今、トレセン学園では、とあるウマ娘の話題で持ちきりになっていた。廊下でも、食堂でも、トレーニング場でも、耳に入ってくるのは、同じ名前ばかりだ。
『トウカイテイオー』
皇帝シンボリルドルフのお気に入りでもある彼女は、自らを『無敵のテイオー』と名乗り、その言葉通りの走りを見せてきた。軽やかで、しなやかで、それでいて圧倒的なまでに速い。その走りを見た者は、誰もが息を呑む。
だが、彼女には専属のトレーナーが存在しない。
スカウトしたトレーナーを転々とし、その都度、異なる理論や技術を取り入れながら、ジリジリと力をつけてきた。断片的な指導の積み重ね。それらが噛み合った結果、彼女の才能とトレーナーたちの知見が奇妙に融合し、皐月賞、日本ダービーの制覇へと繋がったとされている。
表向きの話は、だが。
実際には、トレーナーたちは彼女にほとんど成長を与えていなかった。ステータスが伸びたとしても、せいぜい1から5程度。むしろ、時にはマイナスに転じることすらあった。
それでもなお、皐月賞と日本ダービーを制覇した。その事実は、ただ一つの結論を示している。
トウカイテイオーは、天才だった。
俺自身も、彼女を担当してみたいと思ったことはある。あの異質な才能を、自分の手で導けたなら———そんな考えが頭をよぎらなかったわけじゃない。
だが、俺には自身の担当であるメジロアルダンがいる。彼女を最優先する。それはトレーナーとしての責務であり、揺るがすことのできない一線だった。
それに、俺が関わらずとも、いずれはシンボリルドルフのトレーナーが何とかするだろう。そんな楽観もどこかにあった。
ただ一つ、どうしても引っかかる点があった。
トウカイテイオーのステータス欄、その横に表示されている“コンディション”の存在だ。
『テイオーステップ : 生まれながらの柔軟な脚により、数々のウマ娘を薙ぎ払え!!
※トレーニング効果+5%アップ。トレーニング失敗率とケガ発生率5%アップ』
———なんて、歪なコンディションだ。
得られるリターンに対して、背負うリスクがあまりにも大きい。常に5%という見過ごせない確率で、失敗と負傷の可能性が付きまとう。それは“偶然”ではなく、“常在する脅威”だ。
その重さを理解しきれていないトレーナーたちが、彼女の華やかな実績だけを見て群がっている。その光景が、どうしても気に入らなかった。
そして、それ以上に。
そのリスクを正面から引き受ける覚悟を持てない、自分自身に苛立っていた。
だが、メジロアルダンを見捨てることはできない。
生まれながらに背負ったものの重さで言えば、むしろ彼女の方が深刻だ。脆さと隣り合わせのあの脚で、走り続けようとしている。
だからこそ、俺は選んだ。
トウカイテイオーのことは、シンボリルドルフのトレーナーに託すという選択を。彼女が抱える“宿命”を、すべて伝えた上で。
それでも、彼女に何かできることはないかと考えた末、俺は週に一度、トウカイテイオーの脚のマッサージを行うことにした。
トレーニングでも指導でもない。あまりにも些細で、遠回りな関わり方だ。それでも、何もせずに見ているだけでいるよりは、ずっとマシだと思いたかった。
本人は当然のように「そんなの必要ない」と言い切った。自分は無敵だと信じている彼女にとって、ケアなど弱さの証明に等しいのだろう。
だが、シンボリルドルフとそのトレーナーの説得もあって、最終的に彼女は渋々ながらも受け入れた。納得ではなく、妥協。そんな表情だった。
それでも、十分だった。
幼馴染のお墨付きでもあるこのマッサージは、確かな効果を示した。テイオーが抱えていたデバフは、5%から3%まで減少したのだ。
たった2%。されど、2%。
だが。
それでも、3%。
“0”ではないという事実が、重くのしかかる。
俺は、そのことをシンボリルドルフのトレーナーに伝えた。このままでは危うい、と。取り返しがつかなくなる前に、どこかで立ち止まるべきだと。
彼は俺の言葉を否定しなかった。むしろ、理解はしていたのだと思う。それでも彼が選んだのは、トウカイテイオーの“無敗の三冠”という夢だった。
理屈ではなく、願い。
あるいは、彼女に背負わせてしまった期待の重さゆえの、引き返せなさだったのかもしれない。
そして、結果は———。
俺が危惧していた通りとなった。
それからのトウカイテイオーは、目に見えて変わっていった。焦燥が、隠しきれなくなっていった。
