「お金ここに置いておくから、夜ご飯は適当に食べてね」
母はそう言い、手慣れた手つきで出かける準備を整える。
鏡に向かって引かれる口紅。
その色は、子供の私から見ても不釣り合いなほど鮮やかだった。
「お母さん、どこ行くの?」
「ん?……お仕事よ」
嘘だ。
一度だけ後をつけたことがあるから、私は知っている。
母が向かう先は職場ではない。
お金を払って、若い男の人と話をする場所。
当時の私には、なぜ母が自分を置いてまで、大金を払って他人の男に会いに行くのか理解できなかった。
けど今ならわかる。
母は、金でしか買えない偽物の愛情でしか、心の穴を埋められなかったのだ。
「じゃ、行ってくるわね。いい子にしてるのよ」
一人残された部屋で、私は日記をつける。
それが当時の私の、唯一の救いだった。
「――っ、いってえな! 紗羅ァ! てめェなにすんだよ!」
小学校に通っていたあの日、私は初めて男子と喧嘩をした。
クラスで人気の男子が、私の大事な日記帳を隠したからだ。
「俺にこんなことしていいと思ってんのかよ!」
「さいてー」
「紗羅、謝りなさいよ!」
「そうよ! 何も叩かなくてもいいじゃない!」
周囲の女子たちから、一斉に非難の声が降り注ぐ。
だが、そんな雑音を気にする余裕はなかった。
彼は、私の救いを奪ったのだ。
「ただちょっとイタズラしただけだろうが!」
今思えば、彼は単に私の気を引きたかっただけなのかもしれない。
なんて……それはちょっと自意識過剰かな?
子供の悪戯。
その一言で流せればよかったのだが、当時の私は大人になどなれず、大切なものを取られた怒りに支配されていた。
「もし、捨ててたりしたら……その程度じゃ済まさないから」
「……ッ、ほらよ!」
私の剣幕に怯んだのか、彼はカバンから日記帳を引っ張り出し、乱暴に放り投げてきた。
床に落ちた日記帳は、以前の面影を失うほど薄汚れていた。
「っけ! つまんねー女! ブース! いこうぜみんな!」
「ほんと陰険」「本ごときでキレてんじゃねえよ」「きもい」
捨て台詞を吐きながら教室を出ていく男子と、それに追従して媚を売る女子たち。
崇められることに慣れきった男子も、その機嫌を伺うだけの女子も、私の目にはひどく醜い生き物に映った。
なぜ、母は私を置いて男に会いに行くんだろう。
なぜ、女子は私を敵のように扱うんだろう。
なぜ、男子は私を傷つけるんだろう。
誰も教えてはくれなかった。
中学生になった。
中学校になったら何か変わるかな、なんて少し期待していたが全くそんな事はなかった。
自分の周りには、奴隷のように女子に命令する男子と、その男子を奪い合ってギスギスする女子ばかり。
男子を嫌悪しながらも、私だって一人の女である。
当然、成長と共に異性にも興味が出たし、そういう欲求もでてきた。
けれど、周りにいるのは女子を「モノ」としてしか扱わない連中ばかり。
愛情。
親にすら注がれたことのないそれを、私なんかが望むなんて笑える。
そんな私を置き去りにして、母の男遊びはさらに加速していった。
高校生になった。
男子を巡る女子たちの蹴落とし合いは、さらに過激で陰湿なものへと変わっていた。
周りから舐められないよう、私は制服を着崩し、口調もギャル風に変えた。
いわゆる「ギャルファッション」というやつだ。
大人しく縮こまっているより、着飾った方が標的にされにくいだろう――そんな安直な理由で始めたが、意外にも私に馴染んだ。
時折、男子から言い寄られることもあった。
けれど、彼らは小学生の頃から何も変わっていない。
相変わらず自分勝手で、女子を自分の欲望を満たす道具としか思っていない。
歳を重ねるごとに増長していく彼ら。
付き合うなんて絶対無理だ。
母は、最低限の生活費だけ置くと、ついに家へ帰ってこなくなった。
静まり返った部屋で、私は一人、偽物の自分を鏡に映し続けるしかなかった。
大学生になった。
