この恋、人間説明書に書いてますか?   作:浮月 愁

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第1話 手を繋ぐ

じりじりと肌を焼くような蝉の声が、山々の静寂を支配していた。

湿った土の匂いが鼻をかすめ、草の葉の先で光がちらつく。

 

中学二年生の高松 想太は夏休みを利用して、田舎に住む祖父の家に三日間だけ遊びに来ていた。

 

(あっつ……)

 

昼下がり、暇つぶしと涼を求めて森の奥へと足を進めていた彼は、鬱蒼とした木々の間に、崩れかけた鳥居を見つけた。

汗でずり落ちた眼鏡を上げて想太は鳥居を見上げる。崩れてはいるが、美しい。

苔むした石段の先には、傾きかけた拝殿。完全に人の手の入らなくなった——廃神社だ。

 

(廃神社……初めて見た)

 

好奇心に駆られて、想太は静かに境内へと足を踏み入れた。巨大な御神木に手を当てる。

 

(立派だなぁ)

 

不意に、木漏れ日の角度が変わり、影が長く伸びた。ぴたりと風が止み、蝉の声が遠のく。

世界から音が消えた。

 

「……っ」

 

背後で、衣擦れに混じって細い吐息が聞こえた。

弾かれたように振り返った想太の視線の先。陽の欠片が落ちる本殿の陰に、ひとりの少女が立ち尽くしていた。

 

彼女は鮮やかな朱の着物を纏い、黒髪のボブに一本だけ白い筋が走っている。想太と同い年……いや、少し年上にも見える。

風に揺れる髪の隙間から、ふさふさとした獣の耳がのぞいていた。

そして、その金色の瞳は、どこか眠たげで——それでいて、想太をじっと見つめていた。

 

(わっ。猫耳と着物だ)

 

想太が目を見開いた瞬間、彼女は小さく息を呑み、慌てて本殿の影に隠れようとする。

あまりに非現実的なその姿に、想太は「コスプレの撮影か何かだろう」と結論づけた。邪魔をしては悪いと思い、足早に神社を去ろうとするが、

 

「……あ、あの」

 

彼女がおずおずと、柱の陰から顔を出した。背後で、ふわりとした長い尻尾の先が不安げに揺れている。

 

「お参り、ですか……」

「……え?」

 

想太が思わず足を止めて返すと、少女の表情がぱっと華やいだ。

 

「私のこと、見えてる……」

「ん?」

「返事、した……」

 

少女の呟きに、想太の背筋に冷たいものが走る。

 

(もしかして、人間じゃない? 幽霊……?)

 

後ずさりする想太を追うように、彼女は意を決して本殿の陰から全身を現した。

草履と足袋を履いた足が、確かに地面を踏み締めている。

足がある、なら幽霊ではない。

想太は必死に自分に言い聞かせた。

 

「……はじめて、です」

「え?」

「私、人間さんの男の子とお話しするの……はじめてで」

 

その声は、消え入りそうなほどに掠れていたが、不思議と胸に染み入るような温かさがあった。

 

(猫耳、着物、尻尾――。アニメかなにかのそうい

う設定なのかな。ずいぶん成り切ってるな)

 

冷静さを取り戻すと、冷めた思考が頭をもたげる。見知らぬ誰かのごっこ遊びに付き合う義理はない。

想太が冷淡に背を向けると、彼女は慌てた様子で声を張り上げ、想太の足を止めさせた。

 

「待ってください。私は、この神社の神様です。カレハと申します」

「へえ……」

 

想太には、あいにくサブカルチャーの知識が乏しい。『猫耳神様カレハ』――そんな名前のキャラクターが、どこかの作品に実在するのだろう。

正体が幽霊だろうと自称神様だろうと、今はただこの奇妙な状況から逃れたかった。

 

「じゃ、えーと、頑張ってください。僕もう行かなきゃ」

 

石段へ足をかけたその時、カレハの声が鋭く響いた。

 

「あ、あの! ちょっと見てください!」

 

肩で息を弾ませながら、カレハは本殿の裏から古びた冊子を二冊抱えて駆け寄ってきた。

 

「実は私これで人間さんのことを勉強しているんです!」

 

差し出されたのは、紙が茶色く変色した昭和の漫画

雑誌だ。掠れた文字で『月刊 ミロワール』と書かれた表紙には、異様に大きな瞳を輝かせ、三角の口で微笑む少女が描かれていた。

 

「……漫画?」

「はい、『人間説明書』です!」

 

胸を張り、自信満々に言い切るカレハ。高揚した彼女の獣耳がヒクヒクと小刻みに動き、柔らかな尻尾が弧を描く。その動きには、作り物とは思えないほど生々しい躍動感があった。

 

「これで人間さんがどんな生き物なのか、必死にお勉強しました。そして――」

 

彼女は頬を火照らせ、宝物でも抱えるように雑誌を胸元でぎゅっと握りしめる。

 

「これにあなたが描かれてます……」

「えっ、僕が?」

「これ、眼鏡を掛けた男の子です!」

 

勢いよく開かれたページを覗き込む。そこにいたのは、確かに眼鏡をかけた想太と同年代の少年だったが、共通点はそれだけだ。

あまりの飛躍に眉をひそめてカレハを見れば、そこには一点の曇りもない、純粋な好奇心に満ちた熱い視線があった。

至近距離で見る金色の瞳は宝石のように美しく、透き通るような白い肌を、午後の陽光が優しく縁取っている。

不意に、想太の頬に熱が上った。

 

