扉の向こうは、人のための空間ではなかった。
天井は見えないほど高く、夜空そのものみたいに深い青を湛えている。
柱は雲を削って固めたみたいに白く、床には水面のような光が揺れていた。どこから吹くのかわからない風が、静かに衣の裾を揺らす。
その奥、玉座の前にひとりの男が立っていた。
銀に近い淡い髪。
春の空の色を閉じ込めた瞳。
子どもの頃の面影を残しながら、けれど人ならざる美しさをまとった姿。
ルカは息を止めた。
「……エリアス」
男は少しだけ目を見開き、それから、ひどく懐かしい笑みを浮かべた。
「その名で呼ぶの、きみだけだよ」
声まで同じだった。
少しやわらかく、少し寂しげで、でも聞くだけで胸のどこかがほどけてしまう声。
ルカは一歩進んだ。
次の一歩が妙に重い。剣を握って闘技場に立つより、この数歩のほうがよほど怖かった。
「ほんとうに……お前だったのか」
「うん」
「待ってたのか」
アルシオンはうなずく。
「ずっと」
そのたった二文字に、十年分の孤独が滲んでいた。
ルカは胸の奥が強く痛むのを感じた。
「だったら、どうして」
気づけば声が荒くなっていた。
「どうしてこんな回りくどいことをする。
神婚祭だの、生贄だの、花嫁だの……お前が望んだのか?」
アルシオンは静かに目を伏せた。
その長い睫毛が影を落とす。
「神は人に会いたいと願ってはいけない」
「何だそれ」
「人から祈られ、選ばれ、崇められるものだから。
こちらから手を伸ばすのは、掟に反する」
「掟なんか知るか」
ルカは吐き捨てるように言った。
「会いたいなら会いたいって言えよ」
「言えなかった」
「どうして」
アルシオンは少しだけ笑った。
けれどその笑顔は痛々しいほど頼りなかった。
「きみが忘れていたら、怖かった」
ルカは言葉を失った。
神が。
村人たちが畏れ、祈り、名を唱えるその存在が、たったひとりの人間に忘れられることを怖がっている。
その事実が、たまらなく切なかった。
「……馬鹿だな、お前」
「うん」
「ほんとに、昔から変なやつだ」
「知ってる」
二人の距離は、もう数歩しかなかった。
ルカはアルシオンの顔を見つめる。近くで見るほど綺麗だった。けれど綺麗という言葉だけでは足りない。春の朝の光とか、雨上がりの空とか、そういうものに近い。
アルシオンがそっと手を伸ばす。
指先がルカの頬の傷に触れた。
「痛そう」
「お前に会うためだ」
「……そんなこと言われたら、嬉しいより先に苦しくなる」
「なんでだよ」
「きみが傷ついたの、ぼくのせいだから」
ルカはその手を取った。
冷たいかと思ったのに、驚くほど人間らしい温度があった。
「違う」
「ルカ」
「自分で選んでここまで来た。お前のせいじゃない」
アルシオンの瞳が揺れる。
その青の奥に、子どもの頃の面影がはっきり見えた。
「優勝者は神の花嫁となる」
アルシオンは静かに言った。
「王国の人々には、そう伝えられている。
でも、ほんとうは少し違う」
「違う?」
「これは、生贄を選ぶ儀式じゃない」
アルシオンはルカの手を握ったまま続ける。
「ぼくが、ただひとりを迎えるための儀式だ」
その言葉は、想像していたよりずっとまっすぐだった。
神らしい荘厳さよりも、むしろひとりの男の告白に近い。
「最初から言えばよかったのに」
ルカが言うと、アルシオンは困ったように笑う。
「神にそんな自由はないよ」
「いま言ってるじゃないか」
「きみが来てくれたから」
その返事に、胸が熱くなった。
「ルカ。
ぼくは、春の丘で初めてきみと遊んだ日から、ずっときみを覚えてる。
きみがくれた花冠も。迎えに行くって言ってくれたことも。
あれが、ぼくが初めて手に入れた約束だった」
ルカの喉が詰まる。
幼い自分には何気ない一言だったのに、それが相手にとってどれほど大切だったのか、いまさら思い知る。
「きみが大きくなるまで待った。
