リスベル王国の外れには、春になると白詰草で埋め尽くされる丘があった。
村の子どもたちはそこを「風の丘」と呼んでいた。昼間は羊飼いの笛が聞こえ、夕方には空が桃色に染まり、夜になると星が近く見える。小さな村の中で、そこだけが少しだけ世界の果てに近いように思えた。
幼いルカは、その丘が好きだった。
好きだったというより、そこへ行くと胸が落ち着いた。鍛冶屋の息子として、幼い頃から炉の熱と鉄の匂いに囲まれて育ったルカにとって、白詰草の匂いと風の冷たさは、自分をまっさらな人間に戻してくれるものだった。
「遅いぞ、ルカ」
丘の上から声がした。
見上げると、逆光の中にひとりの少年が立っている。年は同じくらいのはずなのに、なぜかいつも少しだけ大人びて見える子だった。
淡い金にも銀にも見える髪。
晴れた朝の空のような瞳。
村の子どもたちとは違う服を着ているわけでもないのに、なぜか風景の中でひときわ澄んで見える。
「また先に行ったな、エリアス!」
「競争だって言ったろ」
「言ってない!」
「言わなくてもわかると思った」
「わかるかよ」
ルカは文句を言いながらも笑っていた。
この少年――エリアスと名乗っている相手といると、なぜだか退屈する暇がない。石を投げて川面を何度跳ねさせられるか競ったこともあった。木の枝を剣に見立てて戦ったこともあった。雲の形に名前をつけて、くだらないことで笑い転げたこともある。
だが、時々、ふいに相手の顔が遠くなる瞬間があった。
目の前にいるのに、ひどく遠い場所を見ているような、そんな瞬間だ。
その日もそうだった。
二人で丘を駆け上がり、花の中へ倒れ込むように寝転んだあと、エリアスは風に吹かれながら黙って空を見ていた。
「どうした」
ルカが横目で見ると、少年は瞬きをひとつした。
「ねえ、ルカ」
「ん?」
「もし、ずっと高いところでひとりでいたら、つまらないと思う?」
唐突な問いだった。
ルカはしばらく考え、それから腕を枕にしたまま答えた。
「高いところって、山の上とかか?」
「もっと高いところ」
「城の塔の上より?」
「もっと」
「じゃあ……空の上か?」
その言葉に、エリアスは少しだけ笑った。
けれど、その笑いにはいつもの悪戯っぽさがなかった。
「そう。空の上」
ルカは子どもらしい率直さで言った。
「つまらないだろ。遊ぶ相手もいないし」
「そうだよね」
「お前、なんでそんなこと聞くんだ」
エリアスは白詰草を一本摘み、その茎を指先でゆっくり折った。
「もし、ぼくが本当に空の上に住んでるって言ったら、信じる?」
「また変なこと言い出したな」
「本当なんだけど」
「じゃあ、お前は王子さまか?」
「違う」
「騎士?」
「違う」
「盗賊は空に住まないし……」
ルカは真剣に考え込んだ。
エリアスはその様子がおかしかったのか、声を立てて笑う。
「もう少しすごいよ」
「もったいぶるなよ」
「ぼくは神さまだ」
ルカは数秒、真顔で相手を見た。
それから大きく吹き出した。
「ははっ、なんだそれ!」
「ほんとだよ」
「神さまが泥だらけになって俺と走り回るかよ」
「走り回りたい神さまだっている」
「へえ、珍しい神さまだな」
「うん。たぶん、かなり」
エリアスはそう言ってまた笑った。
だが次の瞬間、笑顔が少しだけ崩れた。まるで、嘘だと笑い飛ばされることに慣れてしまっている顔だった。
ルカはその表情を見ると、なぜか胸の奥がむず痒くなった。
自分でもよくわからないまま、花の中に起き上がる。
「なあ」
「なに?」
「神さまだろうが王子だろうが、どうでもいいけど」
ルカは白詰草を摘み集めて、ぎこちない手つきで輪に編み始めた。
