「ただいまー」
そう言いながら玄関で靴を脱ぎ、隅に揃えて並べる。いつものことだが帰宅の挨拶への返事はない。この時間帯、お母さんは仕事に行っていて、妹の
だというのに毎日、こうして「ただいま」の四文字を言ってしまうのは何故なんだろうと、自分でもよくはわからない。習慣なんて言うのは、そういうものなんだろう。
まあ、そこらへんはどうでもいいか。
私は無駄な思考の海へと沈み込む前に意識を切り替え、我が家の廊下を真っ直ぐに進む。今はそんな事よりも、もっと優先することがあるんだから。
ドキドキ、ドキドキ。ドキドキ、ドキドキ。
一歩一歩、廊下を進むごとに心臓の音が大きくなっているのを感じ取る。右の足裏が床板に触れてドキドキ、左の足裏が床板から離れてまたドキドキ。
あれは、今朝がたの話であったか。
『今日なにかあるの?』
朝日奈さんが私の顔をじっと見つめてそう尋ねてきたのは。朝練の為に早く登校してきた彼女と顔を合わせたときに。
なにか、か。なにか……。なにか。
あの時は突然の質問で私は彼女に答えられなかったけれども……。今なら、きっと同じ質問を彼女にされたらこう答えるはずだ。
『もちろん、ある』と。
あぁ、歩く速度が加速する。あるいは減速する。
速くなっている気がするし、でも実際は遅くなっていそうでもある。本当はいったいどっちなんだ。私には分からない。もしかしたら外から見たら私は変わらず、一定の速度で廊下を進んでいるのかも。
逸る気持ちは私のことを後押しして、恐れる心は私の足首に枷をかけてしまうのだ。
別にこれが初めての、というわけでもないっていうのに。何回経験しても、この瞬間は慣れることがない。
「――ふぅ」
だから私は一度、自身の緊張を解そうと大きめの深呼吸を一度する。吸って、吐いて、落ち着いて。
……そして思い返す。私の憧れを。私の願いを。
「……よし」
こくり、と頷いて覚悟を決める。私は歩みの速度を今度こそ、早めることも遅めることも無く、確かな足取りで前に進んだ。
リビングに入って部屋の隅に荷物を適当に置き、家族共用のノートパソコンを起動する。慣れた手つきで開いて、人差指で電源ボタンを押し込む。たったそれだけの作業も、何千回も繰り返せば洗練されるというものだ。
しばらくしてパソコンの画面に光が灯り……、パスワードの入力画面に。私は迷いなく、『20100405』と数列を打ち込んで、エンター。わずかに画面がフリーズし、そして見慣れたホーム画面が視界に飛び込んできた。
(思えばこのパスワードも長く使ってるなぁ……)
セキュリティ的には問題がありそうだけれども……。まぁ、ほとんど個人情報を入れていないこのパソコンのパスワードが仮に漏れたところで問題は無いから良いのだが。
あれから十年、と考えると時間が立つのは早いものだ。
「……、と。今はそうじゃなくて」
私はまた思考が逸れそうになったのを察知し、今度は前もって防止する。今は昔話より先の話だ。
「……」
右手に握るマウスを左右に動かし、画面上のカーソルもそれにあわせて左右に動く。別に、カーソルを見失ったから大きめに動かしたわけじゃない。ただ、なんとなくやっただけ。
ただ、いつまでもそんな風に遊んで時間を無駄に過ごすわけにもいかない。目的は最初から決まっているのだ。決してマウスで遊ぶためにパソコンの電源を付けた訳ではない。
私はゆっくりと、しかし迷いなく画面下のタスクバーに並ぶメールのアイコンをクリックして……。そしてギュ、と両目を強く閉じた。
(もう、あとは……)
この閉じた目を開くだけ。
「…………」
この目を、開く、だけ……。
私は、ゆっくりと両方の瞼を上へと上げて……。
「ただいま、姉さん。結果、どうだった……、って、その感じだと」