(すご……有名なコスプレイヤーなのかも)

 

「それで……お願いがあります」

 

カレハは必死な形相で言葉を紡ぐ。

 

「この『人間説明書』に書いてある恋の仕方を、あなたと一緒に実践したいんです!」

「な、なにそれ」

 

想太の当惑に、カレハは小さく肩をすくめた。心細げに耳を伏せ、尻尾の力も抜けていく。

 

「ダメ……でしょうか? もうこの神社には誰も参拝にいらしてくれなくなってしまって……いつか、誰か来てくれないかなって。いつか、人間さんとお話したいなって……ずっと、待っていたんです。そうしたら、やっと来てくれて……一郎さま」

 

彼女の潤んだ瞳が、再び漫画の紙面へと落とされる。

そこには、眼鏡の少年が「やあ、おはよう! 僕の名前は一郎だよ!」と、眩い笑顔を振りまくコマがあった。

 

「あの……僕は想太って名前なんだけど……」

「……! そーたさま!」

 

金の瞳が瞬く間に歓喜へと塗り替えられる。花が開くような柔らかな微笑。

 

(可愛いは、ズルい)

 

反射的に名乗ってしまったことを一瞬後悔したが、彼女の喜びようを前にすると、その思考も霧散した。

 

「そ、想太でいいよ」

「想太……さん」

 

彼女は噛み締めるように、何度もその名を呟く。甘く、高い声。

これまでの人生で、こんなにも慈しむように名前を呼ばれたことがあっただろうか。呼ばれるたびに、胸がむず痒い感覚に襲われる。

 

「えっと、ごめん、全然意味がわからないんだけど、これ、なんかの企画? どこかにカメラあるの?」

「……企画? カメラはありません」

「じゃ、どういうこと?」

 

カレハは困り果てたように眉を下げた。連動するように尻尾も力なく垂れ、耳もぺたりと寝てしまう。その、世界の終わりのような悲しげな佇まいを前にして、想太はつい口を滑らせてしまった。

 

「いや、あの、いいよ。いいけど、何すればいいの?」

「ありがとうございます!」

 

弾かれたように顔を上げ、カレハが勢いよく頭を下げる。獣耳がぴくんと跳ね、尻尾がちぎれんばかりに左右に振られた。そのあまりに滑らかな動作を眺めながら、想太は「今のコスプレ技術はすごいな」と、現実的な逃げ道を探していた。

 

カレハは眠たげだった瞳をキリリと引き締め、決意を込めて漫画を開いた。

そこには、丁寧な手書き文字でこう記されていた。

 

“恋のはじまりは、手を繋ぐこと”

 

「て、手を繋ぐ……」

 

想太の心臓が、どくんと大きく跳ねた。彼の人生で、恋愛的な文脈において異性の手に触れた経験など、皆無だ。

 

「はい! 手です! こうして、私たちが――ひとつになる瞬間です!」

「え、えぇ……?」

 

邪気のない満開の笑顔で、カレハは自分の両手をがっちりと組んで見せる。その仕草に込められた、あまりに純真で無垢な期待。想太は息を詰まらせ、激しく動揺した。

 

(お、落ち着け僕……! たかが、そう。握手!)

 

肺いっぱいに空気を吸い込んでも、早鐘を打つ鼓動は一向に鎮まらない。

 

「その、いきなりはちょっと……」

「『人間説明書』には、こうあります。"愛は言葉より行動で示すこと"」

 

躊躇する想太を待たず、カレハは彼の右手をそっと握りしめた。

伝わってきたのは、確かな温もり。

細くしなやかな指が、想太の節くれだった指に絡まり、指先まで熱が伝播していく。

心臓が激しく暴れた。顔が熱い。

カレハがその顔を覗き込んでくる。

 

「ひゃ、ひゃくぱーせんとの赤面……! 『人間説明書』の通りです! 完璧です!」

 

カレハは無邪気に瞳を輝かせた。

 

「ち、違う! これはその、暑いだけで!」

 

必死の弁明も、夏の風に無惨に掻き消される。

 

「ふふ……想太さん……」

 

カレハの声が密やかに、熱を帯びて鼓膜を震わせる。

 

「私、想太さんが好きです」

「え、えええ!?」

 

思考回路が完全に焼き切れた。

手の熱、言葉の重み、そして目の前にある真剣な金の瞳。そのすべてが怒涛の勢いで押し寄せ、想太の頭の中を真っ白に染め上げた。

 

「『人間説明書』には、こうも書いてあります」

 

カレハは絡めた想太の手を、自らの胸元へと引き寄せた。

 

「"ときめきは、愛の証"」

 

刹那、世界のすべての雑音が消え去った。

彼女の囁きだけが、いつまでも脳裏で反響し続ける。

想太は息をすることさえ忘れていた。

耐えきれずに大きく息を吸い込んだ瞬間、手の甲を通じて、彼女のトク、トク、という規則正しい鼓動が流れ込んできた。それが自分自身の心音と共鳴し、想太は弾かれたように手を引いた。

 

支配していた静寂が破れ、蝉の声が再び世界を塗り潰す。

真夏の光の中で、想太はただ立ち尽くすしかなかった。

カレハの金の瞳がぱちくりと瞬く。

 

「今日の実践は以上です……。明日もまた来てくださいね、想太さん」

 

カレハは、何事もなかったかのように柔らかく微笑んだ。

少年の胸の中で、初めての「ときめき」という名の嵐が、静かに、けれど確実に全てを巻き上げていった。

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