神婚祭の決勝戦は、月の下で行われる。
それが古い掟だった。
夜の闘技場は昼間とはまるで違う顔をしていた。
観客席に灯された無数の火が揺れ、中央の円形舞台には銀の砂が撒かれている。空にはほとんど満ちた月がかかり、その光が白い石壁を青く染めていた。
ルカは控え室でひとり、父の剣の柄を握っていた。
ここまで来た。あとひとつ勝てば、神殿の奥へ行ける。だが、その先にあるのが幸福なのか、破滅なのかは誰にもわからない。
「怖いか」
低い声がした。
振り向くと、決勝の相手セファールが立っていた。
神殿の守護剣士。
若いが、その名は王都で知られている。長身痩躯、白銀の法剣を帯び、夜のように静かな男だった。
「少しは」
ルカが答えると、セファールは淡々と言う。
「それでいい。恐れを知らぬ者は、たいてい最初に死ぬ」
「親切だな」
「親切ではない。私は、お前を侮りたくないだけだ」
ルカは相手の目を見る。
そこには傲慢さも、慢心もなかった。ただ、長年ひとつの道だけを見てきた者の静かな執念があった。
「お前も神の花嫁になりたいのか」
「なりたいのではない」
セファールは月明かりの方へ目を向けた。
「そのために育てられた」
その言葉には、少しだけ空の音がした。
自由に見えて、実は逃げ場のない人生。ルカは相手に一瞬だけ親近感を覚えた。
「ならなおさら、負けるわけにいかないな」
「私もだ」
二人はそれ以上何も言わず、舞台へ向かった。
開始の合図と同時に、セファールが動いた。
細身の剣が月光を引き、ほとんど音もなく喉元へ伸びる。
速い。
ルカは盾で逸らしたが、衝撃は軽い。なのに刃筋だけが鋭い。重さで押すのではなく、正確さで切り込んでくる剣だ。二撃目が肩を狙い、三撃目が脇腹を狙い、四撃目にはもう退路を塞がれている。
「くっ……!」
浅く傷が入る。
布が裂け、熱が走る。
観客のざわめきが波のように高まる。
セファールは一切表情を変えず、次々と刺突を繰り出してきた。
「願いだけで、ここまで来たのか」
「願いだけじゃない」
「なら何で立っている」
ルカは盾を突き出し、間合いをずらす。
だがすぐに剣先が追ってくる。細剣とは思えないほど執拗だ。
「約束だ」
「約束?」
「昔、迎えに行くって言った!」
セファールの眉がわずかに寄る。
「子どもの戯れ言に命を賭けるのか」
「戯れ言じゃない!」
ルカは踏み込んだ。
重い一撃。受けられる。返される。盾に傷が増え、腕に衝撃が積もる。セファールの剣は冷静だ。焦りも怒りもなく、ただ勝利へ向けて最短距離で刃を運ぶ。
その冷たさが、かえって恐ろしかった。
やがて鋭い斬撃が盾の縁をえぐり、木が軋む。
もう一撃。
盾が割れた。
観客席から悲鳴が上がる。
左腕に残ったのは革の持ち手だけだった。
セファールの剣先が、月明かりの中で一直線に伸びる。
胸を狙った必殺の突き。
普通なら、ここで終わっていた。
だがルカの体は先に動いた。
半身になって刃を外し、左腕で無理やり剣身を抱え込む。皮膚が裂け、熱い血が流れた。だが手放さない。
「何……!」
セファールの目に初めて驚愕が走る。
「俺は――」
ルカは痛みで歪む顔のまま、右手の剣を振り上げた。
「会いに行くんだ!」
下から跳ね上がる斬撃。
セファールの手から法剣が弾き飛ばされ、銀砂に突き立つ。
静寂が落ちた。
それから、地響きのような歓声が闘技場を包む。
鐘が鳴る。月の下で、花弁が降り始める。
セファールは呆然とした顔で立ち尽くし、やがてゆっくりルカを見た。
「……そこまでして」
「そうだ」
「それほど、会いたいのか」
ルカは息を荒げながらうなずいた。
「会いたい」
セファールは目を閉じ、そして小さく笑った。
「なら、負けを認めよう。
神に選ばれるのは、きっとそういう者なのだろう」
決勝のあと、ルカは勝者として白い礼装を着せられた。
傷には簡単な手当てが施され、血のついた衣は取り替えられたが、腕の痛みも、胸の高鳴りも消えない。
神官たちに挟まれ、神殿の奥へ進む。
長い回廊には百合の香が満ち、足元には白い布が敷かれている。まるで婚礼の道だ。けれどどこか、棺へ向かう行列にも似ていた。
人々は勝者が「花嫁」になると信じている。
その言葉の響きに、ルカは不思議と抵抗を覚えなかった。相手があの少年なら、呼び名などどうでもいい。
青銅の大扉の前で、神官長が止まった。
「ここから先は、神と勝者のみ」
「……ああ」
「引き返すなら今だ」
ルカは扉を見上げた。
その向こうに、十年待たせた相手がいる。
「引き返さない」
神官長は何も言わず、合図を送る。
重い扉がゆっくりと開いた。
月光のような光が、その奥から流れ出してきた。