「……あっ、おかえり月。うん、まぁ……。お察しの通り、かな」
リビングでぼぅ、と放心状態でいること数分。どうやら学校から帰って来たらしい月が姿を現し……、そしてそこで醜態をさらす私を見付けて何かを悟ったようだ。
「はぁ――、そっかぁ。そっ……かぁ。今回のは、自信あったんだけどなぁ」
そう言って私は付きっぱなしのパソコンの画面を見る。今度はさっきみたいな慎重さはない。一度開けたビックリ箱に二度目も同じ対応する人間はいないのと一緒で、結果を知っている私に怯える理由もないのだ。
そこには……
『九条 流星 様
このたびは、第二十四回淀川小説大賞へご応募いただき、誠にありがとうございました。
厳正なる選考の結果、応募作品『それでも私は』は第三次選考まで進出されましたが、誠に残念ながら最終選考への進出とはなりませんでした。
数ある応募作品の中から第三次選考まで進まれたことは、作品が高く評価された証でもあります。最後までご応募いただきましたことに、選考委員一同、心より感謝申し上げます』
という、まさしくこのメールで伝えるべき内容をこれでもかというほどに簡潔にまとめた文面が映し出されている。
どうやら私の憧れ……、『小説家』と呼ばれる存在へ私は今回も一歩及ばなかったらしい。
「講評にはなんて書いてあったの? またいつもの?」
「えーー、うん。ちょっとまってね、……、そう、ここらへん」
私はマウスのホイールをくるくる回して審査員の講評を表示させる。どうやら今回の賞の審査員は四人の現役の作家が行っているらしく、三次審査まで進んだ作品にはその先生方から講評を頂けるのだけども。
一つ一つが私にとってはありがたいお言葉なんだけども、そのどれもが正しく小説家が書いた講評らしく密度も量も素晴らしいモノであったために私が勝手に要約させていただくと……、こうだ。
『文章には光るものがあるけど、キャラが硬くて一辺倒過ぎる。直線だけで絵を描こうとしているから無理が出てしまっている。絵は当然ながら曲線や場合によっては線を使わないことを知るべし』
「は~……」
先ほど――、月が帰ってくる前に一通り目を通してはいたのだけれどもこうして見返すとやはり食らうものがある。
月も真剣な表情で私が頂いた講評に目を通すと、少し黙って指摘をかみ砕いて、そして……
「……また?」
「そー、まただよ~」
そして、眉をひそめて心底納得がいきません、といった表情で呟いた。
「これで何度目だっけ?」
「えっと……。五、いや、六?」
また、というのはなんてことはない。別に比喩でも何でもなく、ただそのままの意味。
「いやぁ、私は成長しないなぁ」
またキャラクターがダメだって言われちゃった。そう言いながら頭を掻いておどけてみる。月から何やら剣呑な気配が流れ出ているからなんだけれども……。効果はどうやらいまひとつらしい。
「違うよ、姉さん。姉さんが成長してないんじゃない。ただ……」
そういって月はパソコンの画面から視線をずらし、私の瞳を覗き込む。
「ただ、こいつらに見る目がないってだけだから。姉さんの小説は、世界で一番面白い。私は、心からそう思ってる」
「月……」
私はそんな月の、妹の言葉になんて返せばいいのか。それがわからないでいる。
私の小説を面白いと言ってくれることに「ありがとう」と答えた方が良いのか。審査員を見下し、バカにする発言をしたことを「ダメだ」と るべきなのか。それともその両方をすべきなのか。しないべきなのか。
私は……
「月。そういう言い方は、ダメだよ」
「姉さん……」
私は、結局どれが正解なのかはわからなかったけれども。けれども月の成長と第三者目線での公平さ、そして何よりそれが人間として正しいと思ったから彼女の言動を窘める。
