「リモート魔王」――改善してたら魔王に定義されました。家族との絆が削られる魔王に… 作:遠藤 世羅須
「行ってくる」
夕方の空気は、昼の会議よりはるかに重い。
在宅勤務の“在宅”は、たぶんこういう時のためにある。
しかし、会議の余熱は指先に残り、Slackの通知はまだ耳の奥で鳴っている。
出る前、ミリアが画面の隅で手を振っていた。
「いってらっしゃいませ♡ 魔王さま♡」
直人は振り返らない。
「俺は父親だ」
ダンジョンは放置した。
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幼稚園の門の前に着くと、妻がすでに立っていた。
「ありがとう、来れたんだ」
「会議は切った。……ひなは?」
先生に抱えられるようにして出てきたひなは、頬が赤い。
直人を見ると、少しだけ笑った。
妻が小声で言う。
「熱、37.8。いまはだるいだけっぽいけど、念のため」
直人は頷いた。
「小児科寄ろう。その前に――」
直人は幼稚園の向かいのコンビニに走った。
ポカリ、ゼリー、氷。あと、子どもが飲めそうなストロー付きの水。
戻ると、妻が少し笑った。
「手際いいね」
「仕事のせいで“最短導線”が身体に染みてる」
ひなは直人の袋を覗き込み、弱い声で言った。
「それ、あおいやつ?」
「そう。あおいやつ。いまのひなに一番強い」
直人はペットボトルを少しだけ開け、コップに注いで渡した。
「ちょっとずつ。のど渇いてる?」
ひなはこくんと頷き、ストローで吸った。
「……あまい」
「それでいい。今日は甘いが正義」
妻がほっと息を吐く。
「飲めてる」
直人は小さく頷いた。
「よし。じゃあ病院へ」
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小児科の待合は、世界でいちばん静かな戦場だ。
熱の子ども、心配する親、淡々と呼び出す受付の声。
直人はスマホを見るのをやめた。
見れば仕事に戻ってしまうのが分かっていたから。
診察は短かった。
のどの腫れは軽い。肺音も問題なし。
「風邪でしょう。水分をしっかり。今夜高熱が出たら解熱剤を。
明日も続くようなら再診で」
医師は淡々と、しかし“事なきを得る”言葉をくれた。
妻が息を吐く。
直人も息を吐く。
ひなは会計の間、直人の袖を握っていた。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫。……ひなのほうが大丈夫?」
ひなは少し考えて、こくんと頷く。
「パパ、かえる」
「帰る」
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家に着くと、ひなは布団に入った。
妻が冷えたタオルを用意し、直人がポカリをコップに注ぐ。
何も劇的なことは起きない。
でも、こういう“何も起きない”が、どれだけ貴重か直人は知っている。
ひなが少し元気になって、寝室から小さな声がする。
「まおうごっこ……」
直人は笑って、寝室に入った。
“魔王役”は直人だ。
でもダンジョンの魔王じゃない。
布団の上の、やさしい魔王。
「まおうは、ねむい」
「ゆうしゃ、たおす」
「ゆうしゃは、もうねる時間です」
「うそだぁ!」
妻が台所から笑う。
「うるさくしないでよ、熱あるんだから」
直人は小声で返す。
「魔王は静かに滅ぼす」
団らんは短い。
熱の子どもは、笑ったあとはすぐ眠る。
妻が寝息を確認して、そっとドアを閉めた。
「……大丈夫そうだね」
「うん。ありがとう、会議切ってくれて」
「切ったんじゃない。逃げた」
妻が小さく笑う。
「逃げて正解」
その言葉が、直人には救いだった。
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時計を見る。
まだ早い。
しかし、家の中は静かになった。
