ポケットモンスター 元プラズマ団・Nが、伝説のポケモンと往く「トモダチ」ではない「愛」を探す世界再発見の旅 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……。……。……。10の何乗、あるいは無限。このイッシュの地平線に、いま、どれほど多くの『意志』が重なり合っているんだろうね。かつての僕なら、それを一つの等式に閉じ込めようとして、演算回路をオーバーヒートさせていたに違いないけれど」
僕は一人、イッシュ地方を一望できる高台に立っていた。
目に映るのは、整然とした幾何学模様ではない。
遠くに見えるヒウンシティの摩天楼が放つ無機質な光と、それを包み込むように広がる森の呼吸。
舗装された道路を走る車のエンジン音と、草原で跳ねるシキジカたちの足音。
それらが、互いの領域を侵食し合い、混ざり合い、一つの巨大な「不完全」を形成している。
「(……。……。……。N。……いま、なにを、みているの?)」
相棒の声が、脳内の受像機に直接投影される。
(……きれいだね。……みんな、いきてる。……みんな、ちがうね)
「……そうだね。真実か理想か。0か1か。そんな二進法の檻に閉じ込めていた頃には、決して観測できなかった景色だよ」
僕は相棒の首筋に手を置いた。
2年前、僕はポケモンを人間から「解放」することが唯一の正解だと信じて疑わなかった。
人間という不確定なノイズを排除し、ポケモンだけの純粋な調和(ハルモニア)を築く。それが「王」である僕に課せられた計算式だったから。
けれど、いま僕の前にあるのは、そのどちらでもない。
「支配」でもなく、「解放」でもなく、ただ「混ざり合っている」という状態。
「……見てごらん。あそこでトレーナーと歩いているヨーテリーの心拍数。1分間に約80回。それは、隣に立つ人間の歩幅(ピッチ)と完全に同期している。……それは隷属じゃない。互いの存在を、固有の変数として認め合った結果導き出された、新しい定数なんだ」
かつて僕は、モンスターボールという拘束を暴力だと切り捨てた。
けれど、いまなら分かる。
あの小さな球体の中に閉じ込められているのは、命令系統(コード)ではない。
「共に在る」という、重力のような引力なのだと。
「……N、そこにいたのね」
背後から、懐かしい波形(パルス)が近づいてきた。
かつて僕を王宮で支えてくれた女神、アンとバー。
彼女たちは、僕を王として崇めるのではなく、一人の壊れそうな少年として見つめ続けてくれた数少ない存在だ。
「……アン。バー。……。……。……。ごめん、また考え事をしていたよ。僕の脳内は、常に新しい変数を取り込まずにはいられない構造(アーキテクチャ)になっているみたいだ」
「いいのよ、N。……でも、いまのあなたの目は、2年前のあの凍てついた色をしていないわ」
アンが優しく微笑む。
「真実でも理想でもない……もっと温かいものを探している。そんな目ね」
「温かいもの……。……。……。……熱力学的な定義で言えば、それは単なる分子運動の増加に過ぎないけれど。……いまの僕には、その表現はあまりに無機質に聞こえるよ。……アン、バー。僕はね、この雑多で、混沌としていて、矛盾だらけの景色を……初めて、心の底から『美しい』と思ったんだ」
「美しい……。あなたが、そんな言葉を口にするなんて」
バーが驚いたように瞳を揺らす。
「かつてのあなたは、美しいものは『完璧な秩序』の中にしかないと言っていたのに」
「……。……。……。そうだね。でも、完璧な秩序とは、死と同じ意味だったんだ。変化しない、ゆらぎのない、固定された定数。……。……。……。でも、生命の本質は、変化し続けることにある。真実と理想が、激しく衝突し、火花を散らし、その摩擦熱で新しい形に変わっていく。……その不完全なプロセスそのものが、この世界の真価(バリュー)だったんだ」
僕は再び、地平線を見つめた。
そこには、僕を負かした「彼(彼女)」が愛した世界がある。
僕に「人間」であることを教えてくれた「彼(彼女)」が、いまもどこかで守り続けている日常がある。
「……。……。……。真実の先にあるもの。理想の先にあるもの。……それは、きっと『許容』という名のハルモニアだ。……正解を見つけることではなく、間違いながらも、傷つきながらも、隣にいる誰かと手を取り合って歩き続けること」
僕は、ポケットから一つの古いコインを取り出し、空に放り投げた。
表か、裏か。
回転するコインが夕陽を反射し、黄金色の円を描く。
それは空中で止まることはない。常に変化し、揺れ動き、見る角度によって形を変える。
この世界そのもののように。
「……行こう。僕はもう、王座に戻ることはない。……けれど、このイッシュの地平線が続く限り、僕は観測し続けるよ。……ポケモンと人間が、どれほど眩しい未来を、この不確かな大地に書き込んでいくのかをね」
相棒が、賛同するように力強く咆哮した。
その声は、かつての神託のような冷たさは微塵もなく、ただ、生きている喜びを世界に宣言する、熱いパルスに満ちていた。
「……サヨナラは、まだ言わないよ。……。……。……。この美しいカオスの一部として、僕もまた、新しい歩みを始めなきゃいけないからね」
僕は高台を降り始めた。
一歩、また一歩。
僕の足跡が、雑多なイッシュの土に刻まれていく。
それは、どんな高度な数式よりもリアルで、確かな「真実」だった。