目が覚めると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。
「……は? どこだここ」
真っ先に頭によぎるのは誘拐の二文字。
だが、手足に拘束されたような感触はない。
それどころか、寝具の肌触りは驚くほど上質だった。
代わりに感じたのは、自分の肉体に対する奇妙な違和感。
視界の高さ、腕の長さ、肌の質感――そのすべてが、昨日までの俺の記憶と噛み合わない。
寝起き特有のひどい倦怠感を無理やりねじ伏せ、ふらつく足取りで部屋の中を彷徨う。
ふと、壁に備え付けられた大きな鏡が視界に入った。
そこに映っていたのは、俺の知らない見知らぬ男の姿だった。
「誰だよ、こいつ……」
昨日はいつも通りに風呂に入り、夕飯を食べ、そのまま眠りについた。ただそれだけだ。
「どうなってんだ…?」
俺が目を見開けば、鏡の中の男も同様に目を見開く。
俺が手で自分の頬に触れると、鏡の中の男も自分の顔に指を添えた。
意味がわからなかった。
見知らぬ部屋、鏡に映る見知らぬ顔。
俺以外の人間はこの部屋にいる雰囲気はない。
(ああ、なんだ、夢か……)
そう自分に言い聞かせ、強制終了を試みるようにベッドへ潜り込んだ。
正直、眠気なんて微塵も残っていない。
だが、今はそうするしかなかった。
「早く目覚めろ、俺の体……」
……そもそも、夢の中で眠ることなんてできるのか?
そんな矛盾した思考を抱えながらも無理やり目を閉じていると、やがて意識は、微睡みの底へと沈んでいった。
「……なんで、醒めないんだ」
一体どういうことだ。
二度寝、三度寝、何度繰り返しても、目の前に広がるのは相変わらず見知らぬ天井だった。
――もしかしてここ、夢じゃないのか?
流石にこれだけ寝て起きてを繰り返せば、嫌でも状況に慣らされてくる。
最初の頃より心は落ち着いていた。
(夢じゃないなら……ここはどこで、こいつは誰なんだ)
鏡の中に佇む、見知らぬ「自分」の瞳をじっと見つめ、声に出さず問いかける。
当然、鏡の中の男が答えてくれるはずもない。
先ほど、意を決して玄関の扉を開けてみた時のことを思い出す。
隙間から覗いた外の世界には、案の定、見覚えのない住宅街がどこまでも続いていた。
空の色も、漂う空気の匂いも同じなのに、決定的に自分の知る場所ではないという確信。
「……まずは、部屋の中を調べるか」
ぽつりとこぼれた独白が、静まり返った部屋に虚しく響く。
名前も、立場も、ここがどこかもわからない。
そんな状態で、未知の外の世界へ飛び出す勇気は今の俺にはなかった。
まずは情報の確保が先決だ。
デスクの上に放置されていたスマホとパソコンを起動してみたが、案の定、そこに残されていたのは俺の知らないデータばかり。
そりゃそうか。
他人の日記帳を覗き見るような後ろめたさを覚えつつも、なりふり構わず指を動かす。
手探りでネットの海を泳ぎ、情報を集めていった。
そうして浮き彫りになったのは、元の世界と酷似していながら、決定的な部分が違う社会の姿だった。
「……どういうことだ、これ」
検索結果に並ぶのは、目を疑うような単語の羅列。
女性が積極的にアプローチし、男性は受動的。
外で稼いで家庭を支えるのは女性で、家事育児を担うのは男性の仕事――。
元の世界とは、価値観が根底から入れ替わっている。
おまけに、男女の人口比率は約一対十。
にわかには信じがたい数字だったが、カーテンの隙間から通りを眺めただけでも、明らかに女性の方が多い。
視界に入るのは、闊歩する女、女、女。
稀に男性がいる感じ。
どうなってんだこれ。
それに、この身体――。
部屋の中をひっくり返し、ようやく見つけた学生証。
そこに記されていた名前は「湊 雪音」。十八歳の大学生。
カードに貼られた証明写真は、鏡で見た通り、整った顔立ちをしていた。
詳しい人物像や交友関係までは、今のところ不明だ。
