花冠の生贄   作:怠惰OO

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第一章 春の丘で交わした約束

リスベル王国の外れには、春になると白詰草で埋め尽くされる丘があった。

村の子どもたちはそこを「風の丘」と呼んでいた。昼間は羊飼いの笛が聞こえ、夕方には空が桃色に染まり、夜になると星が近く見える。小さな村の中で、そこだけが少しだけ世界の果てに近いように思えた。

 

幼いルカは、その丘が好きだった。

好きだったというより、そこへ行くと胸が落ち着いた。鍛冶屋の息子として、幼い頃から炉の熱と鉄の匂いに囲まれて育ったルカにとって、白詰草の匂いと風の冷たさは、自分をまっさらな人間に戻してくれるものだった。

 

「遅いぞ、ルカ」

 

丘の上から声がした。

見上げると、逆光の中にひとりの少年が立っている。年は同じくらいのはずなのに、なぜかいつも少しだけ大人びて見える子だった。

 

淡い金にも銀にも見える髪。

晴れた朝の空のような瞳。

村の子どもたちとは違う服を着ているわけでもないのに、なぜか風景の中でひときわ澄んで見える。

 

「また先に行ったな、エリアス!」

 

「競争だって言ったろ」

 

「言ってない!」

 

「言わなくてもわかると思った」

 

「わかるかよ」

 

ルカは文句を言いながらも笑っていた。

この少年――エリアスと名乗っている相手といると、なぜだか退屈する暇がない。石を投げて川面を何度跳ねさせられるか競ったこともあった。木の枝を剣に見立てて戦ったこともあった。雲の形に名前をつけて、くだらないことで笑い転げたこともある。

 

だが、時々、ふいに相手の顔が遠くなる瞬間があった。

目の前にいるのに、ひどく遠い場所を見ているような、そんな瞬間だ。

 

その日もそうだった。

二人で丘を駆け上がり、花の中へ倒れ込むように寝転んだあと、エリアスは風に吹かれながら黙って空を見ていた。

 

「どうした」

 

ルカが横目で見ると、少年は瞬きをひとつした。

 

「ねえ、ルカ」

 

「ん?」

 

「もし、ずっと高いところでひとりでいたら、つまらないと思う?」

 

唐突な問いだった。

ルカはしばらく考え、それから腕を枕にしたまま答えた。

 

「高いところって、山の上とかか?」

 

「もっと高いところ」

 

「城の塔の上より?」

 

「もっと」

 

「じゃあ……空の上か?」

 

その言葉に、エリアスは少しだけ笑った。

けれど、その笑いにはいつもの悪戯っぽさがなかった。

 

「そう。空の上」

 

ルカは子どもらしい率直さで言った。

 

「つまらないだろ。遊ぶ相手もいないし」

 

「そうだよね」

 

「お前、なんでそんなこと聞くんだ」

 

エリアスは白詰草を一本摘み、その茎を指先でゆっくり折った。

 

「もし、ぼくが本当に空の上に住んでるって言ったら、信じる?」

 

「また変なこと言い出したな」

 

「本当なんだけど」

 

「じゃあ、お前は王子さまか?」

 

「違う」

 

「騎士?」

 

「違う」

 

「盗賊は空に住まないし……」

 

ルカは真剣に考え込んだ。

エリアスはその様子がおかしかったのか、声を立てて笑う。

 

「もう少しすごいよ」

 

「もったいぶるなよ」

 

「ぼくは神さまだ」

 

ルカは数秒、真顔で相手を見た。

それから大きく吹き出した。

 

「ははっ、なんだそれ!」

 

「ほんとだよ」

 

「神さまが泥だらけになって俺と走り回るかよ」

 

「走り回りたい神さまだっている」

 

「へえ、珍しい神さまだな」

 

「うん。たぶん、かなり」

 

エリアスはそう言ってまた笑った。

だが次の瞬間、笑顔が少しだけ崩れた。まるで、嘘だと笑い飛ばされることに慣れてしまっている顔だった。

 

ルカはその表情を見ると、なぜか胸の奥がむず痒くなった。

自分でもよくわからないまま、花の中に起き上がる。

 

「なあ」

 

「なに?」

 

「神さまだろうが王子だろうが、どうでもいいけど」

 

