結局、あの二人は教授からの厳しいお叱りを受け、半ば強制的に講義室から叩き出されていた。
「何やってんだ、あいつら…」
あれだけドタバタと騒がしくやり合っていれば、他の学生からすれば迷惑以外の何物でもない。
渋々といった表情で席を立った二人。
教室を出ていく直前、紗羅が室内の全員に向けて鋭い視線を飛ばしていたのが印象的だった。
……怖いよ、君。
その後、快適になった静かな教室で講義を終える。
次の講義まで1時間半程度。
どこかで羽でも伸ばそうか、なんて考えながらノートを片付け、教室の外へ出ると――。
(……なにしてるんだ?)
そこには、ニーナがポツンと一人、出入り口の壁際に地蔵のように座り込んでいた。
「……(ペコリ)」
俺の気配を感じるや否や、スッと無音で立ち上がり、丁寧な所作で頭を下げてくる。
「もしかして……ここでずっと待ってたのか?」
わざわざ俺を待ってたのだろうか。
追い出されたからには、てっきり二人でテラスかどこかでカフェオレでも啜っているものだと思っていた。
だが、彼女は無言でコクリと深く頷く。
まさか、廊下で一時間近く出待ちしてるなんて予想外すぎる。
彼女は自分のスマホを小さな手でぽてぽてといじり、俺に画面を見せてきた。
『朝のお礼がしたかった』
御礼――ああ、朝の電車で支えてたあのことか。
あんなもの、別に気にしなくてもいいのに。
「そんなこ――」
言いかけて、彼女には日本語が通じなかったなと思い出す。
俺はポケットからスマホを取り出し、翻訳した画面を彼女に向けた。
『そんなこと気にしなくてもいいのに、律儀だな』
それを見た彼女は、フルフルと顔を横に振る。
『ダメ。気にする』
気にするらしい。
どうやら、彼女の意志は固い様だ。
俺は苦笑いを浮かべつつ、ふと、ついさっきまで彼女と激しくド突き合っていた相方がいないことに気づき、再度画面を打つ。
『……ところで、高岡はどうした?』
『友達に呼ばれてどこかへ行った』
「ああ、なるほどな」
紗羅は見るからにフレンドリーだし、友達も多そうだ。
『雪音、大学に来たばかりって紗羅から聞いた』
『お礼。校内を案内する』
なるほど。
いつの間にか俺の名前だけでなく、新入生同然だという情報まで紗羅から聞き出していたらしい。
正直、どの棟が何なのかいまいち把握できていなかったので、案内してくれるなら願ってもない申し出だ。
『なら、頼もうかな、ありがとう』
俺がそう答えた瞬間、ニーナは「任せろ」と言わんばかりに頷き、俺の服の袖をぎゅっと掴んでグイグイと引っ張り始めた。
早速案内してくれるらしい。
グイグイと袖を引き、俺を引っ張って案内に向かうニーナ。
この小さな体に引かれていると、子供に手を引かれる親のような気分になるな。
……子供なんて持ったことはないが。
『まずは食堂から。ご飯は、大事』
確かに飯は大事だ。
だがニーナ、残念ながら食堂は知ってるんだ。
とはいえ、やる気に満ち溢れているニーナの出鼻をくじくのも悪い。
俺は余計な口は挟まず、小さな案内人の後ろを大人しく付いていくことにした。
『ここは学生会館』
『ここは第一研究棟。奥に行くにつれて第二、第三研究棟ってなってる』
『あっちは図書館。』
淡々と、それでいて時折補足を交えながら説明を続けてくれるニーナ。
だが、その表情は一貫して無表情だった。
紗羅とド突き合いをしていた時は、あんなに顔を歪ませていたのに、案内中の彼女はまるで精密な機械のようだ。
案外、一人の時は感情が表に出にくいタイプなのかもしれない。
『それで、こっちは――』
先導するニーナは、キャンパス内でも目立つ。
小柄な背丈のせいで、下手をすれば中学生が迷い込んだと言われても納得してしまいそうな外見だ。
だが、本人は周囲からチラチラと向けられる好奇の視線には慣れっこなのか、一切反応することなく淡々と案内をこなしていく。
『名前がわからない場所が結構あったんだ。助かるよ』
『お礼だから。気にしない』
そう答える彼女の小さな背中は、不思議と頼もしかった。
学内での人望も厚いのか、すれ違う講師たちから親しげに挨拶をされる場面もあり、そのたびに彼女は丁寧に頭を下げていた。……俺よりよっぽど人間ができているな。
(同級生っていうより、頼りになる先輩みたいだ)
そんなことを心の中で呟きながら、大人しく彼女の後を付いていく。
すると、無表情で淡々とスマホの入力を続けていた彼女の指が、ぴたりと止まった。
『どうした?』
翻訳アプリの不具合か、あるいは何か用事でも思い出したのか。
そう尋ねると、彼女は一瞬だけ石像のように固まった後、再び滑らかな動きで指を走らせ始めた。
『こっちは、留学生センター』
なるほど、ここがニーナのホームグラウンドか。
入り口にはニーナと同じく外国人の学生たちがチラホラと出入りしているのが見えた。
せっかくニーナという海外の友人ができたのだ。
これを機に苦手な英語を勉強して、彼女ともっとスムーズに話せるようにするのもいいかもしれない。
なんて思っていた時だ。
ニーナがスマホを手元に戻し、何事かを打ち込んだかと思うと、再提示された画面には――。
『お金持ちの子、結構いるからおすすめ』
「…………」
……何がおすすめなんだ。
まさか逆玉の輿でも狙えと。
俺、そんなにお金にがめつそうな顔してただろうか。
