その夜、鍛冶場にはいつもより長く火が入っていた。
父は無言のまま鉄を打ち、ルカはその横で鞴を踏み続けていた。外はもう暗い。夜気と炉の熱の差で、工房の入り口に白い湯気が流れている。
やがて父が言った。
「出るんだな」
ルカは足を止めた。
「うん」
「勝てると思ってるのか」
「わからない。でも、行かなきゃたぶん一生後悔する」
父は鼻を鳴らした。
「恋か」
「……そうなのかもしれない」
「相手は神だぞ」
「わかってる」
「人間じゃない」
「それもわかってる」
父は打ちかけの鉄を火床へ戻し、ようやく息子を見た。
炎に照らされた横顔は厳しいが、その目の奥にあるものはいつもより柔らかかった。
「お前の母さんも、そういう顔をしてた」
「母さんが?」
「俺と結婚すると決めた時だ。村いちばんの変わり者だった」
思いがけない言葉に、ルカは少し笑った。
「親父が言うか、それ」
「事実だ」
父は壁際の箱を開き、中から一振りの剣を取り出した。
飾り気のない片手剣だった。柄革は黒ずみ、鍔には古い傷がある。だが、刃だけは静かに光を返していた。
「これは、若い頃の俺が打った」
「親父が?」
「未熟だったぶん、妙に意地だけは入ってる。折れんよ」
ルカは両手で受け取った。
見た目は質実剛健そのものだが、握った瞬間、手に吸いつくようになじむ。まるで、ずっと前から自分のために作られていた剣みたいだった。
「これを持って行け」
「大事なもんじゃないのか」
「大事だから、お前にやる」
父は視線を逸らしたまま言う。
「相手が神でも人でも、会いに行くなら半端な刃じゃ足りん。
約束を果たしに行くなら、折れない剣を持て」
ルカの胸が熱くなった。
礼を言おうとしたが、うまく言葉にならない。
父はそんな息子を見て、少しだけ口元をゆるめた。
「ただし、死ぬな」
「努力する」
「努力じゃ困る」
「……必ず帰る、とは言えない」
その言葉に、父の目がわずかに細くなる。
だが彼は怒らなかった。
「なら、せめて悔いなく行け。
鍛冶屋の息子が、中途半端な覚悟で剣を握るな」
「わかった」
父は背を向け、再び槌を取った。
「寝ろ。明日から出立の準備だ」
その背中が、いつもより少しだけ大きく見えた。
旅立ちの前夜、ルカは久しぶりに夢を見た。
白詰草の丘に、幼い自分が立っている。
風が吹き、花が揺れ、その向こうにエリアスがいる。
「遅いよ、ルカ」
あの日と同じ声だった。
けれど、夢の中の彼は子どもの姿のままなのに、その目だけがどこか大人びていた。
「待ってたんだ」
「……知ってる」
「ほんとう?」
「たぶん」
エリアスは笑った。
「たぶんじゃなくて、信じて」
ルカは夢の中で歩き出す。だがいくら進んでも距離が縮まらない。花が波のように揺れ、空が遠ざかり、相手だけがそこにいる。
「迎えに来てって言っただろ」
「行く」
「怖い?」
「少し」
「それでも?」
ルカは剣の柄に手を置いた。
「それでもだ」
その答えに、エリアス――アルシオンは、ひどく安堵したように目を細めた。
「じゃあ待ってる」
目が覚めたとき、窓の外はもう白んでいた。
夜明けの空は、あの瞳と同じ色をしていた。
ルカは起き上がり、父にもらった剣を腰に帯びる。
革の留め具を締めた瞬間、不思議と心が静まった。
これは戦いに行く朝だ。
けれど同時に、誰かに会いに行く朝でもあった。