子どもの手仕事だから、茎はすぐ切れるし、形もゆがむ。何度もやり直して、ようやく冠のようなものができる。
「ほら」
それをエリアスの頭に載せる。
「……なにこれ」
「王冠だよ。お前、たまにすごく偉そうだから似合うと思って」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
エリアスはきょとんとしたあと、花冠にそっと触れた。
その仕草が妙に大事そうで、ルカは少し照れくさくなった。
「似合うだろ」
「うん」
「お前、ひとりで高いところにいるならさ」
ルカは白い花の海を見渡しながら、何気ない調子で言った。
「俺が迎えに行ってやるよ」
風が止まった。
いや、実際には吹いていたのだろう。だが、そのときだけ世界が耳を澄ませたみたいに静かになった。
エリアスがルカを見た。
本当に驚いた顔だった。
「……迎えに?」
「そう。お前、なんか放っておくと寂しそうだし」
「ぼくが?」
「たまに、そういう顔する。笑ってるくせに」
エリアスの喉が小さく動いた。
子どもらしい顔に、一瞬だけ大人でも見せないほど深い寂しさが落ちる。
「ほんとうに来てくれる?」
「うん」
「遠くても?」
「走って行く」
「怖くても?」
「剣を持って行く」
「ぼくが神さまでも?」
「約束は約束だろ」
エリアスはしばらく何も言わなかった。
やがて、壊れ物に触れるみたいに、ルカの袖をそっと掴む。
「じゃあ、約束して。
いつか、ぼくが待っているところへ来て」
ルカは胸を張った。
「約束する」
その瞬間、丘の上を強い風が吹き抜けた。
花が波立ち、白い花弁が舞い上がる。ルカは思わず目を閉じ、次の瞬間にはもう、隣にいたはずの少年の気配がなかった。
「……エリアス?」
立ち上がって見回しても、どこにもいない。
斜面にも、木立の陰にも、道の先にも。
ただ、足元の白詰草の上に、さっき自分が作った花冠だけが残っていた。
ルカはそれを拾い上げた。
花はまだぬくもりを持っている気がした。
その日以降、エリアスは現れなくなった。
ルカは毎日丘へ行った。
朝も、昼も、夕方も。母に呼ばれても、父に叱られても、何かに取りつかれたように風の丘へ通った。だが、何日待っても、何週間待っても、あの少年は現れなかった。
「どこに行ったんだよ……」
夕焼けの中で、ルカは花冠を握りしめた。
白かった花はすっかり乾き、少し触れただけでほろりと崩れそうだった。
ある日、その様子を見ていた祖母がぽつりと言った。
「春の丘で消える子かい。昔から、あのあたりには空のものが降りるって言うよ」
「空のもの?」
「神さまかもしれないし、妖精かもしれないし、ただの春の夢かもしれない」
「夢じゃない」
ルカは即座に言い返した。
「手もあった。声もあった。笑ったし、怒ったし、俺と一緒に走った」
祖母はしばらく黙り、やがて優しく目を細めた。
「そうかい。じゃあ、きっとほんとうにいたんだろうね」
その言葉に、ルカは少しだけ救われた。
誰かひとりでも「いた」と言ってくれるだけで、胸の奥の約束が消えずに済む気がした。
それから月日が流れた。
ルカは成長し、父の鍛冶場を手伝うようになった。
薪を割り、鞴を踏み、鉄を運び、時には木剣ではなく本物の剣を握って、村の老兵に稽古をつけてもらった。汗と煤にまみれる毎日だったが、春になると必ず風の丘へ行った。
ひとりで。
白詰草が揺れる中に立つたび、胸の奥に幼い日の声が蘇る。
――迎えに来て。
――約束する。
誰にも話さなくなっても、その言葉だけは消えなかった。
そして十年後の春。
王都の鐘が、運命のように鳴り響くことになる。