ルカは白詰草を摘み集めて、ぎこちない手つきで輪に編み始めた。

子どもの手仕事だから、茎はすぐ切れるし、形もゆがむ。何度もやり直して、ようやく冠のようなものができる。

 

「ほら」

 

それをエリアスの頭に載せる。

 

「……なにこれ」

 

「王冠だよ。お前、たまにすごく偉そうだから似合うと思って」

 

「褒めてる?」

 

「半分くらいは」

 

エリアスはきょとんとしたあと、花冠にそっと触れた。

その仕草が妙に大事そうで、ルカは少し照れくさくなった。

 

「似合うだろ」

 

「うん」

 

「お前、ひとりで高いところにいるならさ」

 

ルカは白い花の海を見渡しながら、何気ない調子で言った。

 

「俺が迎えに行ってやるよ」

 

風が止まった。

いや、実際には吹いていたのだろう。だが、そのときだけ世界が耳を澄ませたみたいに静かになった。

 

エリアスがルカを見た。

本当に驚いた顔だった。

 

「……迎えに?」

 

「そう。お前、なんか放っておくと寂しそうだし」

 

「ぼくが?」

 

「たまに、そういう顔する。笑ってるくせに」

 

エリアスの喉が小さく動いた。

子どもらしい顔に、一瞬だけ大人でも見せないほど深い寂しさが落ちる。

 

「ほんとうに来てくれる?」

 

「うん」

 

「遠くても?」

 

「走って行く」

 

「怖くても?」

 

「剣を持って行く」

 

「ぼくが神さまでも?」

 

「約束は約束だろ」

 

エリアスはしばらく何も言わなかった。

やがて、壊れ物に触れるみたいに、ルカの袖をそっと掴む。

 

「じゃあ、約束して。

 いつか、ぼくが待っているところへ来て」

 

ルカは胸を張った。

 

「約束する」

 

その瞬間、丘の上を強い風が吹き抜けた。

花が波立ち、白い花弁が舞い上がる。ルカは思わず目を閉じ、次の瞬間にはもう、隣にいたはずの少年の気配がなかった。

 

「……エリアス?」

 

立ち上がって見回しても、どこにもいない。

斜面にも、木立の陰にも、道の先にも。

 

ただ、足元の白詰草の上に、さっき自分が作った花冠だけが残っていた。

 

ルカはそれを拾い上げた。

花はまだぬくもりを持っている気がした。

 

 

 

 

 

その日以降、エリアスは現れなくなった。

 

ルカは毎日丘へ行った。

朝も、昼も、夕方も。母に呼ばれても、父に叱られても、何かに取りつかれたように風の丘へ通った。だが、何日待っても、何週間待っても、あの少年は現れなかった。

 

「どこに行ったんだよ……」

 

夕焼けの中で、ルカは花冠を握りしめた。

白かった花はすっかり乾き、少し触れただけでほろりと崩れそうだった。

 

ある日、その様子を見ていた祖母がぽつりと言った。

 

「春の丘で消える子かい。昔から、あのあたりには空のものが降りるって言うよ」

 

「空のもの?」

 

「神さまかもしれないし、妖精かもしれないし、ただの春の夢かもしれない」

 

「夢じゃない」

 

ルカは即座に言い返した。

 

「手もあった。声もあった。笑ったし、怒ったし、俺と一緒に走った」

 

祖母はしばらく黙り、やがて優しく目を細めた。

 

「そうかい。じゃあ、きっとほんとうにいたんだろうね」

 

その言葉に、ルカは少しだけ救われた。

誰かひとりでも「いた」と言ってくれるだけで、胸の奥の約束が消えずに済む気がした。

 

それから月日が流れた。

 

ルカは成長し、父の鍛冶場を手伝うようになった。

薪を割り、鞴を踏み、鉄を運び、時には木剣ではなく本物の剣を握って、村の老兵に稽古をつけてもらった。汗と煤にまみれる毎日だったが、春になると必ず風の丘へ行った。

 

ひとりで。

 

白詰草が揺れる中に立つたび、胸の奥に幼い日の声が蘇る。

 

――迎えに来て。

――約束する。

 

誰にも話さなくなっても、その言葉だけは消えなかった。

 

そして十年後の春。

王都の鐘が、運命のように鳴り響くことになる。

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