じりじりと肌を焼くような蝉の声が、山々の静寂を支配していた。
湿った土の匂いが鼻をかすめ、草の葉の先で光がちらつく。
中学二年生の高松 想太は夏休みを利用して、田舎に住む祖父の家に三日間だけ遊びに来ていた。
(あっつ……)
昼下がり、暇つぶしと涼を求めて森の奥へと足を進めていた彼は、鬱蒼とした木々の間に、崩れかけた鳥居を見つけた。
汗でずり落ちた眼鏡を上げて想太は鳥居を見上げる。崩れてはいるが、美しい。
苔むした石段の先には、傾きかけた拝殿。完全に人の手の入らなくなった——廃神社だ。
(廃神社……初めて見た)
好奇心に駆られて、想太は静かに境内へと足を踏み入れた。巨大な御神木に手を当てる。
(立派だなぁ)
不意に、木漏れ日の角度が変わり、影が長く伸びた。ぴたりと風が止み、蝉の声が遠のく。
世界から音が消えた。
「……っ」
背後で、衣擦れに混じって細い吐息が聞こえた。
弾かれたように振り返った想太の視線の先。陽の欠片が落ちる本殿の陰に、ひとりの少女が立ち尽くしていた。
彼女は鮮やかな朱の着物を纏い、黒髪のボブに一本だけ白い筋が走っている。想太と同い年……いや、少し年上にも見える。
風に揺れる髪の隙間から、ふさふさとした獣の耳がのぞいていた。
そして、その金色の瞳は、どこか眠たげで——それでいて、想太をじっと見つめていた。
(わっ。猫耳と着物だ)
想太が目を見開いた瞬間、彼女は小さく息を呑み、慌てて本殿の影に隠れようとする。
あまりに非現実的なその姿に、想太は「コスプレの撮影か何かだろう」と結論づけた。邪魔をしては悪いと思い、足早に神社を去ろうとするが、
「……あ、あの」
彼女がおずおずと、柱の陰から顔を出した。背後で、ふわりとした長い尻尾の先が不安げに揺れている。
「お参り、ですか……」
「……え?」
想太が思わず足を止めて返すと、少女の表情がぱっと華やいだ。
「私のこと、見えてる……」
「ん?」
「返事、した……」
少女の呟きに、想太の背筋に冷たいものが走る。
(もしかして、人間じゃない? 幽霊……?)
後ずさりする想太を追うように、彼女は意を決して本殿の陰から全身を現した。
草履と足袋を履いた足が、確かに地面を踏み締めている。
足がある、なら幽霊ではない。
想太は必死に自分に言い聞かせた。
「……はじめて、です」
「え?」
「私、人間さんの男の子とお話しするの……はじめてで」
その声は、消え入りそうなほどに掠れていたが、不思議と胸に染み入るような温かさがあった。
(猫耳、着物、尻尾――。アニメかなにかのそうい
う設定なのかな。ずいぶん成り切ってるな)
冷静さを取り戻すと、冷めた思考が頭をもたげる。見知らぬ誰かのごっこ遊びに付き合う義理はない。
想太が冷淡に背を向けると、彼女は慌てた様子で声を張り上げ、想太の足を止めさせた。
「待ってください。私は、この神社の神様です。カレハと申します」
「へえ……」
想太には、あいにくサブカルチャーの知識が乏しい。『猫耳神様カレハ』――そんな名前のキャラクターが、どこかの作品に実在するのだろう。
正体が幽霊だろうと自称神様だろうと、今はただこの奇妙な状況から逃れたかった。
「じゃ、えーと、頑張ってください。僕もう行かなきゃ」
石段へ足をかけたその時、カレハの声が鋭く響いた。
「あ、あの! ちょっと見てください!」
肩で息を弾ませながら、カレハは本殿の裏から古びた冊子を二冊抱えて駆け寄ってきた。
「実は私これで人間さんのことを勉強しているんです!」
差し出されたのは、紙が茶色く変色した昭和の漫画
雑誌だ。掠れた文字で『月刊 ミロワール』と書かれた表紙には、異様に大きな瞳を輝かせ、三角の口で微笑む少女が描かれていた。
「……漫画?」
「はい、『人間説明書』です!」
胸を張り、自信満々に言い切るカレハ。高揚した彼女の獣耳がヒクヒクと小刻みに動き、柔らかな尻尾が弧を描く。その動きには、作り物とは思えないほど生々しい躍動感があった。
「これで人間さんがどんな生き物なのか、必死にお勉強しました。そして――」
彼女は頬を火照らせ、宝物でも抱えるように雑誌を胸元でぎゅっと握りしめる。
「これにあなたが描かれてます……」
「えっ、僕が?」
「これ、眼鏡を掛けた男の子です!」
勢いよく開かれたページを覗き込む。そこにいたのは、確かに眼鏡をかけた想太と同年代の少年だったが、共通点はそれだけだ。
あまりの飛躍に眉をひそめてカレハを見れば、そこには一点の曇りもない、純粋な好奇心に満ちた熱い視線があった。
至近距離で見る金色の瞳は宝石のように美しく、透き通るような白い肌を、午後の陽光が優しく縁取っている。
不意に、想太の頬に熱が上った。
(すご……有名なコスプレイヤーなのかも)
