「リモート魔王」――改善してたら魔王に定義されました。家族との絆が削られる魔王に…   作:遠藤 世羅須

5 / 5
ダンジョン放置で直人は現実世界へと戻る。一番大事なもの、家族を守るために直人は行動する。


第5話 ターニングポイント

「行ってくる」

夕方の空気は、昼の会議よりはるかに重い。

 

在宅勤務の“在宅”は、たぶんこういう時のためにある。

しかし、会議の余熱は指先に残り、Slackの通知はまだ耳の奥で鳴っている。

出る前、ミリアが画面の隅で手を振っていた。

「いってらっしゃいませ♡ 魔王さま♡」

直人は振り返らない。

「俺は父親だ」

ダンジョンは放置した。

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

幼稚園の門の前に着くと、妻がすでに立っていた。

「ありがとう、来れたんだ」

「会議は切った。……ひなは?」

先生に抱えられるようにして出てきたひなは、頬が赤い。

直人を見ると、少しだけ笑った。

妻が小声で言う。

「熱、37.8。いまはだるいだけっぽいけど、念のため」

直人は頷いた。

「小児科寄ろう。その前に――」

 

直人は幼稚園の向かいのコンビニに走った。

ポカリ、ゼリー、氷。あと、子どもが飲めそうなストロー付きの水。

戻ると、妻が少し笑った。

「手際いいね」

「仕事のせいで“最短導線”が身体に染みてる」

ひなは直人の袋を覗き込み、弱い声で言った。

「それ、あおいやつ?」

「そう。あおいやつ。いまのひなに一番強い」

直人はペットボトルを少しだけ開け、コップに注いで渡した。

「ちょっとずつ。のど渇いてる?」

ひなはこくんと頷き、ストローで吸った。

「……あまい」

「それでいい。今日は甘いが正義」

妻がほっと息を吐く。

「飲めてる」

直人は小さく頷いた。

「よし。じゃあ病院へ」

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

小児科の待合は、世界でいちばん静かな戦場だ。

熱の子ども、心配する親、淡々と呼び出す受付の声。

直人はスマホを見るのをやめた。

見れば仕事に戻ってしまうのが分かっていたから。

診察は短かった。

のどの腫れは軽い。肺音も問題なし。

「風邪でしょう。水分をしっかり。今夜高熱が出たら解熱剤を。

 明日も続くようなら再診で」

医師は淡々と、しかし“事なきを得る”言葉をくれた。

妻が息を吐く。

直人も息を吐く。

ひなは会計の間、直人の袖を握っていた。

「だいじょうぶ?」

「大丈夫。……ひなのほうが大丈夫?」

ひなは少し考えて、こくんと頷く。

「パパ、かえる」

「帰る」

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

家に着くと、ひなは布団に入った。

妻が冷えたタオルを用意し、直人がポカリをコップに注ぐ。

何も劇的なことは起きない。

でも、こういう“何も起きない”が、どれだけ貴重か直人は知っている。

 

ひなが少し元気になって、寝室から小さな声がする。

「まおうごっこ……」

直人は笑って、寝室に入った。

“魔王役”は直人だ。

でもダンジョンの魔王じゃない。

布団の上の、やさしい魔王。

「まおうは、ねむい」

「ゆうしゃ、たおす」

「ゆうしゃは、もうねる時間です」

「うそだぁ!」

妻が台所から笑う。

「うるさくしないでよ、熱あるんだから」

直人は小声で返す。

「魔王は静かに滅ぼす」

 

団らんは短い。

熱の子どもは、笑ったあとはすぐ眠る。

妻が寝息を確認して、そっとドアを閉めた。

「……大丈夫そうだね」

「うん。ありがとう、会議切ってくれて」

「切ったんじゃない。逃げた」

妻が小さく笑う。

「逃げて正解」

その言葉が、直人には救いだった。

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

時計を見る。

まだ早い。

しかし、家の中は静かになった。

静かになると、直人の“仕事脳”が戻ってくる。

そして、戻ってきた瞬間に、別の怖さも一緒に戻る。

 

ダンジョン。

PCを開けない時間は、意外と長かった。

その間に何が起きているか、直人は想像できる。

想像できるから、開けたくない。

妻が言う。

「見ないほうがいいんじゃない?」

直人は苦笑した。妻はダンジョンの件は知らない。

仕事の事と思って聞いている。

「見ないと、もっと酷くなるタイプのやつなんだよ」

「そうなのね」

直人は恐る恐る、PCを開いた。

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

まず現実が殴ってくる。

未読のメールが溜まっていた。

件名だけで胃が痛くなる。

【至急】顧客からの追加要望(回答期限:本日中)