月は……、そんな私の言葉に一瞬瞳をなぜか蕩けさせ、そしてすぐさま元の様子へと立ち返る。
「……」
なんとなく、今のやり取りで気まずくなった私はメールを閉じて検索エンジンで『小説 キャラクター 作り方』と打ち込んだ。まるで小説を書き始めたばかりの
初心者のように。
「……ん?」
しばしホイールを回せば上から順に「誰でも簡単、小説の書き方」、「キャラクターはこう作る!」、「あなたもこれで天才作家!」みたいな明らかにアレな検索結果が立ち並ぶが……。その中に一つ、興味を引かれるタイトルを発見した。
タイトルは……。
「『天才作家、白峯雫に聞くキャラ作成! 秘訣は……?』なにこれ?」
白峯雫といえば私も大ファンの作家だけれども……。気になった私はそのタイトルをクリックし、記事を表示させた。
「えーっと、なになに?」
冒頭の白峯先生の紹介部分は軽く読み飛ばす。デビュー作に人気作、最新作とは当然知っているから今はいい。
肝心なのは、キャラクターの書き方なんだけれども。
私はインタビュアーの方と白峯先生との該当対談部分を発見し、黙読する。
『白峯先生と言えばやはり、描かれるキャラクターの躍動感ですよね。文章の中だと言うのに、まるで生きているかのような描写には毎回度肝を抜かれます』
『キャラクターは、そうですね。私もなるべく意識して魅力を引き出そうと努力しています。いくらお話が魅力的でも、キャラクターに魅力がなければ読者が離脱してしまいますので』
うぅ、耳が痛い。文章だから痛むべきは眼かもしれないけども、やっぱり耳が痛い。
『なるほど。そんな白峯先生にズバリ、お聞きするのですが……。何か、キャラクターを作るときにコレといった秘訣とか、ございますか?』
『秘訣、秘訣ですか……。そうですねぇ、急に言われますと……あぁ、そうだ』
『ギャル』
「ぎゃる……」
「どうしたの姉さん、急に?」
「あぁ、いや、なんでも」
しまった、と私は口を右手で塞ぐ。月はどうやら学校の課題があるらしく、近くの机で問題を解いているみたいだったけれども、急な私の呟きに反応してこちらを見つめていた。そりゃあ姉が急に「ぎゃる……」なんて言ったらビックリするよね、ごめん。
(えっ、でもギャルって……。どういうこと?)
続きが気になった私は今度は声を漏らさん、と念を入れて右手はそのまま、インタビュー記事を読み進める。
『ギャル、ですか?』
『あぁ、うん。キャラクター、主に主人公を書くときに参考すべきなのはギャルだって私は勝手に思っているんですよ』
『それは、どうして?』
『なんでもいいので有名な少年漫画の主人公を思い浮かべて欲しいんですけども。彼らって大体、コミュニケーション能力が高くて良い意味で自信過剰、溢れる無敵感を持ち、仲間意識が強い。そして流行りにもどこか敏感。……ほら、まんまギャルじゃないですか』
『そう……ですかね?』
『そうなのですよ』
「……」
私は一通り、最後までインタビュー記事を読み込んで、そして頭の中でかみ砕く。
(ギャルかぁ……)
なんとなく、ギャルという単語に学校で今朝、服装検査をしたギャル、天音さんを思い出す。結局あの後、彼女は律儀に五枚もの反省文を書いて提出してくれたのだけれども……。
私としては、尊敬する作家の一人のお言葉だ。それに何回も『キャラクターの魅力不足』が指摘されている立場でもある。次回作にはそれを踏まえたキャラクター造形をしたいのだが。
(だけど、ギャルって……)
はっきり言ってしまって、それは私にとって全く未知の領域だった。生れてこの方、オシャレやメイクだなんてほとんど気にしたことも無いし、なんならうっすらと学校では彼女らに疎まれている側でさえある。
そんな私が、ギャルを参考にキャラクターを作る?
……正気?