ただ、部屋にあったパソコンでこの世界の情勢を調べていた際、検索履歴に「自殺」や「安楽死」といった、不穏なワードが並んでいるのを見つけた。
元の人格がどこへ消えたのかは知らないが、嫌な想像しか湧いてこない。
元の世界への戻り方もわからず、「そのうち勝手に元に戻るだろ」なんて淡い期待を抱きながら今日で約一ヶ月。
「……全く戻らねえな」
前主の貯金をなんとか引き出し、それを切り崩してデリバリーで食いつなぐ毎日。
精神は元に戻るどころか、少しずつこの体に馴染み始めていた。
朝、目覚めた時に見上げる天井を「見知らぬ」ではなく「見慣れた」と感じ始めている自分がいた。
「いつになったら戻れるんだよ……」
独り言をこぼしながら、重い腰を上げてパソコンの電源を入れる。
当初は、この体の知人に遭遇して面倒なことになるのを避けるため、一歩も外に出ずに過ごしていた。
だが、流石に一ヶ月も何もしない日々が続くと、退屈そのものが鋭い苦痛になってくる。
最近では、ネットの海を回遊して時間を潰すことだけが日課だ。
「戻るなら早く戻してほしいんですけど……」
これは夢のようなもので、数日もすれば元の日常へ帰れる。
勝手にそう高を括っていた。
だが、事態が好転する気配は、一向にない。
『おはよ』
『おはよ、ってもう夕方ですけど……』
元の世界に戻る気配が全くないので、暇つぶしに始めたネットゲームで、ついに友人までできてしまった。
貞操観念が逆転しているせいか、ネットゲームもアニメも、登場人物の大半が野郎ばかりだ。
初めこそ元の世界のゲームが恋しい、と思っていたのだが、いざ遊んでみると、男ばかりの熱苦しいファンタジーもこれはこれで中々面白い。
『こんな時間に起きてくるなんて、不健康すぎません?』
『自分の体じゃないからいいんだよ』
『自分の体じゃなかったら、誰の体なんですか……』
湊雪音ってやつの体だよ。
突然別人の身体に、精神だけ入ってしまった――なんてオカルトじみた真実を打ち明けたところで、通報されるか呆れられるのがオチだ。
俺は適当な嘘を並べたチャットを返しつつ、ゲームを進める。
やはり暇つぶしにネットは最適だ。
部屋から一歩も出ずとも、時間を無限に溶かしてくれるのだから。
『てか、聞いてくださいよ! 今日学校にね、男の子の転校生が来たんですよ!』
唐突に画面が激しく明滅した。相手が興奮してスタンプを連打しているらしい。
『へー、そうなんだ』
『羨ましいですか? 羨ましいですよね! 男の子ですよ? 転校生の! 男・の・子!』
『おー、すごいなー。おめでとう(棒)』
ゲームのキャラクターを動かしながら、心底どうでもいい適当に相槌を打つ。
おそらく元の世界でいうところの「美少女が転校してきた」とか「可愛い子と目が合った」くらいのイベントなのだろうが、俺には違和感しかない。
転校生が男。……だから何だというのか。
男子最高だよな!とでも返せば満足なのか?俺にそっちの趣味はない。
俺が欲しいのは潤いであって、筋肉やむさ苦しさではないのだ。
『ねー、反応薄くないですか? 男の子の転校生ですよ? アニメみたいでちょっとテンション上がりません?』
『俺はどっちかっていうと、女の転校生の方がテンション上がるな』
『女の子の転校生なんて、どこに需要があるんですか……』
女の転校生なんて需要しかないだろ、と思うのだが、この世界に住人にとってその需要は皆無らしい。解せぬ。
『男の転校生でテンション上がるなら、俺はどうなんだよ。男だぞ一応』
『はいはい。そうですね、わかってますよ。男の子(笑)ですよねー』
……。
このチャット相手の女(?)には、知り合ってから何度か「俺は男だ」と明かしているのだが、全く信じてもらえない。
どうやらこの世界では、男がネットゲームを趣味にしていること自体が珍しいらしい。
そのせいか、俺はただの「男のフリをしてチヤホヤされたい、こじらせ女子」……いわゆるネカマの逆、ネナベだと完全に認定されている節があった。