それともこの案内も、この世界における一つの常識なのだろうか。
ふと、顔を上げると、そこには相変わらず無表情のニーナがいる。
だが、その碧い瞳の奥は、こちらの出方をじっと観察している気がした。
「……え、ええっと」
無言でじっと見つめてくるニーナ。
何か返さないと案内してくれてる彼女にも悪い。
『情報、ありがとう』
とりあえず当たり障りのない返信を打ち返してみる。
すると、ニーナは目に見えて肩透かしを食らったような、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
どうやら、俺の反応は彼女の期待した答えではなかったらしい。
『次。こっち』
しばし、何事かを「うーん」と悩み抜いた後、ニーナはおもむろに案内を再開した。
一体なんだったんだ、今の。
その後も、案内を受けては俺が答える、というやり取りを何度か繰り返した。
だが、そのたびにニーナは納得のいかない様子で、どこかむず痒そうな、何とも言えない表情を深めていく。
『次で、最後』
そう言って、ニーナが俺の袖をきゅっと握りしめてきた。
「コッチ、コッチ」
たどたどしい日本語で先導する彼女に引かれ、俺たちは一つの建物へと辿り着いた。
一体何の棟だろうか。
説明を求めるようにニーナへ視線を向けると、彼女はあらかじめ打ち込んでいたらしい画面を俺に突きつけた。
『ここはサークル棟』
なるほど、サークル棟か。
元いた世界でも、体を動かしたり人と関わったりするのは嫌いじゃなかった。
この環境に慣れたら、どこかに加入してみるのもいいかもしれない。
友達――できれば同性のダチでも増えれば万々歳だ。
そんな前向きな展望を抱いていると、彼女がさらにスマホをいじり、補足情報を提示してくる。
その時、彼女の口角がわずかに吊り上がったのを、俺は見逃さなかった。
『近くに室内プールもある。女子を漁りたいなら、ここがベストスポット』
「…………」
液晶に映るあまりに直接的な文字列を見て、俺は言葉を失った。
……どういう意図だ、これ。
俺は困惑のままニーナを見上げる。
すると、そこにはなぜか、一点の曇りもないドヤ顔を浮かべた彼女がいた。
なんで「とっておきの情報だ」と言わんばかりの誇らしげな顔をしてるんだ。
俺、そんなに女子に飢えてる目をしていたか?
アプリの誤訳であってくれという俺の願いも虚しく、彼女の自信満々な視線が突き刺さる。
俺は複雑な気分を押し殺し、自分のスマホを操作して返信を送った。
『気遣い、ありがとうな』
正直、どこまで本気なのか測りかねるが、彼女なりに俺のためを思って教えてくれた(?)のだろう。
ここで無下に突っぱねるのも大人げない気がして、無難な対応を選んだつもりだった。
だが、それを見たニーナは、勝利を確信していたドヤ顔を一変させ、ギリギリと歯噛みせんばかりに悔しそうな顔をし始めた。……なんでだよ。
お礼を言ったのに、なんでそんなに不満そうなんだ。
そして。彼女はスマホを介さず、不意にその小さな唇で呟いた。
「……この、不能野郎」
「…………は?」
一瞬、思考回路が完全にフリーズした。
ニーナの――この小さな留学生の口から出るとは到底思えない単語に固まる。
「……誰が不能だ、コラ」
「あいたっ!」
暴言の意味を理解した瞬間、俺は思わず日本語でツッコミながらニーナの無防備な額にデコピンを見舞った。
あうっ、と短い悲鳴を漏らして、衝撃で顔を上に向かせるニーナ。
そのまま彼女は、赤くなった額を押さえながら、なぜ叩かれたのか理解できないといった様子で、驚愕に染まった瞳で俺を凝視した。
俺は溜息をつき、改めてスマホを操作して画面を彼女に見せる。
『その言葉、あんまり使わない方がいいぞ。あまりいい意味じゃないからな』
一体、誰に吹き込まれたのか。
おそらくニーナは、何かと勘違いしてその言葉を使っているのだろう。
誰だ。この純粋そうな子に変な日本語を教えたのは。
……それにしても、ニーナが固まったままだ。
少し強くやりすぎてしまっただろうか。
『いきなり叩いて悪かったな。痛かったか?』
画面を見せて尋ねると、ニーナはまだ唖然とした表情のままだったが、やがて顔を横にぶんぶんと振った後、顔を林檎のように赤くして、コクコクと激しく頷いた。
よかった。
どうやら許してはくれるようだ。
ふと時計に目をやると、次の講義まであと少しだった。
『時間もちょうどいい。そろそろ講義室に戻るか』
俺がそう提案すると、彼女は俺の裾をぎゅっと掴み直す。
今朝からそうだが、彼女が俺の服の裾を握るという行為に、俺自身も少しずつ慣れてきていた。
まるで、そこが彼女の指定席であるかのように。
(前世の感覚からすれば、完全にはぐれたくない弟か妹のポジションだな……)
そんなことをぼんやりと考えた時、ふとした疑問が頭をよぎった。
そういえば、この身体の「湊雪音」には家族がいるんだろうか。
スマホの電話帳を見ても、それらしい連絡先は見当たらない。
中身が別人になってしまったとはいえ、もし家族がいるのなら、一言くらい「元気にやっている」と連絡を入れるのが筋なのかもしれない。
考え事をしながら歩く俺の、すぐ斜め後ろを付いてくる彼女。
心なしか、彼女が服を引く力は先ほどよりも強まり、出会った時よりも距離が近くなっていた気がした。