静かになると、直人の“仕事脳”が戻ってくる。
そして、戻ってきた瞬間に、別の怖さも一緒に戻る。
ダンジョン。
PCを開けない時間は、意外と長かった。
その間に何が起きているか、直人は想像できる。
想像できるから、開けたくない。
妻が言う。
「見ないほうがいいんじゃない?」
直人は苦笑した。妻はダンジョンの件は知らない。
仕事の事と思って聞いている。
「見ないと、もっと酷くなるタイプのやつなんだよ」
「そうなのね」
直人は恐る恐る、PCを開いた。
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まず現実が殴ってくる。
未読のメールが溜まっていた。
件名だけで胃が痛くなる。
【至急】顧客からの追加要望(回答期限:本日中)
【重要】再発防止の提出フォーマット(経営層レビュー要)
【対応漏れ】一次回答への追記依頼(営業)
直人は眉間を押さえる。
「……捨て置いたの、ちゃんと刺してくるな」
直人は息を吸い、まず一通だけ返した。
“今夜できること”だけに切り分け、期限を握り直す。
すべてに答えるな。火の粉を止めろ。
返信を打ち終えたところで、直人は一度だけ手を止めた。
最悪の予感が、背中に貼り付いている。
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ダンジョン側の画面を、立ち上げ、最大化する。
ミリアがどこか愉快そうに言った。
「現実もダンジョンも、“放置耐性”ゼロですね♡」
「褒めるところじゃない」
ログが、赤い。
赤が多すぎて、血の海みたいだ。
[重大] フロアボス領域:侵入者進入
[対応] リザードマン:迎撃(自動)
[制約] 撃破禁止:順守
――ここまでは、想定内だった。
問題は、その次。
[重大] ミノタウロス:交戦開始
[結果] ミノタウロス:撃破
[結果] 扉:解放
[警告] 外部接続判定:成立
直人は、言葉が出なかった。
椅子の上で、背筋だけが伸びる。
「……ミノタウロス、撃破?」
ミリアは、悪びれない。
極上の笑顔で頷いた。
「はい♡ 直人さまが“放置”したので、現場が頑張りました♡」
「頑張る方向が違う!」
「侵入者が頑張ったんです♡」
「もっと違う!」
ダンジョンのログは、赤い。赤が多すぎて、もはや赤字決算の色だった。
ミリアが、管理画面の隅に新しいタブを増やしていた。
タイトルは――
【障害報告書(INCIDENT)】
直人は目を細める。嫌な予感が確信に変わる。
「……誰が、こんな報告書フォーマットにした」
ミリアが極上の笑顔で言った。
「直人さまが“仕事で見慣れてる形”が、安心かと思いまして♡」
「最悪の気遣いだな」
画面には、淡々と地獄が整形されて並んでいた。
【INC-008】フロアボス(ミノタウロス)撃破に伴う扉の解放
発生日/時刻:本日 19:42(管理者不在時間帯)
重要度:S(“現実側”影響の可能性あり)
ステータス:扉(門)開放
担当:管理者(佐倉直人)※不在
管理者:胃が痛い
概要:
フロアボス領域にて侵入者(勇者パーティ)がミノタウロスを撃破。
これにより、次段扉が解放され、外部接続判定が成立。
「直人さま、報告書の書き方は完璧です♡」
「“胃が痛い”を報告書に入れるな!」
(ここでSかよ…)
暫定対応(提案)
扉前に“暗号申請ゲート(簡易)”を設置し、通行を事実上阻害
侵入者に対し、“推奨ルート”を扉から遠ざける(遠回り化)
直人は額を押さえた。
「……暫定対応が嫌がらせなの、うちの会社より終わってる」
ミリアが爽やかに言った。
「会社の方は嫌がらせじゃないんですか♡」
「そこは黙ってろ」
外部接続判定(重要)
画面の端に、別の項目が赤く点滅していた。
【外部接続判定:成立】
接続先:現実側(位置情報)
場所:幼稚園(施設名:××幼稚園)
直人の血の気が引く。
笑いが、冷える音に変わる。
「……やめろ!
