ポケットモンスター 元プラズマ団・Nが、伝説のポケモンと往く「トモダチ」ではない「愛」を探す世界再発見の旅 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……。……終わったんだね。すべての演算が、君という名の絶対的な熱量によって、強制終了(シャットダウン)させられた」
ジャイアントホールの中心。融合を解かれ、元の姿に戻った僕の相棒が、激しい消耗に喘ぎながらも僕の元へと歩み寄ってくる。僕はその傷ついた首筋に触れ、細胞の1つ1つが発する安堵のパルスを受信した。
そして、その視線の先。
崩れ落ちた氷の玉座の傍らに、1つの「残骸」が転がっていた。
「……ア、アガ……ガ……ッ!!」
ゲーチス。
かつて僕の全宇宙を支配していた巨大な重力。僕に言葉を与え、数式を与え、そして「王」という名の檻に閉じ込めた男。
いま、その男の口から漏れるのは、論理的な言語ではない。機能不全に陥った回路が吐き出す、無意味な音声の羅列(ジャンクデータ)だった。
杖は折れ、右腕の袖は虚しく風に揺れている。その瞳に宿っていた、世界を支配しようとしたドス黒い野望は霧散し、いまはただ、自己崩壊の恐怖に震える原始的なパルスだけが、0.1ヘルツの周期で虚空を叩いている。
「……ひどい、有様だね。ゲーチス。あなたの脳内にあった完璧な帝国は、たった1人のトレーナーが放った、計算外の『絆』によって、再起不能(クラッシュ)したんだよ」
僕はゆっくりと、その男の前に立った。
かつての僕なら、この光景を見て激しい憎悪を抱いたかもしれない。あるいは、あまりの哀れさに涙を流したかもしれない。
けれど、いま僕の心臓が刻んでいるのは、静止画のように冷徹で、凪のように穏やかな100BPMの鼓動だけだ。
「……N、その男をどうするつもり?」
隣に立つ新しいトレーナーが問いかける。その声には、敵意を通り越した困惑が混じっていた。廃人と化した「悪の首領」を前に、勝利の余韻さえも凍りついている。
「……どうもしないよ。ただの、記号として置いていくだけだ」
僕はゲーチスの瞳を覗き込んだ。そこにはもう、僕を「化け物」と定義したあの冷酷な光はない。映っているのは、何者でもなくなった自分を、ただ呆然と見つめ返す、空虚な鏡像。
「……ゲーチス。僕はあなたを許さない。あなたがポケモンたちに強いた痛みも、僕の人生を数式の檻に閉じ込めた罪も、何100万回積分したところで正の数にはならないからね。……でも、あなたを恨むことも、もうやめるよ」
「……ア、……ァ……。……」
「恨みもまた、依存という名の相関関数だ。あなたを恨み続ける限り、僕のベクトルは永遠にあなたという原点に縛られ続けてしまう。……。……さようなら。僕の『父』だった、哀れな記号」
僕は背を向けた。
その瞬間、僕の脊髄を縛り付けていた、目に見えない20数年分の鎖が、音を立てて砕け散るのを感じた。
血の呪縛。ハルモニアという名の呪い。
それらはすべて、この凍てついた奈落の底に、過去の遺物としてパッキング(圧縮)される。
「……行こう。この場所の気温は、いま、生命が共存するための適正値へと戻り始めている」
僕はトレーナーと共に、光の差す出口へと歩き出した。
背後で、ダークトリニティたちが音もなく現れ、その「残骸」を回収していく気配がした。けれど、僕は一度も振り返らなかった。
振り返れば、また数字の羅列が僕の視界を侵食し始めるような気がしたから。
「……ねえ、N。これから、どうするの?」
外の世界へと繋がるトンネルを抜けながら、トレーナーが尋ねる。
僕は、眩しい太陽の光に目を細めた。2年前のあの日、空へと逃げたときとは違う、透明度の高い青空。
「……計算は、もうやめたんだ。これからは、予測不可能な変数(トラブル)を楽しみながら、この足で世界を歩いてみるよ。……一人の、ただの人間としてね」
僕はボロボロになった帽子のつばを、少しだけ持ち上げた。
ジャイアントホールから聞こえていたあの悲鳴は、いま、春を待つポケモンの呼吸音へと書き換えられている。
僕の心拍数は、100から、ゆっくりと日常の60へと落ち着いていった。
「……。……。……ありがとう。君が僕の隣に立ってくれたおかげで、僕は僕自身の『0』を、ようやく受け入れることができたよ」
僕は一歩、また一歩と、自分自身の意思で大地を蹴る。
それは、ハルモニアの血から解放された、真の意味での「僕」の第1歩だった。