別にどう思われてもいいのだが、画面の向こうで生温かい目で見られていると思うと、少し腹が立つ。
『そういう時期、ありますよね。ネットで男って名乗れば、お姉様方が寄ってきてお小遣いくれたりしますもんね。わかります、私もやってた時期ありますし……』
殴ってやろうか、コイツ。
チャット越しに、可哀想なものを見るような目を感じる。
というか、お前、男のフリをして貢がせていた時期があるのかよ。
何の役にも立たない情報を頭の隅に放り込み、カチカチとマウスを操作しながら返信する。
『別に信じても信じなくてもどっちでもいいが、貢がせる趣味はない』
『強がりですねー。そんなに言うなら、ボイスチャットで声とか聴かせてくれたら信じてあげますよ?』
『それはめんどい。マイク持ってないし』
『そうですよねー。女の子が男の声を出すのは、ボイチェン使っても限界ありますもんね。私にはぜーんぶわかってますよ、ヌフフ』
『その「私、全てお見通しです」ムーブをやめろ』
そんな不毛なやり取りをしながら、今日も今日とて体は元に戻らず、一日が過ぎていく。
――それから、さらに一ヶ月が経った。
相変わらず、体はそのままだ。
もしかしたら明日には戻っているかも、なんて淡い期待を延々と繰り返した結果、かなりの時間が溶けてしまった。
このまま腐っていくわけにもいかない。
もういい加減、諦めてこの体で生きていくことを決心すべきかもしれない。
俺はスマホを取り出し、花梨へメッセージを送る。
『お前もそう思うだろ?』
『いや、いきなり「そう思うだろ?」とか言われても、何のことだかさっぱりなんですけど……エスパーじゃないんですよ、私』
花梨は、例のネットゲームで知り合ったあの「ヌフフ」だ。
最近、「花梨って呼んでほしい」と言われたのでそう呼んでいる。本名なのだろうか。
ゲーム内だけだと不便だからと連絡先を交換し、今では日常的に毒を吐き合う仲になっていた。
ちなみに、通話はいまだにしていない。誘われると断りたくなるんだよな、こういうの…。
『で、何の話ですか?』
『いい加減、俺もこの世界で生きてく決心しないとな、と思って』
『今度は厨二病ですか? 引きこもり女子が中二病まで患ったら、今度こそ貴方は終わりですよ』
『だから、俺は男だっての』
『はいはい。その素敵な妄想は、新聞紙の隅っこにでも書いておいてください。あ、出来たら見せてくださいね』
新聞紙に書くスペースなんて、広告で埋まっててほぼないだろ。
相変わらず信じてないな、と苦笑しながらスマホをポケットに突っ込み、冷蔵庫を開けて朝飯の準備をする。
今の時代、部屋から一歩も出ずとも食材から日用品までデリバリーで完結する。
文明の利器の偉大さを改めて実感するが、同時にこの利便性が俺をこの部屋に繋ぎ止めていたことも事実だ。
(……大学だけでも、行ってみるべきか)
朝食を口に運びながら、そんなことを考える。
できるだけ外には出たくなかったが、この世界に来て二ヶ月と少し。
そろそろ、そうも言っていられなくなってきた。
幸い、現状は金銭面に困っていない。
学生の分際で、なんでこんなに貯金があるんだ?と疑問に思って調べたところ、どうやら「男性支援金」なる謎の制度があるらしい。
男性の人口が極端に少ないため、国を挙げて優遇されているのだろう。
毎月、働かずともそれなりの金額が口座に振り込まれていた。
前の持ち主である雪音も、ちゃっかり申請していたようだ。
「なら、ずっと引きこもっていられるじゃん」――なんて甘っちょろい考えも浮かんだが、どうやらこの恩恵が受けられるのは在学中だけらしい。
世の中そんなに甘くはないらしい。
支援が終われば、いずれは自分の力で稼がなくてはならない。となれば、就職に有利な「大卒」の肩書きを捨てる手はないだろう。
前の世界の価値観が染み付いている俺にとって、見知らぬ世界で孤立無援の無職になるのは結構恐怖だ。