そこはひなの…」
ミリアは、いつも通りの笑顔で言った。
「だって、扉が開いちゃいましたから♡」
直人は声を落とす。家族が寝ている。怒鳴れない。
「……家族に触るな」
ミリアが
「触れるのは、直人さまの“世界”です♡」
「言葉遊びで誤魔化すな」
直人は報告書タブを閉じたかった。
でも閉じると、現実も異界も“なかったこと”になりそうで、閉じられなかった。
直人は、気が遠くなるのを感じた。
――ピロン。
PCではなく、直人のスマホが鳴った。
幼稚園からの見慣れた連絡ではない。
見慣れない、しかし妙に“丁寧な”通知。
【お知らせ】明日、園内で“安全確認”を実施します
担当:ミリア
直人の指が止まる。
背中が冷える。
ミリアは、画面の中で、にっこり手を振った。
「明日、会えますね♡」
直人は低い声で言った。
「……やめろ。あそこは、現実だ」
ミリアは、楽しそうに言った。
「現実の定義、明日更新します♡」
直人は、眠っている娘の近くに行き寝顔を一度だけ見た。
そしてPCの画面に戻り、声にならない声で呟いた。
「……俺のせいで、扉が開いた」
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朝には、現実が正しくて、異界が間違っているはずだった。
直人は昨夜のログを思い出すたびに、胃の奥がきしむ。
ミノタウロス撃破。扉解放。外部接続判定。
場所:幼稚園。
眠っている娘の顔を見て、直人は一度だけ思った。
――これは夢だ。
仕事のストレスが変な比喩を作っているだけだ。
しかし、朝食時になっても通知は消えなかった。
ひなは熱が少し下がり、頬の赤みも引いていた。
「ようちえんいける?」と妻が聞く。
「いける」とひなが答える。
その声がまだ少し細い。
直人は言った。
「今日、俺が送るよ」
妻が不思議そうに眉を上げた。
「在宅でしょ。会議は?」
「午前は調整した。……昨日の分、取り返さないと」
嘘ではない。仕事の会議は調整した。
ただし、本当の理由は別にある。
幼稚園を、自分の目で見ないといけない。
妻はダンジョンを知らない。
だから直人は“父親の言い訳”だけを出す。
「心配だから」
それだけで通る。
通ってしまうのが、現実の怖さでもある。
〇 幼稚園の入口
幼稚園の門の前は、いつもと変わらない。
出勤前の親たち、先生の声、子どもの靴の音。
変わらない。
変わらないはずなのに、直人の視線だけが変に冴えている。
ひなが小さな手で直人の指を握る。
「パパ、きょうもくる?」
「……今日はいけない。仕事がある」
「ふーん」
納得していない返事だ。だが、歩く。
門のところで、先生がにこやかに迎えた。
いつもの担任――の隣に、もう一人。
その人は、そこに“ずっと前からいた”みたいに立っていた。
白いエプロン。名札。柔らかい笑顔。
不自然なほど整った所作。
直人の脳が、勝手に結論を出す。
(新任の先生だ)
(よくある)
(気にするほどのことじゃない)
――その思考が、ぬるりと滑る。
“納得”が早すぎる。
彼女が言った。
「おはようございます。佐倉ひなちゃんですね♡」
声が、記憶の奥を撫でる。
直人の背中が冷たくなる。
名札には、こう書いてあった。
「ミリア(補助)」
直人の脳がまた勝手に処理する。
(海外出身の先生もいる)
(ミリアは名前としてあり得る)
(偶然だ)
偶然の割に、笑顔が“昨日の画面”と同じだ。
ミリア先生は、ひなの目線にしゃがんだ。
「ひなちゃん、きょうはだいじょうぶ?」
ひなは小さく頷く。
「うん」
「えらい♡ じゃあ、きょうはむりしないで、ゆっくりね」
そのやり取りが、あまりに自然で。
周囲の先生たちも親たちも、誰も違和感を示さない。
直人だけが、遅れて気づく。
――違和感を感じる“回路”が、鈍っている。
ミリア先生が立ち上がり、直人に向けて微笑む。
「お父さまも、ご安心ください♡」
直人は反射で答えそうになる。
(ありがとうございます)
口が動きかけて、止めた。
謝罪や礼を言うと、何かが増える世界を知ってしまった。
代わりに、固い声で言う。
「……新任ですか」
ミリア先生は首を傾げる。
「え? ずっといましたよ♡」
その瞬間、直人の脳が「そうだったかもしれない」と思いかける。