忘れてしまうかもしれないと思った。
別の誰かを好きになるかもしれないと思った。
それでも、少しだけ期待してた」
「少しじゃないだろ」
「……うん。たくさん」
アルシオンは素直に認めた。
その率直さに、ルカは思わず笑ってしまう。
「じゃあ聞くけど」
「なに?」
「俺が来なかったら、どうするつもりだった」
神は少し考えてから、ひどく真面目な顔で答えた。
「たぶん、また十年待ってた」
ルカは額を押さえた。
「ほんとに馬鹿だ」
「怒った?」
「怒る。
会いたいなら呼べ。
寂しいなら言え。
待ってるだけで伝わると思うな」
アルシオンはしばらく黙り、それから小さくうなずいた。
「じゃあ、言う」
「言え」
神は、子どもの頃のように少しだけ首をかしげたあと、まっすぐルカを見た。
「会いたかった」
その一言に、ルカの胸は簡単に射抜かれた。
どんな剣よりも、どんな矢よりも、ひどく深く。
「……俺もだ」
「寂しかった」
「俺も」
「好きだった」
そこでルカは息をのんだ。
アルシオンは耳まで赤くしていた。神らしさも威厳も、いまはどこにもない。
ただ、好きな相手に想いを伝えて震えている男が、そこにいるだけだった。
ルカはたまらなく愛しくなって、相手の腰を引き寄せた。
「俺も好きだ」
アルシオンの瞳が大きくなる。
「昔からだ。
お前がいなくなってから、ずっと会いたかった。
たぶん、子どもの頃にはもう特別だった」
「……ほんとう?」
「ここまで来て嘘つくかよ」
アルシオンは目を閉じ、ほっとしたように笑った。
その笑みはあまりに綺麗で、ルカは胸が痛くなるほど見惚れた。
どこからともなく風が吹き、白い花びらが舞い始めた。
百合ではない。白詰草だった。春の丘で見たものと同じ、小さな白い花。
「覚えてる?」
アルシオンが言う。
「もちろん」
「ぼく、あの花冠が嬉しかった。
神になってから、誰かに何かを貰ったの、あれが初めてだった」
ルカは笑う。
「ひどい人生だな」
「神生かな」
「そこはどうでもいい」
アルシオンも笑った。
それから、玉座の横に置かれていた小さな箱を開く。中には、驚くほど古びた花冠がしまわれていた。
十年前、ルカが作ったものだった。
乾いて色褪せているのに、丁寧に保存されている。
「……まさか」
「捨てられるわけない」
ルカは言葉を失った。
喉の奥が熱い。目頭まで熱くなる。こんなにも大切にされていたのかと思うと、どうしようもなく胸がいっぱいになる。
アルシオンはその花冠を見つめながら、静かに言った。
「神の花嫁って呼ばれてもいい。生贄だと思われてもいい。
でも、きみにだけはほんとうを知っていてほしい。
ぼくは誰かを犠牲にしたいんじゃない。
きみと一緒にいたいだけなんだ」
ルカはもう何もためらわなかった。
腰の剣を床へ置く。戦いのための手を、愛する相手に伸ばす。
「条件がある」
「なに?」
「もう二度と、ひとりで待つな」
アルシオンは目を伏せ、やがてうなずく。
「うん」
「会いたいなら言え」
「言う」
「寂しいなら、隠すな」
「隠さない」
「俺を好きなら」
そこでアルシオンが、少しだけ先に言った。
「好きだよ、ルカ」
その言い方があまりにもやさしくて、ルカは耐えきれず、そっと唇を重ねた。
静かな口づけだった。
けれどそこには、十年分の春と、戦い抜いた夜と、やっと辿り着いた約束のすべてが込められていた。
白詰草が降る。
空の宮が、春の丘になる。
口づけのあと、額を寄せたまま、アルシオンが囁いた。
「迎えに来てくれたね」
ルカは目を閉じて答える。
「ああ。遅くなった」
「待つの、長かった」
「これからは待たせない」
「……うん」
神婚祭の鐘が遠くで鳴っていた。
人々は、勝者が神に嫁いだと思うだろう。生贄として捧げられたと思うだろう。
けれど真実は違う。
それは、幼い日の花冠から始まった恋が、
ようやくひとつの誓いになった夜だった。