モシャモシャと朝飯を咀嚼しながら学生証を再確認する。
大学はここから電車で四、五駅といったところか。
二ヶ月も無断欠席している自分が、今さら大学でどういう扱いになっているのかは不明だ。
だが、このまま何もしなければ詰むのは目に見えている。
俺は空になった食器を食洗機に放り込むと、外出の準備を整え、意を決して大学へと向かった。
「うおぉぉ……光が、光が浄化しにくる……」
この世界に来て初めての登校は、眩しすぎるほどに眩しかった。
二ヶ月間もカーテンを閉め切って引きこもっていた体にとってには、昼間の太陽光は毒に近い。
光に焼かれる吸血鬼のような気分で、俺は大学へと向かった。
電車を乗り継ぎ、案外あっさりと辿り着いた大学の校門を抜けると、まずは自分の立場を確認するため、事務棟の窓口へ向う。
恐る恐る窓口の職員――二十代後半ほどの女性――に事情を尋ねてみたところ、なんと「補習さえ受ければ欠席分はすべて補填する」とのこと。
……緩い。緩すぎるぞ、この大学。
……対応した職員が、俺の顔を見るなり、過保護なほどに優しく微笑んできたのはどこか気味が悪かったが。
元の世界の大学なら、二ヶ月も無断欠席すれば問答無用で単位を没収されていたはずだ。
バンザイ、異世界。
男性が少ない世界というのは、これほどまでにイージーモードなのか。
これなら、案外すんなりと大学生活がリスタートできそうだ。
受けている講義のすべてが前任者のチョイスだという点に一抹の不安を覚えるが、まあ、なんとかなるだろう。……いや、なんとかなってくれないと困る。
「それにしてもコイツ、なんで教材を一つも揃えてないんだよ」
部屋をひっくり返してもそれらしい本の一冊も見つからず、結局俺は、購買で教科書やノートを一から買い込む羽目になった。
引き出しから持ってきたカバンの中身は、ペンケース程度の状態。
最初から講義に出る気なんてさらさらなかったらしい。ふざけるな、前任者。
そんな、この身体の元主に悪態をついていた時だった。
「ねぇねぇ、お兄さーん。どこ行くのー?」
不意に背後から、馴れ馴れしい声に呼び止められた。
振り返ると、そこには派手な金髪をなびかせたギャルが立っていた。
目に毒なほど短いスカートに、わざとらしく着崩したシャツ。
……なんだ? 逆ナンか? いや、この世界においてはこれが標準的なナンパというやつか。
元の世界なら、これほどの美人に声をかけられれば喜んだかもしれない。
だが、記憶喪失同然で余裕のない今の俺にとっては、「面倒そうな奴に捕まった」という感想しか湧いてこなかった。
「誰?」
この体の知り合いかとも思ったが、なんか見てる感じ違うっぽい。
「あたし? あたしは高岡紗羅!よろしくー!」
「ああ、高岡さん。よろしく。……じゃあな」
「ちょ、ちょちょちょっと待って!?」
挨拶もそこそこに横をすり抜けようとすると、彼女は慌てて俺の前に回り込み、通せんぼをするように両手を広げた。
「なんだよ」
「あー……その、ほら。あたしとお話、とか? してみたくないかなー、なんて……えへ」
仕方なく足を止め、まっすぐ目線を合わせて用件を促すと、彼女は金髪をいじりながら視線を泳がせた。
誘い慣れているのかと思いきや、肝心なところで言葉が詰まっている。
会話下手か。
あいにく、今の俺には講義を優先したい理由がある。
さっさと退いてほしかった。
「してみたくない」
一蹴して、今度こそ再度横をすり抜ける。
「えー、冷たーい! ねぇねぇ、これから講義でしょ? どの先生の授業? あたしも一緒に行っちゃおうかなー」
悪びれる様子もなく隣にぴったり並んで距離を詰めてくる彼女。正直、鬱陶しいことこの上ない。
横でぺちゃくちゃと喋り続ける彼女を徹底的に無視し、早足でようやく目的の講義室に到着した。
俺は逃げ込むように扉の取っ手に手をかける。
「無視するなー!」
背後に響く抗議の声を、一切振り返ることなく扉を閉めることでシャットアウトした。