この頃にはもう、周囲との付き合い方にも慣れていた。
基本は男子に近づかず、女子たちと上辺だけの会話を交わして仲良くする。
他の女子から嫉妬向けられたり、陰口や嫌がらせの標的にされる可能性はできるだけ排除しておきたかった。
友達――と呼べるか怪しい連中との遊びに付き合っていれば、大学内の男子の情報は嫌でも回ってくる。
「あの人は狙い目」「あの人は暴力的」……そんな空虚な会話に加わっているうちに、いつの間にか大学内の男子の事にも詳しくなった。
別に、男の人に興味がないわけではなかった。
むしろ、心のどこかでは求めていたかも。
けれど、どこを見渡しても「優しい男子」なんて、一人もいなかった。
この歪んだ世界にいるのは、希少価値に胡坐をかいた傲慢な個体か、それを盲信して傅く女子ばかり。
私が求めるような、対等で、穏やかで、嘘のない愛情をくれる人間なんて、この空の下には存在しない。
そう、思っていた。
その日、私はグループの空っぽな会話に疲れ、逃げ出すように校内を歩いていた。
すると、前方にふと、見慣れない男子の姿が目に入った。
極力男子を避けて生きてきた私は、自分から声をかけることなんてまずない。
なのに、その男子からだけは、どうしても目が離せなかった。
自分でも理由はわからない。
ただ、彼は周囲の空気に馴染むことなく、まるでこの世界そのものから切り離されたような、不思議な感じがあった。
気づけば、私は自分の決めたルールを破り、彼に向かって駆け出していた。
「ねぇねぇ、お兄さーん。どこ行くのー?」
背後からの私の声に、彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「誰?」
その表情は、不快感や尊大さとは無縁の、純粋な戸惑いに満ちていた。
男子なら、見知らぬ女子に声をかけられれば、鼻にかけるような笑みを浮かべるか、露骨に面倒そうな顔をするものだ。
なのに、彼はそのどちらでもなかった。
「あたし? あたしは高岡紗羅!よろしくー!」
馬鹿にするような態度も、値踏みするような卑しい視線もない。
「ああ、高岡さん。よろしく。……じゃあな」
……まあ、ちょっと面倒くさそうにはされたけど。
でもそれは、私を拒絶しているんじゃなく、ただ本当に興味がないというだけ。
そのあまりにも自然な反応が、私の胸を激しく揺さぶった。
私は焦燥感に駆られるまま、彼の前に回り込む。
「あー……その、ほら。あたしとお話、とか? してみたくないかなー、なんて……えへ」
慣れないことをして、我ながら情けない言葉が口を突いた。
会話下手くそか、私。
「してみたくない」
バッサリだ。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
まあでも初対面の女子からお話したいかと言われたら、普通はそうなる。
今まで見てきた男子たちの、女子を道具としか思っていないような目。
あんな目を向けられるのが怖くて避けてきたけれど、彼なら大丈夫かもしれない。
そんな予感に背中を押され、私はさらに踏み込んだ。
「えー、冷たーい! ねぇねぇ、これから講義でしょ? どの先生の授業? あたしも一緒に行っちゃおうかなー」
口から出るのは、長年この世界で培った軽い言葉。
自分でも強引すぎると分かっていた。
でも、自分の中の不思議な感覚を確かめたくて、この不思議な感覚を確かめたい。
その一心で、となりで必死に話しかけ続けた。
正直、緊張で心臓が破裂しそうだった。
男子の隣でこんなに長く歩いた経験なんて、一度もなかったから。
彼から漂う微かな清潔な匂いが鼻先をかすめる。
それは、驚くほど穏やかで、落ち着く匂いだった。
けれど、私の切実な抵抗も虚しく。
彼は無情にも、講義室の扉の向こうへと消えていった。
パタン、と。
閉ざされた扉を前に、私は一人、立ち尽くしていた。