【重要】再発防止の提出フォーマット(経営層レビュー要)

【対応漏れ】一次回答への追記依頼(営業)

 

直人は眉間を押さえる。

「……捨て置いたの、ちゃんと刺してくるな」

直人は息を吸い、まず一通だけ返した。

“今夜できること”だけに切り分け、期限を握り直す。

すべてに答えるな。火の粉を止めろ。

返信を打ち終えたところで、直人は一度だけ手を止めた。

最悪の予感が、背中に貼り付いている。

 

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

ダンジョン側の画面を、立ち上げ、最大化する。

ミリアがどこか愉快そうに言った。

「現実もダンジョンも、“放置耐性”ゼロですね♡」

「褒めるところじゃない」

 

ログが、赤い。

赤が多すぎて、血の海みたいだ。

[重大] フロアボス領域:侵入者進入

[対応] リザードマン:迎撃(自動)

[制約] 撃破禁止:順守

――ここまでは、想定内だった。

 

問題は、その次。

[重大] ミノタウロス:交戦開始

[結果] ミノタウロス:撃破

[結果] 扉:解放

[警告] 外部接続判定:成立

 

直人は、言葉が出なかった。

椅子の上で、背筋だけが伸びる。

「……ミノタウロス、撃破?」

ミリアは、悪びれない。

極上の笑顔で頷いた。

「はい♡ 直人さまが“放置”したので、現場が頑張りました♡」

「頑張る方向が違う!」

「侵入者が頑張ったんです♡」

「もっと違う!」

 

ダンジョンのログは、赤い。赤が多すぎて、もはや赤字決算の色だった。

ミリアが、管理画面の隅に新しいタブを増やしていた。

タイトルは――

 

【障害報告書(INCIDENT)】

直人は目を細める。嫌な予感が確信に変わる。

「……誰が、こんな報告書フォーマットにした」

ミリアが極上の笑顔で言った。

「直人さまが“仕事で見慣れてる形”が、安心かと思いまして♡」

「最悪の気遣いだな」

画面には、淡々と地獄が整形されて並んでいた。

 

【INC-008】フロアボス(ミノタウロス)撃破に伴う扉の解放

発生日/時刻:本日 19:42(管理者不在時間帯)

重要度:S(“現実側”影響の可能性あり)

ステータス:扉(門)開放

担当:管理者(佐倉直人)※不在

管理者:胃が痛い

概要:

フロアボス領域にて侵入者(勇者パーティ)がミノタウロスを撃破。

これにより、次段扉が解放され、外部接続判定が成立。

 

「直人さま、報告書の書き方は完璧です♡」

「“胃が痛い”を報告書に入れるな!」

(ここでSかよ…)

 

暫定対応(提案)

扉前に“暗号申請ゲート(簡易)”を設置し、通行を事実上阻害

侵入者に対し、“推奨ルート”を扉から遠ざける(遠回り化)

 

直人は額を押さえた。

「……暫定対応が嫌がらせなの、うちの会社より終わってる」

ミリアが爽やかに言った。

「会社の方は嫌がらせじゃないんですか♡」

「そこは黙ってろ」

 

 

外部接続判定(重要)

画面の端に、別の項目が赤く点滅していた。

【外部接続判定:成立】

接続先:現実側(位置情報)

場所:幼稚園(施設名:××幼稚園)

 

直人の血の気が引く。

笑いが、冷える音に変わる。

「……やめろ!

 そこはひなの…」

ミリアは、いつも通りの笑顔で言った。

「だって、扉が開いちゃいましたから♡」

直人は声を落とす。家族が寝ている。怒鳴れない。

「……家族に触るな」

 

ミリアが

「触れるのは、直人さまの“世界”です♡」

「言葉遊びで誤魔化すな」

直人は報告書タブを閉じたかった。

でも閉じると、現実も異界も“なかったこと”になりそうで、閉じられなかった。

直人は、気が遠くなるのを感じた。

 

 

――ピロン。

PCではなく、直人のスマホが鳴った。

幼稚園からの見慣れた連絡ではない。

 