無理やり笑ってはいる。声も明るく振る舞っている。だが、その笑顔はどこか歪で、かつてのような無邪気さはなかった。
周囲に心配をかけまいと必死なのは分かる。分かるからこそ、その姿が痛々しくて直視できなかった。
少しずつ、しかし確実に。
人々は彼女から目を逸らすようになっていった。
期待をかけていた分だけ、落差に耐えきれなかったのだろう。あるいは、壊れていくものを見続ける勇気がなかったのか。
気づけば、トウカイテイオーの周囲から人は離れ、彼女は、孤独の中に立たされていた。
幸いなことに、彼女は毎週、俺の元へと通い続けていた。約束でも義務でもない。ただ、それだけは途切れることがなかった。
周囲の人間は、もう終わったと確信していた。
トウカイテイオーは“死んだ”のだと、比喩ではなくそういう扱いだった。
だが、当の本人は違った。
諦めていなかった。
いや、諦めることなどできなかったのだろう。
だからこそ、彼女は来る。
何も保証のないこの場所に、それでも足を運び続ける。
その理由を、俺は深く聞かなかった。
聞いてしまえば、きっと背負いきれなくなる。
ただ一つ分かっているのは———。
その想いを、踏みにじることだけはできない、ということだ。
だから俺は、彼女の脚に触れ続ける。
自分が何もできなかったことへの、罪滅ぼしのように。
祈ることしかできない無力さを、押し殺すように。
そして、翌年の日本ダービーでついに、俺の担当であるメジロアルダンが勝利を収めた。
『ガラスの脚』を持つウマ娘。
誰もが、その脚で走り続けることなど不可能だと思っていた。
走れば壊れる。積み重ねれば、いずれ砕ける。そんな未来しか想像されていなかった。
だが、彼女は勝った。
ただの勝利ではない。己の宿命を踏み越え、“割れないガラス”という矛盾を、その身に成立させた上での勝利だった。
メジロアルダンを知る者たちは、誰もが涙を流していた。不安と恐怖を知っているからこそ、その結末がどれほど奇跡に近いものか理解できる。そして同時に、これから先に続く未来へと確かな夢を見ていた。
彼女は観客席に向かって両手を振り、何度も、何度も丁寧に頭を下げる。歓声に包まれながら、それでも驕ることなく、静かに感謝を示していた。
その姿を、俺は観客席から見守っていた。
喧騒の中にいながら、どこか遠くの出来事のように感じながら。
その、すぐ隣で。
一緒にレースを見ていたトウカイテイオーが、ぽつりと呟いた。
「ねぇ……どうやったの……?」
歓声に紛れそうなほど、小さな声だった。
「あん? 何が?」
「アルダンの脚……みんな、無理だって言ってたのに……」
視線は前を向いたまま。
だが、その声だけが、縋るように揺れていた。
「そりゃあ、俺の“力”のおかげだな」
わざと軽く言った。
深く説明するつもりも、できるとも思っていなかったからだ。
「ボクには……?」
間を置かずに、返ってくる。
逃げ場を与えない問いだった。
「当然、同じことはやったさ。でも、お前たちは夢を追った。ただそれだけだよ」
事実と言い訳の中間のような言葉だった。
「ボクの脚が壊れる確率は、何%だったの……?」
静かな声。
だが、その奥にあるものは、静寂とは程遠い。
「大体3%」
数字にすれば、軽い。
だが、0ではない。
「……アルダンの脚が、壊れる確率は……?」
「元々は81%。でも、今は0%だ」
言い切った瞬間、空気が変わるのが分かった。
「———なんで……なんでボクの脚は……っ!!」
押し殺していたものが、決壊する。
「———確率ってのは、そういうもんなんだよ。1%でも2%でも、失敗する時はする。誰だって、そういうリスクを抱えて生きてる」
それは説明であって、救いにはならない言葉だった。
「でも……でも、アルダンは0%だって言ったじゃんか!!」
「そりゃあ、そうだろ。だってアルダンには“俺”がついてるんだからな」
自分で言っておきながら、その言葉の重さを理解していた。
そして、その残酷さも。
「どうして……どうしてボクは……っ!!!!」
次の瞬間。
トウカイテイオーは松葉杖を取り落とし、その場に崩れるようにして、泣き叫んだ。
抑えきれない嗚咽が、細い体を震わせる。
だが、その声に気づく者はいなかった。
新たな時代の象徴となったメジロアルダン。
その誕生に、観客たちはすべてを奪われていたからだ。
歓声は鳴り止まない。
