花冠の生贄   作:怠惰OO

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第五章 神の花嫁

扉の向こうは、人のための空間ではなかった。

 

天井は見えないほど高く、夜空そのものみたいに深い青を湛えている。

柱は雲を削って固めたみたいに白く、床には水面のような光が揺れていた。どこから吹くのかわからない風が、静かに衣の裾を揺らす。

 

その奥、玉座の前にひとりの男が立っていた。

 

銀に近い淡い髪。

春の空の色を閉じ込めた瞳。

子どもの頃の面影を残しながら、けれど人ならざる美しさをまとった姿。

 

ルカは息を止めた。

 

「……エリアス」

 

男は少しだけ目を見開き、それから、ひどく懐かしい笑みを浮かべた。

 

「その名で呼ぶの、きみだけだよ」

 

声まで同じだった。

少しやわらかく、少し寂しげで、でも聞くだけで胸のどこかがほどけてしまう声。

 

ルカは一歩進んだ。

次の一歩が妙に重い。剣を握って闘技場に立つより、この数歩のほうがよほど怖かった。

 

「ほんとうに……お前だったのか」

 

「うん」

 

「待ってたのか」

 

アルシオンはうなずく。

 

「ずっと」

 

そのたった二文字に、十年分の孤独が滲んでいた。

ルカは胸の奥が強く痛むのを感じた。

 

「だったら、どうして」

 

気づけば声が荒くなっていた。

 

「どうしてこんな回りくどいことをする。

 神婚祭だの、生贄だの、花嫁だの……お前が望んだのか?」

 

アルシオンは静かに目を伏せた。

その長い睫毛が影を落とす。

 

「神は人に会いたいと願ってはいけない」

 

「何だそれ」

 

「人から祈られ、選ばれ、崇められるものだから。

 こちらから手を伸ばすのは、掟に反する」

 

「掟なんか知るか」

 

ルカは吐き捨てるように言った。

 

「会いたいなら会いたいって言えよ」

 

「言えなかった」

 

「どうして」

 

アルシオンは少しだけ笑った。

けれどその笑顔は痛々しいほど頼りなかった。

 

「きみが忘れていたら、怖かった」

 

ルカは言葉を失った。

 

神が。

村人たちが畏れ、祈り、名を唱えるその存在が、たったひとりの人間に忘れられることを怖がっている。

 

その事実が、たまらなく切なかった。

 

「……馬鹿だな、お前」

 

「うん」

 

「ほんとに、昔から変なやつだ」

 

「知ってる」

 

二人の距離は、もう数歩しかなかった。

ルカはアルシオンの顔を見つめる。近くで見るほど綺麗だった。けれど綺麗という言葉だけでは足りない。春の朝の光とか、雨上がりの空とか、そういうものに近い。

 

アルシオンがそっと手を伸ばす。

指先がルカの頬の傷に触れた。

 

「痛そう」

 

「お前に会うためだ」

 

「……そんなこと言われたら、嬉しいより先に苦しくなる」

 

「なんでだよ」

 

「きみが傷ついたの、ぼくのせいだから」

 

ルカはその手を取った。

冷たいかと思ったのに、驚くほど人間らしい温度があった。

 

「違う」

 

「ルカ」

 

「自分で選んでここまで来た。お前のせいじゃない」

 

アルシオンの瞳が揺れる。

その青の奥に、子どもの頃の面影がはっきり見えた。

 

「優勝者は神の花嫁となる」

 

アルシオンは静かに言った。

 

「王国の人々には、そう伝えられている。

 でも、ほんとうは少し違う」

 

「違う?」

 

「これは、生贄を選ぶ儀式じゃない」

 

アルシオンはルカの手を握ったまま続ける。

 

「ぼくが、ただひとりを迎えるための儀式だ」

 

その言葉は、想像していたよりずっとまっすぐだった。

神らしい荘厳さよりも、むしろひとりの男の告白に近い。

 

「最初から言えばよかったのに」

 

ルカが言うと、アルシオンは困ったように笑う。

 

「神にそんな自由はないよ」

 

「いま言ってるじゃないか」

 

「きみが来てくれたから」

 

その返事に、胸が熱くなった。

 

「ルカ。

 ぼくは、春の丘で初めてきみと遊んだ日から、ずっときみを覚えてる。

 きみがくれた花冠も。迎えに行くって言ってくれたことも。

 あれが、ぼくが初めて手に入れた約束だった」

 

ルカの喉が詰まる。

幼い自分には何気ない一言だったのに、それが相手にとってどれほど大切だったのか、いまさら思い知る。

 