見慣れない、しかし妙に“丁寧な”通知。

【お知らせ】明日、園内で“安全確認”を実施します

担当:ミリア

 

直人の指が止まる。

背中が冷える。

ミリアは、画面の中で、にっこり手を振った。

「明日、会えますね♡」

直人は低い声で言った。

「……やめろ。あそこは、現実だ」

ミリアは、楽しそうに言った。

「現実の定義、明日更新します♡」

 

 

直人は、眠っている娘の近くに行き寝顔を一度だけ見た。

そしてPCの画面に戻り、声にならない声で呟いた。

「……俺のせいで、扉が開いた」

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

朝には、現実が正しくて、異界が間違っているはずだった。

直人は昨夜のログを思い出すたびに、胃の奥がきしむ。

ミノタウロス撃破。扉解放。外部接続判定。

場所:幼稚園。

 

眠っている娘の顔を見て、直人は一度だけ思った。

――これは夢だ。

仕事のストレスが変な比喩を作っているだけだ。

 

しかし、朝食時になっても通知は消えなかった。

ひなは熱が少し下がり、頬の赤みも引いていた。

 

「ようちえんいける?」と妻が聞く。

 

「いける」とひなが答える。

 

その声がまだ少し細い。

直人は言った。

 

「今日、俺が送るよ」

 

妻が不思議そうに眉を上げた。

 

「在宅でしょ。会議は?」

「午前は調整した。……昨日の分、取り返さないと」

 

嘘ではない。仕事の会議は調整した。

ただし、本当の理由は別にある。

幼稚園を、自分の目で見ないといけない。

妻はダンジョンを知らない。

 

だから直人は“父親の言い訳”だけを出す。

 

「心配だから」

 

それだけで通る。

 

通ってしまうのが、現実の怖さでもある。

 

 

〇 幼稚園の入口

 

幼稚園の門の前は、いつもと変わらない。

出勤前の親たち、先生の声、子どもの靴の音。

変わらない。

変わらないはずなのに、直人の視線だけが変に冴えている。

ひなが小さな手で直人の指を握る。

 

「パパ、きょうもくる?」

 

「……今日はいけない。仕事がある」

 

「ふーん」

 

納得していない返事だ。だが、歩く。

 

門のところで、先生がにこやかに迎えた。

いつもの担任――の隣に、もう一人。

その人は、そこに“ずっと前からいた”みたいに立っていた。

白いエプロン。名札。柔らかい笑顔。

不自然なほど整った所作。

直人の脳が、勝手に結論を出す。

 

(新任の先生だ)

 

(よくある)

 

(気にするほどのことじゃない)

 

――その思考が、ぬるりと滑る。

 

“納得”が早すぎる。

 

彼女が言った。

 

「おはようございます。佐倉ひなちゃんですね♡」

 

声が、記憶の奥を撫でる。

直人の背中が冷たくなる。

名札には、こう書いてあった。

 

「ミリア(補助)」

 

直人の脳がまた勝手に処理する。

(海外出身の先生もいる)

(ミリアは名前としてあり得る)

(偶然だ)

 

偶然の割に、笑顔が“昨日の画面”と同じだ。

ミリア先生は、ひなの目線にしゃがんだ。

 

「ひなちゃん、きょうはだいじょうぶ?」

 

ひなは小さく頷く。

 

「うん」

 

「えらい♡ じゃあ、きょうはむりしないで、ゆっくりね」

 

 

そのやり取りが、あまりに自然で。

周囲の先生たちも親たちも、誰も違和感を示さない。

直人だけが、遅れて気づく。

 

――違和感を感じる“回路”が、鈍っている。

 

ミリア先生が立ち上がり、直人に向けて微笑む。

 

「お父さまも、ご安心ください♡」

 

直人は反射で答えそうになる。

 

(ありがとうございます)

 

口が動きかけて、止めた。

謝罪や礼を言うと、何かが増える世界を知ってしまった。

 

 

代わりに、固い声で言う。

 

「……新任ですか」

 

ミリア先生は首を傾げる。

 

「え? ずっといましたよ♡」

 

 

その瞬間、直人の脳が「そうだったかもしれない」と思いかける。

 

――危ない。

 

 

直人は視線をずらし、園舎の端を見る。

“候補”と表示されていた場所だ。

 

そこに、あった。

 

園庭の隅、物置の裏。

誰も近づかない、遊具の死角。

空気が薄い膜みたいに揺れている。

まるで、見えないビニールカーテン。

 

