ポケットモンスター 元プラズマ団・Nが、伝説のポケモンと往く「トモダチ」ではない「愛」を探す世界再発見の旅 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……零度。熱運動が停止し、分子の乱雑さが最小化される。ああ、かつての僕なら、この絶対的な静寂を『美しい数式の完成』だと称賛したのかもしれないね」
僕はカゴメタウンを見下ろす丘の上に立っていた。だが、そこにあるはずの穏やかな田園風景は、僕の記憶にある座標データとは似ても似つきもしないものに書き換えられていた。
空を覆い尽くす暗雲。そこから降り注ぐのは、慈雨でも粉雪でもない。空を割って突き刺さる、暴力的なまでの巨大な氷柱。
2年前、僕が夢想した「リセット」の成れの果て。
いま、僕の目の前にあるのは、理想でも真実でもない。ただの、残酷な物理的停止(デッドロック)だ。
「(……。……!!)」
足元の茂みから、1匹のポケモンが這い出してきた。
全身が霜に覆われ、その心拍数は生存可能領域の限界値(しきい値)を下回ろうとしている。
僕は慌てて駆け寄り、その小さな震えを両手で包み込んだ。
(……いたい。……さむい。……なぜ、セカイが、とまるの?)
伝わってくる波形(パルス)は、理不尽な暴力に対する純粋な悲鳴。かつて僕が救いたいと願った生命たちが、いま、僕がかつて所属していた「プラズマ」という名の影によって、命の灯火を奪われようとしている。
「……ごめん。本当に、すまない。僕が、僕という個体が、この悲劇の初期値を入力してしまったんだ。僕が求めた解放は、こんな凍てついた絶望じゃなかったはずなのに」
僕は自分の指先が感覚を失っていくのを感じながら、激しい自己嫌悪という名の熱に焼かれていた。
かつての僕は「計算」だけで世界を救おうとした。不純な人間を排除し、ポケモンだけの純粋な世界を作る。そのために伝説の力を使い、既存のシステムを物理的に破壊(デリート)しようとした。
だが、見てごらんよ、N。
これが君の望んだ「白」の世界かい?
生命の鼓動を無視し、多様性を凍結させ、すべての可能性を零に固定する。それは救済などではない。ただの、思考を放棄した破壊者のエゴだ。
「……若いの。そんな顔をして、雪だるまにでもなるつもりか?」
不意に、背後から枯れた、けれど力強い声が響いた。
振り返ると、そこには以前と変わらぬ風貌のアデクが立っていた。だが、その瞳に宿る光は、2年前よりも鋭く、そして悲しみを深く湛えている。
「……アデク。……見ての通りだ。僕は、観測者としての責任すら果たせていない。僕の過去が、この街を、このイッシュを殺そうとしている」
「ふん。責任、責任とな。相変わらずお前さんは、自分を世界の中心にある演算装置だと思い込んでいるようだな」
アデクは吐息を白く輝かせ、凍りついたカゴメタウンを指差した。
「見ろ。あの氷の下で、人間もポケモンも必死に抗っている。凍えながらも、お互いの体温を分け合い、明日という名の不確定な変数を勝ち取ろうとしている。お前が絶望している間にも、生命は計算外の粘り強さを見せているのさ」
「……分け合う? そんな非効率な……。……。……。ああ、そうか。君たちは、止まらないんだね。環境変数がどれほどマイナスに振れても、君たちは『生きる』という解を導き出し続けるのか」
僕は、抱きしめていたポケモンの温もりが、わずかに上昇したのを感じた。
(……たすけて。……いっしょに、いさせて)
そのささやかな祈りが、僕の胸の奥に埋め込まれていた「王」という名の古いプログラムを粉々に砕いていく。
「……アデク。僕は、自分が許せない。僕がプラズマ団の象徴であったという事実は、どれほど時間を上書きしても消えない。この凍てついた景色は、僕の罪の証明だ」
「ならば、動け。罪の証明を眺めて立ち止まるのは、ただの自己満足だ。わしはもう、チャンピオンではない。だが、この地の生命を守るという意志に、肩書きは必要ないはずだぞ、N」
「……。……。……」
僕は空を見上げた。
厚い雲の向こう側。そこには、僕を待っている「相棒」がいる。
2年前、僕と共に理想の空を飛んだドラゴン。
僕は、再びあの背に乗らなければならない。
それは「王」として君臨するためではない。
かつての自分という名の「過ち」を修正し、この凍てついた不協和音を止めるための、泥臭い一歩を踏み出すために。
「……わかったよ。僕は、僕の数式を、もう一度書き換える。今度は、犠牲という定数を含まない、本当の意味での共鳴を見つけるために」
僕は凍える手で、そのポケモンの霜を優しく払い、アデクに託した。
「……イッシュを、頼む。僕は、僕にしかできないやり方で、この冷気を断ち切ってくる」
「行ってこい。若いの。次に会うときは、雪解けのコーヒーでも一緒に飲もうじゃないか」
アデクの不敵な笑みを背に、僕は走り出した。
冷たい風が頬を切り裂く。
けれど、僕の心臓は、この2年間で最も激しく、最も熱く、人間としての鼓動(ビート)を刻んでいた。
「待っていてくれ、トモダチ。僕は、もう二度と、計算だけで世界を定義したりはしない」
カゴメタウンの惨状が、僕の瞳に焼き付く。
この景色を二度と繰り返させないこと。それが、何者でもなくなった僕が、最初に見つけた「存在理由」だった。