王都リュミエルは、村育ちのルカにとって眩しすぎるほど大きな街だった。
白い石畳、背の高い塔、色鮮やかな市場、あちこちで鳴る鐘。神婚祭を前に、都全体が祝祭の衣をまとっているようだった。けれど、その華やかさの裏側に張りつめたものがあることも、街へ入った瞬間にわかった。
人々は笑いながらも、どこか神を恐れている。
神婚祭は祝いであると同時に、神への服従を確かめる儀でもあるのだ。
闘技場は王都の中心にあった。
巨大な円形の建物で、白大理石の壁には蔦模様と雲の浮き彫りが施されている。入口には薔薇の花が飾られ、空には青と白の旗がなびいていた。
出場者控え室には、すでに多くの剣士が集まっていた。
鎧を着込んだ騎士。皮鎧の傭兵。貴族の子弟。地方領主の護衛。修道騎士。神に選ばれたいと願う者もいれば、家名を上げるために来た者もいる。動機はそれぞれでも、全員の目が鋭かった。
ルカは彼らの中に、自分と同じ村の出身者がほとんどいないことに少しだけ場違いさを覚えた。
しかし剣の柄に触れると、父の炉の熱を思い出す。あの熱を知っている自分の手は、そう簡単には震えない。
「緊張してる?」
背後から声がした。振り向くと、マーヤがいた。
彼女もまた出場者のひとりとして王都に来ていたのだ。深い緑の衣に革の胸当てをつけ、長弓と矢筒を背負う姿は、村にいたときよりずっと凛々しく見えた。
「してないと言ったら嘘になる」
「珍しい。あんたでもあるんだ、そういうの」
「あるさ」
「少し安心した」
マーヤは笑った。
だが、その笑顔の奥には別の感情が揺れていた。ルカは気づきそうになり、でも気づかないふりをした。
観客席を埋める人々のざわめきが、地鳴りのように響き始める。
やがて銅鑼が鳴り、開会の宣言がなされた。
神婚祭トーナメントが、始まる。
シーン二 槍使いとの初戦
第一試合、ルカの相手は北方領から来た槍使いだった。
長身で腕が長く、長槍をまるで自分の手足のように扱う男だ。名乗りを聞いたが、ルカの耳にはほとんど入らなかった。意識はすでに相手の足運びと間合いに向いている。
審判が腕を振り下ろした。
次の瞬間、槍の穂先が一直線に喉元へ飛んできた。
速い。
反射的に盾を立てると、硬い衝撃が腕を痺れさせる。続けざまに二撃、三撃。槍は突くだけでなく、払うように、絡みつくように、息をつかせず襲ってきた。
観客がどよめく。
石床を擦る足音、槍の風切り音、盾に当たる金属音が、耳の中で混ざり合う。
「どうした、村剣士!」
相手が吠えた。
「その程度で神の花嫁になるつもりか!」
ルカは返事をしなかった。
代わりに、ひとつ息を吸う。槍は長い。強い。だが強い武器には必ず死角がある。踏み込みの起点、穂先が戻る瞬間、柄の重みが片側に寄る瞬間。
次の突きが来た。
今度は真正面から受けず、盾で穂先を外へ流す。半歩踏み込む。相手が槍を引き戻そうとする、その柄を左手で押さえ込む。
「な――」
ルカは体を低く沈めたまま、右手の剣を横薙ぎに振った。
刃ではなく、腹で打つ。兜の縁を叩かれた槍使いの体勢が崩れる。
間髪入れず肩でぶつかる。
男が膝をついた。
審判の宣言が響く。
「勝者、ルカ・リスベル!」
歓声が闘技場を揺らした。
だがルカはすぐには剣を下ろせなかった。心臓が早鐘のように打ち、血が耳の内側まで流れ込んでくる。
勝った。
だが、まだ始まったばかりだ。
彼は顔を上げ、思わず空を見る。
雲ひとつない青空だった。
その高みのどこかで、見ているのだろうか。
あの、春の丘で笑っていた神が。
二回戦の組み合わせを見たとき、ルカは眉を寄せた。
対戦相手の名は、マーヤ・エルデン。
試合場に出ると、彼女はすでに中央に立っていた。