「それで……お願いがあります」
カレハは必死な形相で言葉を紡ぐ。
「この『人間説明書』に書いてある恋の仕方を、あなたと一緒に実践したいんです!」
「な、なにそれ」
想太の当惑に、カレハは小さく肩をすくめた。心細げに耳を伏せ、尻尾の力も抜けていく。
「ダメ……でしょうか? もうこの神社には誰も参拝にいらしてくれなくなってしまって……いつか、誰か来てくれないかなって。いつか、人間さんとお話したいなって……ずっと、待っていたんです。そうしたら、やっと来てくれて……一郎さま」
彼女の潤んだ瞳が、再び漫画の紙面へと落とされる。
そこには、眼鏡の少年が「やあ、おはよう! 僕の名前は一郎だよ!」と、眩い笑顔を振りまくコマがあった。
「あの……僕は想太って名前なんだけど……」
「……! そーたさま!」
金の瞳が瞬く間に歓喜へと塗り替えられる。花が開くような柔らかな微笑。
(可愛いは、ズルい)
反射的に名乗ってしまったことを一瞬後悔したが、彼女の喜びようを前にすると、その思考も霧散した。
「そ、想太でいいよ」
「想太……さん」
彼女は噛み締めるように、何度もその名を呟く。甘く、高い声。
これまでの人生で、こんなにも慈しむように名前を呼ばれたことがあっただろうか。呼ばれるたびに、胸がむず痒い感覚に襲われる。
「えっと、ごめん、全然意味がわからないんだけど、これ、なんかの企画? どこかにカメラあるの?」
「……企画? カメラはありません」
「じゃ、どういうこと?」
カレハは困り果てたように眉を下げた。連動するように尻尾も力なく垂れ、耳もぺたりと寝てしまう。その、世界の終わりのような悲しげな佇まいを前にして、想太はつい口を滑らせてしまった。
「いや、あの、いいよ。いいけど、何すればいいの?」
「ありがとうございます!」
弾かれたように顔を上げ、カレハが勢いよく頭を下げる。獣耳がぴくんと跳ね、尻尾がちぎれんばかりに左右に振られた。そのあまりに滑らかな動作を眺めながら、想太は「今のコスプレ技術はすごいな」と、現実的な逃げ道を探していた。
カレハは眠たげだった瞳をキリリと引き締め、決意を込めて漫画を開いた。
そこには、丁寧な手書き文字でこう記されていた。
“恋のはじまりは、手を繋ぐこと”
「て、手を繋ぐ……」
想太の心臓が、どくんと大きく跳ねた。彼の人生で、恋愛的な文脈において異性の手に触れた経験など、皆無だ。
「はい! 手です! こうして、私たちが――ひとつになる瞬間です!」
「え、えぇ……?」
邪気のない満開の笑顔で、カレハは自分の両手をがっちりと組んで見せる。その仕草に込められた、あまりに純真で無垢な期待。想太は息を詰まらせ、激しく動揺した。
(お、落ち着け僕……! たかが、そう。握手!)
肺いっぱいに空気を吸い込んでも、早鐘を打つ鼓動は一向に鎮まらない。
「その、いきなりはちょっと……」
「『人間説明書』には、こうあります。"愛は言葉より行動で示すこと"」
躊躇する想太を待たず、カレハは彼の右手をそっと握りしめた。
伝わってきたのは、確かな温もり。
細くしなやかな指が、想太の節くれだった指に絡まり、指先まで熱が伝播していく。
心臓が激しく暴れた。顔が熱い。
カレハがその顔を覗き込んでくる。
「ひゃ、ひゃくぱーせんとの赤面……! 『人間説明書』の通りです! 完璧です!」
カレハは無邪気に瞳を輝かせた。
「ち、違う! これはその、暑いだけで!」
必死の弁明も、夏の風に無惨に掻き消される。
「ふふ……想太さん……」
カレハの声が密やかに、熱を帯びて鼓膜を震わせる。
「私、想太さんが好きです」
「え、えええ!?」
思考回路が完全に焼き切れた。
手の熱、言葉の重み、そして目の前にある真剣な金の瞳。そのすべてが怒涛の勢いで押し寄せ、想太の頭の中を真っ白に染め上げた。
「『人間説明書』には、こうも書いてあります」
カレハは絡めた想太の手を、自らの胸元へと引き寄せた。
「"ときめきは、愛の証"」
刹那、世界のすべての雑音が消え去った。
彼女の囁きだけが、いつまでも脳裏で反響し続ける。
想太は息をすることさえ忘れていた。
耐えきれずに大きく息を吸い込んだ瞬間、手の甲を通じて、彼女のトク、トク、という規則正しい鼓動が流れ込んできた。それが自分自身の心音と共鳴し、想太は弾かれたように手を引いた。
支配していた静寂が破れ、蝉の声が再び世界を塗り潰す。
真夏の光の中で、想太はただ立ち尽くすしかなかった。
カレハの金の瞳がぱちくりと瞬く。
「今日の実践は以上です……。明日もまた来てくださいね、想太さん」
カレハは、何事もなかったかのように柔らかく微笑んだ。
少年の胸の中で、初めての「ときめき」という名の嵐が、静かに、けれど確実に全てを巻き上げていった。