ポケットモンスター 元プラズマ団・Nが、伝説のポケモンと往く「トモダチ」ではない「愛」を探す世界再発見の旅 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……。……。……ふう。激しい演算の跡だね。空気中のイオン濃度が、君と僕がぶつけ合った熱量の余韻で、まだ15パーセントほど高い数値を維持しているよ」
崩落した城の最深部。戦いを終えた僕と君の間には、心地よい沈黙と、壊れた壁の隙間から差し込むオレンジ色の斜光が横たわっていた。
僕は、隣に立つ君――新しい時代の変数を担うトレーナーに、1つの古びた、けれど大切に保管されていたモンスターボールを差し出した。
「……? N、これは……?」
「僕という存在を、多項式で展開したときに出現する、最も純粋な剰余(あまり)さ。……いいや、もっと単純な言葉で言おう。僕の『トモダチ』だよ」
カチリ、とボタンが押され、光の粒子が夕闇の中に霧散する。
そこに現れたのは、小さな、黒い毛並みのポケモン。
ゾロアだ。
その子は、現れた瞬間に僕の姿へと化けてみせた。緑色の髪、風にそよぐ奇妙な装飾品、そして……2年前、世界の全てに絶望していた頃の、僕の「哀しい瞳」を。
「(……。……。……)」
化けた僕の姿をしたゾロアが、小首を傾げて君を見上げる。その瞳の奥にあるパルスは、僕の脳髄にダイレクトに流れ込んできた。
(……あいたい。……このひと、だれ? ……Nの、トモダチ?)
「……ゾロア。化けなくていいんだよ。ここにはもう、自分を偽るための幾何学模様(デザイン)も、誰かを演じるための玉座も必要ないんだから」
僕の言葉に応えるように、幻覚が解ける。
小さなゾロアは、元の姿に戻り、くんくんと君の靴の匂いを嗅ぎ始めた。
「この子はね、僕が森で『化け物』として生きていた頃から、ずっと僕の傍にいてくれた。……ゲーチスが僕を王として仕立て上げるために用意した鏡ではなく、僕自身の魂を映し出す、唯一のリアルな鏡だったんだ」
「ゾロア……。すごく、優しい目をしているね」
君は膝をつき、ゾロアの目線に合わせて手を差し出した。
その動作の滑らかさ。確率統計学的に見て、君がどれほど多くのポケモンと信頼関係(プロトコル)を築いてきたかが、0.1秒の観測で理解できる。
「……君に、この子を託したいんだ。……いや、託させてほしい。これは僕という過去を、君という未来へ連れて行ってほしいという、僕の極めて個人的なエゴ(わがまま)だよ」
「えっ……? でも、この子は君の……」
「0。いや、いまの僕では、この子を100パーセント幸せにするための定数が足りないんだ。僕はまだ、自分自身の足跡を世界に刻むための、長い計算の途中にいる。……でも、君なら。君と、君のトモダチたちのパーティーなら、この子の持つ『変化(イリュージョン)』という才能を、誰かを騙すためではなく、世界を驚かせ、笑顔にするためのエネルギーに変換できるはずだ」
ゾロアは、君の指先に鼻を寄せ、甘えるように鳴いた。
(……あったかい。……このひと、いいにおい。……Nが、わらってる!)
「……。……。……聞こえるかい? この子の声が。君に触れられて、ゾロアの心拍数は1分間に120回まで加速している。これは警戒の信号(アラート)じゃない。未知の体験に対する、期待の加速度(アクセラレーション)だ」
僕は、ボロボロになった帽子を深く被り直した。
感情が、目頭の奥で熱量(カロリー)に変わるのを感じる。
「……ゾロア。君の瞳は、かつての僕の瞳だった。……でも、これからは、君がこのトレーナーの瞳になって、僕が見ることのできなかった景色を、君のやり方で観測してほしいんだ」
「……わかったよ、N。責任重大だね。でも、約束する。この子と一緒に、世界中の驚きを探しにいくよ」
君は力強く頷き、ゾロアを抱き上げた。
ゾロアは嬉しそうに君の腕の中で丸まり、その瞳に、いまこの瞬間の眩しい夕焼けを、デジタルカメラよりも正確に焼き付けていた。
「……ありがとう。これで僕の未解決問題(コンプレックス)が、また1つ、美しい解(ソリューション)を得たよ」
僕は、君とゾロアに背を向けた。
涙という名の不純物が、僕の計算精度を狂わせる前に。
「……さあ、行って。君たちの旅のベクトルは、ここからさらに外側へと広がっていく。僕は、ここでしばらく、風の音色(ノイズ)を聞きながら、次の数式の構想を練ることにするよ」
「……うん。またね、N! 絶対、またどこかで会おう!」
遠ざかっていく、2つの鼓動。
1つは若々しく力強い人間のパルス。
もう1つは、かつての僕の孤独を分かち合ってくれた、小さな影のパルス。
僕は1人、廃墟に残された斜光の中で呟いた。
「サヨナラ……。……。……いいや。またね。ゾロア。僕の過去を、よろしく頼むよ」
ゾロアの瞳。
そこに映っていたのは、もはや凍てついた檻の景色ではない。
無限の可能性(ランダムウォーク)へと歩み出す、眩しい未来の光そのものだった。