(いっそのこと彼女に……。いやでも、今朝もあんな感じだったし多分、私にあまり良い感情は抱いていないだろうなぁ)
やはり、いやでも……。
私は心の中に浮かんだ、自分に都合がよすぎる意見を、それはあり得ないだろう、と頭を横に振ることで否定して……。
しかし視界の隅にあるカレンダーをなんとはなしに見つめる。
(今が七月ってことは……、挑戦できるのは後――)
「――よし」
私はそう呟いて、先ほどまで自身の中に巣食っていた『都合がよすぎるだろう』という正論を追い払うのであった。
「……と。つまりはこういう訳なんだ」
「……つまりは昨日、帰ったら小説の賞の結果が出て。それがダメで、キャラ作るのが苦手だからネット見てたらギャルを参考にしたらいいってどっかの偉い作家が言ってたのを見つけたら私に声を掛けた、と」
「はい……」
「……いいんちょーって割と。いや、なんでもない」
うわぁ、と何とも言えない目でこちらを見つめるクラスのギャルこと、天音さん。その視線に宿っているのは侮蔑か、哀れみか、それとも他の感情か。
正直、そのどれであっても私は否定できない位の事をしている自覚があるので受け入れるしかない。
「んで、なんだっけ? ギャル? ギャルを知りたいって、こっちとしても意味わかんないんだけども……。そもそも教えるもんじゃないって言うか、どっちかってっと勝手に自分からなってくもんだし……」
「あぁ……。なるほど、つまりはギャルは先天性の才能依存というわけですね。まさしく主人公……」
「いや、それとはちょっと、てかだいぶ違うけども。……まぁいいか」
はぁ、と大きなため息を吐き出しながら腰を下ろしている椅子の上で身体を大きく倒す天音さん。先ほどまで教室の中で立っていた私たちだけれども、事情説明の為にと二人で適当に空いていた椅子に腰を掛けたのだが、どうやら正解だったらしい。
彼女が立ったまま同じ動作をしていたら地面にそれはそれは勢いよく倒れ込んでいただろう。
「えぇ~、ギャル? ギャルを教える? 何を教えるっての? メイクとか、ファッションとか? でもそんなの小説書くのに使うかなぁ……。喋り方とかも違いそうだし。tiktokとか撮る、ってのもアレだし」
そういって頭に両手を運び、思いっきり髪をかき乱す天音さん。それだけの動作でふわりとこちらに先ほども感じた花の香りが運ばれてくる。
「ぎゃーっ、わっかんねぇ! もうっ、ギャルって何なんだよ、私が知りたいよ!!」
「あぁ、わかります。自分ではわかっているつもりだったのに、いざ言語化しようとすると上手くいかなくて、自分がわかっていたつもりだっただけなんだな、ってなるの。私も小説を書き始めた頃はそうでした」
「そーじゃないってーの! なんなの、いいんちょーとちゃんと話したこと無かったけど、わりと天然系だったの!?」
「まさか。天然じゃないですよ」
「ホンモノの天然はみんなそー言うんだよ!」
だっは、と大きくため息をついて肩を落とす彼女の姿をじっと見つめる。
しかし声を掛けた自分で言うのもなんだけれども。こんな意味の分からない話を、回想も踏まえてちゃんと聞いてくれるだなんて……。
やはりギャルは魅力的な人間で主人公なのだろうか……?
「だーっ、くっそ、頭沸騰しそう……。あぁ、もうメンドいし考えるの終わり! こっからは脳みそじゃなくて本能で動く!」
「本能??」
「って訳で」
そんなことをどこから目線なのか考えていると、天音さんは急にその場から立ち上がり私の腕を掴み上げる。
「きゃっ!? ちょっと、何を――!?」
「良いから立って、立って。さっさと行くよ!」
「行くってどこへ!?」
私はそんな彼女の急の行動に驚きつつも、為されるままに一緒に立ち上がり尋ねた。
天音さんはこちらの質問を耳にすると「どこに? どこにって……」と呟きながらこちらを向くとニヤリ、と口角を大きく上げた笑みを浮かべ
「そりゃ決まってんじゃん。カラオケ……、行くべ?」
そう言って親指を立てた左手で、グイ、と『行くぞ!』とジェスチャーするのであった。