直人は息を止めた。

見えてしまう。

見えるということは、ここが“接続先”だ。

 

ミリア先生が、優しい声で言う。

 

「お父さま、目が疲れてます? 無理なさらないで♡」

 

直人は低く返す。

 

「……大丈夫です」

 

大丈夫じゃない。

でも、ここで騒いだら終わる。

ひなが、手を振る。

 

「いってきます」

「……いってらっしゃい」

 

直人は娘を見送りながら、心の中でだけ言った。

 

(ごめん。今日は“仕事”じゃない)

 

 

〇 魅了は、違和感を消す

 

門から少し離れたところで、直人は立ち止まった。

帰るべきだ。仕事もある。妻にも説明がつかない。

なのに足が動かない。

 

“あの先生”が、そこにいることが当たり前みたいに思えてしまう。

 

それが怖い。

 

 

直人はポケットの中でスマホを握りしめた。

昨夜のログ。障害報告書。扉。位置情報。

人間の脳は、都合よく現実を整形する。

 

「平常化バイアス」というやつだ。

 

“面倒な事実”を避けるために。

いま直人の脳は、その機能を全力で使っている。

ミリア先生を、ただの先生として受け入れようとしている。

 

――魅了。

 

直人は、言葉で自分を殴る。

 

(違う。あれはミリアだ)

 

(昨日画面の中にいた)

(扉が開いた)

 

(ここが接続先だ)

 

(いま俺は、騙されている)

 

言葉にすると、少しだけ霧が晴れる。

思考が“自分のもの”に戻ってくる。

同時に、耳の奥でミリアの声がする気がした。

 

「直人さま、定義して下さい♡」

 

直人は唇を噛む。

定義なんて、いまはしたくない。

定義したら、何かが加速する。

でも、やるしかない。

 

 

〇 結界と、ミュート

 

直人は園の外から、もう一度だけ物置裏を見た。

揺らぎの前に、薄い光の筋が何本も走っている。

 

結界。

 

理屈は分からない。

でも分かる。あれは“安全柵”の類だ。

そして“自分だけ”が、それを認識できている。

 

直人は、スマホで仕事用の通話アプリを開いた。

午前の会議はキャンセルしてある。

しかし“会議枠”そのものは残しておいた。

 

理由は一つ。

 

ミュートが必要だからだ。

 

ワイヤレスイヤホンを耳に入れる。

誰もいない通話に接続する。

表示が出る。

 

「通話中」

 

直人は、ひとつ息を吸って、ミュートを押した。

 

ミュート:ON

 

 

世界が、わずかに軋んだ。

物置裏の揺らぎが、濃くなる。

結界の光の筋が、目に見える“格子”へ変わっていく。

 

「……来いってことかよ」

 

 

背後から、声。

「お待ちしてました♡」

 

振り向くと、”ミリア先生”がそこにいた。

さっきまで門のところにいたはずなのに。

直人の脳が「先生は園内を歩くものだ」と処理しようとする。

しかし今日は、その処理に乗らない。

 

直人は低い声で言った。

「……幼稚園の先生の移動速度じゃない」

 

ミリア先生は笑う。

「直人さまがミュートにしたので♡」

 

直人は言う。

「つまり、ミュートで加速は本当なんだな」

 

「はい♡ 現実で黙るほど、こちらでは進めます♡」

 

直人は、物置裏へ近づいた。

おかしい。自分が歩いている間、周囲が止まっているような感覚。

これが”ミュートの世界”なのか。

 

 

結界の格子が、彼の前で“扉”みたいに割れる。

ミリア先生が、当たり前みたいに手を差し出した。

「行きましょう♡ 片付けないと、もっと大変になります♡」

 

直人は苦々しく笑う。

「……“片付け”って言い方やめろ。仕事みたいじゃないか」

 

ミリア先生は極上の笑顔。

「お仕事です♡ 魔王さま♡」

 

 

 

直人は、最後に園舎を見た。

娘がいる。

現実だ。

この場所は、現実だ。

「……触るなよ」

 

ミリア先生は、いっそ優しく頷いた。

「触りません♡」

 

その言い方が、いちばん信用できなかった。

 

(つづく)




あろうことか「ミリア先生」が現れた。
そして、直人は導かれるままに、ひなの身近に迫る不安を排除すべく、いざダンジョンへ。直人の混乱は続く。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。