祝福は、止まらない。
だからこそ。
トウカイテイオーは、その場で泣くことができた。
誰にも見られず、誰にも知られず。
そして同時に、押し寄せてくる。
安堵と———それ以上の、どうしようもない悔しさが。
自分の時代は、もう終わってしまったのだと。
認めたくなくても、理解してしまったからだ。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
やがて、涙を流し尽くしたのか。
トウカイテイオーはゆっくりと顔を上げた。
濡れた瞳のまま、まっすぐに俺を見て、静かに、問いかけてきた。
「———キミなら、できる?」
絞り出すような声だった。
けれど、その奥には、縋るだけではない“確信”のようなものが混じっている。
「……何が?」
あえて、聞き返す。
逃げではない。覚悟の言葉を、本人の口から引き出すためだ。
「……言わなくても、分かってるくせに」
睨むような視線。だが、その瞳は揺れている。
「いんや、分からないね。ちゃんとお前の言葉で伝えないと、俺には分からねぇよ」
突き放すようでいて、逃がさない。
その言葉に、テイオーは一瞬息を詰まらせ、ぐっと拳を握り締めた。
「キミなら……キミならボクを復活させられるっ!! そうでしょ!?」
叫びだった。
願いではなく、選択を迫る声。
「……あぁ」
短く、肯定する。
「ボクは……ボクはまだ終わってないっ!! こんなところで、終わってなんかいられないんだっ!!」
「あぁ」
その言葉の一つ一つを、受け止めるように返す。
「……ボクが復活する確率は?」
一拍。
逃げ場のない問い。
「ざっと見積もって、25%。言い換えれば、75%の確率でお前は確実に、死ぬ」
誤魔化さない。
希望だけを語るのは、裏切りと同じだ。
「……でも、0%じゃない」
即答だった。
迷いは、もうない。
「……その通りだ。分かってんじゃねぇか」
「……ボクは、諦めたくない」
静かに、だが確かに。
「……相当辛いぞ?」
「……分かってる」
「……今までとは比べ物にならないほど過酷で、惨めな思いをするんだぞ?」
念を押す。
それでも引くなら、ここで終わりだ。
「……分かってる。それでも、ボクは……」
一瞬、言葉が途切れる。
だが、次の瞬間———。
胸の奥から、すべてを吐き出すように叫んだ。
「諦めたくないんだっ!!」
その声は、もう揺れていなかった。
覚悟は、決まっている。
なら、あとは。
俺が、応えるだけだ。
「分かったよ、テイオー。お前の抱える宿命を、俺も一緒に背負ってやろうじゃねぇか」
言葉にした瞬間、不思議と迷いは消えていた。
「……ほんと?」
「ほんと? ってお前なぁ……お前が言い出したんだろうが」
「でも……本当に……」
強気な仮面はどこへやら。
不安を隠しきれない目で、こちらを見上げてくる。
「全く、こういうところはガキンチョなんだからよ」
乱暴に、だが優しく、その頭を撫でる。
指先に伝わる体温が、確かな現実を教えてくる。
「ウマ娘を導くのがトレーナーの仕事だ。だから、お前はドーンと俺に背中を任せて、ただ前を走ればいいんだよ!」
倒れていた松葉杖を拾い上げ、差し出す。
そして、軽く顎で合図する———ついてこい、と。
だが。
テイオーはそれを取らなかった。
代わりに俺の腕を掴む。
まるで、もう離さないと言わんばかりに。
その顔は、さっきまで泣いていたとは思えないほど明るくなっていた。
こうして、俺たちは歩き出す。
メジロ家だけでも手を焼くというのに、さらに厄介な案件が増えた。頭の中では、面倒ごとが山積みになっていく。
———それでも。
不思議と、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ誇らしくすらある。トレーナーとして、一歩踏み込めた気がしたからだ。
(これで少しは、キミの隣に相応しいトレーナーになれたかな、スーちゃん?)
遠い異国で走り続けているであろう幼馴染に、ふと想いを馳せる。
そのまま、腕にしがみついているテイオーの頭を、今度は静かに撫でた。
「安心しろよ、テイオー。俺は“番長スペック”に強いんだ。まぁ、そんなもん関係なしに、0%にしてやるんだけどな!」
わざと大げさに笑う。
「がははははっ!!」
その笑い声に、テイオーもつられて、小さく笑った。
こうして。
新たな“トウカイテイオー伝説”は、静かに幕を開けた。