その年の春は、例年より風が冷たかった。
白詰草は咲き始めているのに、朝の空気にはまだ冬の名残があった。
ルカは鍛冶場で剣の刃を研いでいた。
砥石の上を鋼が滑る、乾いた音。父が大槌を打つ、腹に響く音。炭の匂い。熱された鉄が水に沈む蒸気。彼にとっては、これらすべてが日々の呼吸と同じだった。
「手元が荒いぞ」
父が言った。
「考えごとか」
「別に」
「嘘をつけ。顔に出てる」
ルカは苦笑した。
父は無口だが、息子の変化には鋭い。幼い頃からそうだった。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
鍛冶場の空気がぴんと張る。
父が槌を止めた。
「……神殿の鐘だな」
村じゅうがざわめき始める気配がした。
ルカは工具を置き、父とともに外へ出る。
広場にはすでに人が集まり始めていた。白い法衣をまとった神殿の使者が、村長の隣に立っている。王都から来た正式な触れ役だ。巻物の封を切ると、その声が冷たく響いた。
「蒼穹の神アルシオンの神婚祭を、今年執り行う」
人々がどよめく。
神婚祭。十年に一度の、王国最大の祭儀。
それは祝祭であると同時に、古く、残酷で、美しい制度でもあった。
神に花嫁を捧げる。
そうすることで一年の豊穣と平穏を祈る。
選ばれた者は神の伴侶となり、人の世から去る。名誉であり、祝福であり、畏怖される運命だった。
使者は続ける。
「今年の花嫁は、古き誓約に則り、武をもって選ばれる。
王国全土より志願者を募り、王都大闘技場にてトーナメントを執り行う。
優勝者には、神の花嫁となる栄誉が与えられる」
花嫁。
だが村人たちはその言葉を、ほとんど生贄と同じ響きで受け止めていた。なぜなら、選ばれた者は戻らないからだ。
その名が読み上げられた瞬間、ルカの中で長年眠っていたものが目を覚ました。
――アルシオン。
喉の奥が焼けるみたいに熱くなった。
幼い頃、風の丘で笑っていた少年の瞳が、鮮やかによみがえる。
エリアス。
いや、あれはたぶん最初から仮の名だったのだろう。
本当の名は――アルシオン。
「ルカ」
隣から声がした。
振り向くと、マーヤがいた。栗色の髪を高く結び、背には長弓を負っている。彼女は幼なじみであり、村一番の弓の名手でもある。
「顔色、変だよ」
「……アルシオンって名を、昔聞いたことがある」
「神さまの名を?」
ルカはうなずいた。
冗談に聞こえるとわかっていても、今さらごまかせなかった。
「子どもの頃、風の丘で一緒に遊んでたやつがいて」
マーヤはしばらく黙ってから、半分あきれたように笑った。
「まさか、その子が神さまだったって言うつもり?」
「言うつもりじゃない。そうなんだと思う」
「……本気で?」
「ああ」
マーヤの顔から笑みが少し消えた。
彼女はルカが、こういうことで冗談を言う性格ではないと知っている。
「出るの?」
その問いに、ルカは迷わなかった。
「出る」
「神婚祭に?」
「あいつが待ってる気がする」
マーヤは何か言いかけ、結局飲み込んだ。
彼女の瞳に、少しだけ寂しさが差したのを、ルカは見なかった。