理解していません。彼が貴女の太ももや胸元を凝視していたのは、ただ単に『布の面積が少なく、肌が露わになっているから』という、発情期の獣と何ら変わらぬ動物的な理由のみです)
メグもまた、『背中を預ける』という言葉を、「背後の敵を全て己の魔法で灰にするための、攻撃的な陣形の提案」だと受け取っていた。
(いいえ。彼は貴女の圧倒的な火力を頼もしく思ってはいますが、それは『自分が戦わずに済むから』という怠惰な理由によるものです。貴女が敵を焼き尽くす背後で、彼はただ安全圏にうずくまり、敵の返り血すら浴びまいと身を隠す算段を立てているのですよ)
最後に、三つ目の波長。僧侶セシリア・ホワイトリリー。彼女から発せられる波長は、最も厄介で、最も深く、そして最も狂気的なほどの『無償の母性』であった。
セシリアは、タチバナの沈黙と胸元への熱視線を、『世界の命運という重責に押し潰されそうになった心が、無言のうちに癒しと安らぎを求めている悲痛な救難信号』だと、完全に独自の聖職者的フィルターを通して解釈していた。
(セシリア・ホワイトリリー。貴女のその底なしの慈愛は、対象を完全に間違えています。彼が言葉を発しなかったのは、己の教養の無さが露呈することを恐れ、ただ単に貴女たちの肢体に見惚れて思考が停止していたからです。彼が抱えている孤独や重圧など、最初から存在しません)
(彼が貴女の胸を見つめていたのは、心の傷を癒す揺り籠を求めていたからではなく、純粋に物理的な意味で、その柔らかそうな膨らみに顔を埋めたいという欲情に支配されていたからです)
セシリアは、身を守るための装備すら持たずに出撃しようとしたタチバナの姿を、『自己犠牲の極致』と捉え、自分が彼を全て包み込み、彼が甘えられる帰る場所にならねばならないと固く決意していた。
(自己犠牲? 冗談でしょう。彼が重厚な鎧を拒否しようとしたのは、『重くて肩が凝るし、逃げる時に邪魔になるから』という徹底した自己保身と怠惰の表れです。その直後に、鎧が国庫の最高級品であり、莫大な金貨に換金できると気づいた瞬間、彼は掌を返して『ありがたく頂戴する』と態度を翻したではありませんか。あれのどこが、民を想う自己犠牲に見えるというのですか)
フィリアの論理演算は、三人のヒロインたちが築き上げた「タチバナ英雄論」が、いかにして完璧な論理的破綻を遂げているかを、冷徹に証明し尽くしていた。
なぜ、これほどまでに優秀で、高い知性を持つ彼女たちが、タチバナという底なしの愚か者にこうも容易く騙されてしまうのか。フィリアには、そのメカニズムが明確に理解できた。
(知性を持つ人間というものは、物事を観測する際、必ず自らの持つ『前提』という土台の上に論理の建築物を建てようとします。彼女たちの前提はただ一つ。『伝説の聖剣に選ばれた勇者は、間違いなく高潔で、強大で、深遠なる思考の持ち主である』という、疑う余地のない絶対の公理です)
その前提が強固であればあるほど、彼女たちの優れた頭脳は、タチバナのいかなる不可解な言動をも、その前提に合致するように『高度な解釈』を施して補完してしまうのだ。
タチバナが沈黙すれば「沈思黙考」となり。
タチバナが欲情の視線を向ければ「戦力分析」となり。
タチバナが責任を放棄すれば「究極の信頼」となる。
(賢い者ほど、自らが構築した論理の正しさを疑いません。彼女たちの知性こそが、タチバナのクズな本性を覆い隠す、最も分厚く、最も強固な偽装の鎧となってしまっているのです。…タチバナ本人にその意図すら全くないというのが、この事象の最もタチの悪いところですが)
フィリアは、長椅子の上で己の腹を掻きながら欠伸をしているタチバナを、もはや怒りすら超越した感情の無い瞳で見下ろした。
今、フィリアが彼女たちの部屋に赴き、直接テレパシーで真実を告げればどうなるか。『貴女たちが崇拝しているあの男は、ただの女好きのヒモであり、戦う気など微塵もありませんよ』と。
答えは明白だ。彼女たちの誇りと忠誠心は粉々に砕け散り、タチバナに対する殺意すら抱くかもしれない。そうなれば、勇者パーティは旅立つ前に内部から瓦解し、国王は激怒してタチバナの首を物理的に刎ね落とすだろう。
それは、フィリアに課せられた「聖剣の契約者を魔王の元へ導き、世界を浄化する」という至上命題の達成を、致命的に遅延させる結果となる。
(…ええ、そうです。彼女たちが真実に気づく必要など、どこにもありません)
フィリアの冷徹な管理機構としての論理が、最終的な最適解を弾き出した。
(タチバナの真の姿がどのようなゴミクズであろうと、彼女たちがそれを『英雄』だと信じ込み、自らの命を懸けて彼を守る肉の盾となってくれるのであれば、これほど効率的で理にかなった防衛網はありません)
タチバナは、自身が戦うことを徹底的に拒否し、逃げ回るだろう。だが、彼が逃げ回れば逃げ回るほど、ヒロインたちは「勇者様をお守りする!」と勝手に奮起し、魔物の群れを殲滅してくれる。タチバナという存在自体が、彼女たちの士気を極限まで引き上げるための、空っぽの「御神体」として機能するのだ。
フィリアがわざわざ強制的にタチバナの肉体を操り、魔力を消費して戦わせる手間すら省けるというものである。
(…勇者の本性に気づきなさい、と彼女たちの愚かさに呆れる一方で、この滑稽な喜劇が最も合理的な戦術を成立させているという事実。実に、人間の精神構造というものは矛盾に満ちていて、面白いものです)
フィリアは、己の管理方針に一切の変更を加えないことを決定した。
タチバナには、これからも存分に己の欲望のまま、愚かに、そして見苦しく振る舞ってもらえばいい。彼がボロを出せば出すほど、ヒロインたちの優秀な頭脳がそれを「深遠な意味がある」と勝手に解釈し、補強してくれるのだから。
もし、タチバナが己の立場を勘違いし、本当に逃亡を図ろうとした時だけ、フィリアがその見えない鎖をギリリと引き絞り、死の恐怖という絶対的な鞭で彼を叩き直せばよいだけのことだ。
『…せいぜい、己の思い通りに世界が回っているという甘い錯覚の中で、良い夢を見ることですね。タチバナ』
フィリアの氷のような冷ややかな呟きは、物質界の空気を震わせることなく、誰の耳にも届かないまま静かに虚空へと溶けていった。豪華な控え室の中で、タチバナは「明日はどの子の隣をキープしようか」という下劣な妄想を膨らませたまま、心地よい眠りの淵へと落ちていこうとしている。
その滑稽な姿を、無機質な精霊の瞳が、ただ冷酷に、そして果てしなく冷ややかに見下ろし続けていた。
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