「きみが大きくなるまで待った。

 忘れてしまうかもしれないと思った。

 別の誰かを好きになるかもしれないと思った。

 それでも、少しだけ期待してた」

 

「少しじゃないだろ」

 

「……うん。たくさん」

 

アルシオンは素直に認めた。

その率直さに、ルカは思わず笑ってしまう。

 

「じゃあ聞くけど」

 

「なに?」

 

「俺が来なかったら、どうするつもりだった」

 

神は少し考えてから、ひどく真面目な顔で答えた。

 

「たぶん、また十年待ってた」

 

ルカは額を押さえた。

 

「ほんとに馬鹿だ」

 

「怒った?」

 

「怒る。

 会いたいなら呼べ。

 寂しいなら言え。

 待ってるだけで伝わると思うな」

 

アルシオンはしばらく黙り、それから小さくうなずいた。

 

「じゃあ、言う」

 

「言え」

 

神は、子どもの頃のように少しだけ首をかしげたあと、まっすぐルカを見た。

 

「会いたかった」

 

その一言に、ルカの胸は簡単に射抜かれた。

どんな剣よりも、どんな矢よりも、ひどく深く。

 

「……俺もだ」

 

「寂しかった」

 

「俺も」

 

「好きだった」

 

そこでルカは息をのんだ。

アルシオンは耳まで赤くしていた。神らしさも威厳も、いまはどこにもない。

 

ただ、好きな相手に想いを伝えて震えている男が、そこにいるだけだった。

 

ルカはたまらなく愛しくなって、相手の腰を引き寄せた。

 

「俺も好きだ」

 

アルシオンの瞳が大きくなる。

 

「昔からだ。

 お前がいなくなってから、ずっと会いたかった。

 たぶん、子どもの頃にはもう特別だった」

 

「……ほんとう?」

 

「ここまで来て嘘つくかよ」

 

アルシオンは目を閉じ、ほっとしたように笑った。

その笑みはあまりに綺麗で、ルカは胸が痛くなるほど見惚れた。

 

どこからともなく風が吹き、白い花びらが舞い始めた。

百合ではない。白詰草だった。春の丘で見たものと同じ、小さな白い花。

 

「覚えてる?」

 

アルシオンが言う。

 

「もちろん」

 

「ぼく、あの花冠が嬉しかった。

 神になってから、誰かに何かを貰ったの、あれが初めてだった」

 

ルカは笑う。

 

「ひどい人生だな」

 

「神生かな」

 

「そこはどうでもいい」

 

アルシオンも笑った。

それから、玉座の横に置かれていた小さな箱を開く。中には、驚くほど古びた花冠がしまわれていた。

 

十年前、ルカが作ったものだった。

乾いて色褪せているのに、丁寧に保存されている。

 

「……まさか」

 

「捨てられるわけない」

 

ルカは言葉を失った。

喉の奥が熱い。目頭まで熱くなる。こんなにも大切にされていたのかと思うと、どうしようもなく胸がいっぱいになる。

 

アルシオンはその花冠を見つめながら、静かに言った。

 

「神の花嫁って呼ばれてもいい。生贄だと思われてもいい。

 でも、きみにだけはほんとうを知っていてほしい。

 ぼくは誰かを犠牲にしたいんじゃない。

 きみと一緒にいたいだけなんだ」

 

ルカはもう何もためらわなかった。

腰の剣を床へ置く。戦いのための手を、愛する相手に伸ばす。

 

「条件がある」

 

「なに?」

 

「もう二度と、ひとりで待つな」

 

アルシオンは目を伏せ、やがてうなずく。

 

「うん」

 

「会いたいなら言え」

 

「言う」

 

「寂しいなら、隠すな」

 

「隠さない」

 

「俺を好きなら」

 

そこでアルシオンが、少しだけ先に言った。

 

「好きだよ、ルカ」

 

その言い方があまりにもやさしくて、ルカは耐えきれず、そっと唇を重ねた。

 

静かな口づけだった。

けれどそこには、十年分の春と、戦い抜いた夜と、やっと辿り着いた約束のすべてが込められていた。

 

白詰草が降る。

空の宮が、春の丘になる。

 

口づけのあと、額を寄せたまま、アルシオンが囁いた。

 

「迎えに来てくれたね」

 

ルカは目を閉じて答える。

 

「ああ。遅くなった」

 

「待つの、長かった」

 

「これからは待たせない」

 

「……うん」

 

神婚祭の鐘が遠くで鳴っていた。

人々は、勝者が神に嫁いだと思うだろう。生贄として捧げられたと思うだろう。

 

けれど真実は違う。

 

それは、幼い日の花冠から始まった恋が、

ようやくひとつの誓いになった夜だった。

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