――危ない。
直人は視線をずらし、園舎の端を見る。
“候補”と表示されていた場所だ。
そこに、あった。
園庭の隅、物置の裏。
誰も近づかない、遊具の死角。
空気が薄い膜みたいに揺れている。
まるで、見えないビニールカーテン。
直人は息を止めた。
見えてしまう。
見えるということは、ここが“接続先”だ。
ミリア先生が、優しい声で言う。
「お父さま、目が疲れてます? 無理なさらないで♡」
直人は低く返す。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、ここで騒いだら終わる。
ひなが、手を振る。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
直人は娘を見送りながら、心の中でだけ言った。
(ごめん。今日は“仕事”じゃない)
〇 魅了は、違和感を消す
門から少し離れたところで、直人は立ち止まった。
帰るべきだ。仕事もある。妻にも説明がつかない。
なのに足が動かない。
“あの先生”が、そこにいることが当たり前みたいに思えてしまう。
それが怖い。
直人はポケットの中でスマホを握りしめた。
昨夜のログ。障害報告書。扉。位置情報。
人間の脳は、都合よく現実を整形する。
「平常化バイアス」というやつだ。
“面倒な事実”を避けるために。
いま直人の脳は、その機能を全力で使っている。
ミリア先生を、ただの先生として受け入れようとしている。
――魅了。
直人は、言葉で自分を殴る。
(違う。あれはミリアだ)
(昨日画面の中にいた)
(扉が開いた)
(ここが接続先だ)
(いま俺は、騙されている)
言葉にすると、少しだけ霧が晴れる。
思考が“自分のもの”に戻ってくる。
同時に、耳の奥でミリアの声がする気がした。
「直人さま、定義して下さい♡」
直人は唇を噛む。
定義なんて、いまはしたくない。
定義したら、何かが加速する。
でも、やるしかない。
〇 結界と、ミュート
直人は園の外から、もう一度だけ物置裏を見た。
揺らぎの前に、薄い光の筋が何本も走っている。
結界。
理屈は分からない。
でも分かる。あれは“安全柵”の類だ。
そして“自分だけ”が、それを認識できている。
直人は、スマホで仕事用の通話アプリを開いた。
午前の会議はキャンセルしてある。
しかし“会議枠”そのものは残しておいた。
理由は一つ。
ミュートが必要だからだ。
ワイヤレスイヤホンを耳に入れる。
誰もいない通話に接続する。
表示が出る。
「通話中」
直人は、ひとつ息を吸って、ミュートを押した。
ミュート:ON
世界が、わずかに軋んだ。
物置裏の揺らぎが、濃くなる。
結界の光の筋が、目に見える“格子”へ変わっていく。
「……来いってことかよ」
背後から、声。
「お待ちしてました♡」
振り向くと、”ミリア先生”がそこにいた。
さっきまで門のところにいたはずなのに。
直人の脳が「先生は園内を歩くものだ」と処理しようとする。
しかし今日は、その処理に乗らない。
直人は低い声で言った。
「……幼稚園の先生の移動速度じゃない」
ミリア先生は笑う。
「直人さまがミュートにしたので♡」
直人は言う。
「つまり、ミュートで加速は本当なんだな」
「はい♡ 現実で黙るほど、こちらでは進めます♡」
直人は、物置裏へ近づいた。
おかしい。自分が歩いている間、周囲が止まっているような感覚。
これが”ミュートの世界”なのか。
結界の格子が、彼の前で“扉”みたいに割れる。
ミリア先生が、当たり前みたいに手を差し出した。
「行きましょう♡ 片付けないと、もっと大変になります♡」
直人は苦々しく笑う。
「……“片付け”って言い方やめろ。仕事みたいじゃないか」
ミリア先生は極上の笑顔。
「お仕事です♡ 魔王さま♡」
直人は、最後に園舎を見た。
娘がいる。
現実だ。
この場所は、現実だ。
「……触るなよ」
ミリア先生は、いっそ優しく頷いた。
「触りません♡」
その言い方が、いちばん信用できなかった。
(つづく)
あろうことか「ミリア先生」が現れた。
そして、直人は導かれるままに、ひなの身近に迫る不安を排除すべく、いざダンジョンへ。直人の混乱は続く。