風に栗色の髪が揺れ、長弓の弦がぴんと張られている。その横顔は美しかったが、同時にひどく厳しくもあった。
「よりによって、あんたか」
「こっちの台詞だ」
「降りる気はないでしょ」
「ない」
「だよね」
マーヤは矢を一本取り出した。
その指先が、わずかに震えているように見えたのは気のせいではなかった。
「ルカ」
「なんだ」
「勝ったら、ほんとうに神さまのところへ行くの?」
「ああ」
「戻れないかもしれないのに?」
「それでも」
彼女は少しだけ唇を噛んだ。
「昔から、そういう顔するよね。決めたら、もう誰にも止められない顔」
ルカは苦く笑う。
「お前も同じだろ」
「私は……」
マーヤはそこで言葉を切った。
言えば何かが壊れると知っているみたいに。
やがて審判の声が響く。
試合開始。
最初の矢は、挨拶みたいに真っ直ぐだった。
だが次の一射から、マーヤの本気が来た。足を狙う矢、肩を狙う矢、視界を遮るような連射。ひとつ受ければ、次が来る。守れば削られ、迷えば射抜かれる。
ルカは盾で受け、転がり、低く走った。
頬をかすめた矢が皮膚を裂き、熱い筋が伝う。
「止まりなさい!」
マーヤの叫びが飛ぶ。
それが指示なのか、懇願なのか、一瞬わからなかった。
「止まったら会えない!」
ルカは叫び返した。
「だから走る!」
最後の数歩を一気に詰める。
マーヤは弓を捨て、短剣を抜いて応じた。鋭い切っ先が閃く。だが彼女は剣士ではない。手数は鋭くても、間合いが短い。
ルカの剣先が、彼女の喉元すれすれで止まった。
数秒の沈黙。
マーヤは目を閉じ、ふっと息を吐いた。
「……負け」
その声は静かだった。
悔しさよりも、もっと別の感情が混じっているように聞こえた。
ルカが剣を下ろすと、マーヤは短剣を鞘に戻した。
そして誰にも聞こえないくらいの小さな声で言う。
「会えたら、聞いて」
「何を」
「神さまでも、ほんとうに寂しいのかって」
ルカは一瞬目を見開き、それからゆっくりうなずいた。
「聞く」
マーヤは笑った。
その笑みは明るく見えたが、目の奥だけが少し濡れていた。
準決勝の相手は、王国騎士団長の嫡男レオニードだった。
重厚な盾と片手剣を使う、正統派の剣士。構えを見ただけで、隙のなさがわかる。
試合が始まると、彼は堂々と真正面から押してきた。
鋼と鋼が噛み合い、火花が散る。ルカの腕が痺れ、足裏が石床を滑る。
「田舎者にしてはやるな」
「貴族の坊ちゃんにしては、な」
「口も達者か」
レオニードの剣は、美しかった。
無駄がなく、迷いがなく、鍛錬に裏打ちされている。だがその美しさの奥に、どこか空虚さがあった。勝つために戦っているのに、何かを欲している気配がない。
「なぜそこまで神を目指す!」
剣を打ち合わせながら、レオニードが怒鳴る。
「名誉か! 富か! 家名か!」
「違う!」
「なら何だ!」
ルカは相手の力を受け止めながら、歯を食いしばって言った。
「迎えに行くためだ!」
レオニードの瞳が揺れた。
その一瞬の動揺を、ルカは見逃さなかった。
盾を絡め、足を払う。
体勢の崩れた相手の剣を打ち上げ、弾き飛ばす。鋼の音が高く響き、剣が石床を滑った。
「勝者、ルカ!」
歓声の中で、レオニードは倒れたままルカを見上げた。
「……お前は、馬鹿だ」
「よく言われる」
「だが、そういう顔のやつは、たまに勝つ」
ルカは手を差し出した。
レオニードは一瞬ためらってから、その手を取る。
「決勝で死ぬなよ」
「お互い様だ」
王都の夕暮れは赤く、闘技場の影を長く伸ばしていた。
ルカは決勝進出の鐘を聞きながら、胸の中でひとつだけ確かなものを感じていた。
あと少しだ。
あの約束に届くまで。