祖父の家で迎えた、二日目の朝。
想太はシーツに包まれながら、昨日の出来事を幾度も反芻していた。
(待ってるかな。あのカレハって子……いや、それより手を繋いだんだよな、いきなり)
無意識に、右手の掌を握りこむ。まだあの感触が、皮膚のすぐ下にこびりついている気がした。
細くて、柔らかくて、折れてしまいそうなほど頼りなかった指先。それほど大きくは変わらないと思っていた。いつの間に自分の手は女の子のそれより大きくなってしまったんだ。
触れた瞬間のあの熱が、夢の残滓のように鮮明に蘇り、想太は顔を枕に埋めた。
(……落ち着け。相手は自認神様のコスプレ女子だぞ)
自分を納得させるための理屈を並べ立てても、胸の奥で早鐘を打つ高鳴りを抑え込むことはできない。
都会の学校の中では、誰も自分を特別視などしない。けれど、昨日出会ったばかりのあの少女は、自分を見つけて、あんなにも弾けるように笑ってくれた。
窓の外に広がる夏の景色が、昨日よりも少しだけ、鮮やかに色づいて見えた。
昼下がり。想太は再び、あの廃神社へと続く山道に立っていた。
行くつもりはなかった。行くべきではないという自制心もあった。だが、気づけば体は磁石に引かれるように、深い緑の奥へと歩を進めていた。
境内に入ると、剥げ落ちた朱塗りの柱が、容赦ない真夏の光を反射して輝いている。
拝殿へと続く石段の上。そこには、膝を抱えて丸くなっているカレハの姿があった。
「想太さん!」
彼女が顔を上げた瞬間、ふわりと黒い尻尾が大きく弧を描く。
「……来てくださって、うれしいです。私、待っていました……」
掠れた声に滲む純粋な喜び。自分の軽率さを悔やんでいたはずの想太の思考は、その無垢な笑顔を見た瞬間に霞んだ。胸の鼓動が、昨日よりも激しく肋骨を叩く。
(来て良かった……)
想太はその感情が悟られないよう、出来るだけ無表情を貫く。
カレハは、膝の上で再び例の古びた『人間説明書』を広げた。
「では、本日は第二章の実践です」
彼女が指差したページ。そこには、大仰な飾り文字でこう記されていた。
"愛を深める、初めての抱擁"
「抱擁……って、ハ、ハグ!?」
想太の裏返った叫びが、境内の静寂を切り裂いた。
貫こうとしていた無表情は呆気なくも崩れ去った。
「ちょ、ちょっと待って! 手を繋ぐのもあんなに緊張したのに、次はいきなりハグって……!」
カレハは弾かれたように瞬きをし、いたたまれなくなったように俯いた。
「えっと……私も……少し緊張です。でも、『言葉より行動で伝える』と、書いてありますからには……その……」
細い声音は微かに震え、頭上の獣耳の先が、彼女の不安を代弁するようにぴくぴくと揺れている。
想太は思わず息を呑んだ。
前髪の隙間から覗く金色の瞳が、ひたむきに想太を捉えていた。
拒絶されることを恐れ、それでもなお一歩を踏み出そうとする、祈るような眼差しだった。
「……は、恥ずかしいから止めようよ……」
「……嫌です! せっかく目の前に一郎さまがいるのに!」
「僕は想太っ」
「お願いします!」
カレハが凛とした声で宣言し、静かに目を閉じた。
扇のように長い睫毛が、吹き抜ける微風に揺れる。一文字に結んだ唇とマシュマロのような頬が、みるみるうちに淡い桃色に染まっていく。
(ハグ……ハグ……え、いいの、かなぁ?)
想太は生唾を飲み込み、重い足取りで一歩、彼女の領域へと踏み出した。
近づくにつれ、むせ返るような草の匂いの中に、清涼な檜の香りが混じるのを感じる。それは、どんな香水よりも深く心に染み渡る、澄んだ香りだった。
ドクンドクンと、耳の下で血流の音がうるさいほどに響く。
「い、いくよ?」
「はい」
「本当にいくよ?」
「どうぞ」
震える腕を伸ばし、彼女の細い背にそっと触れた。
着物の柔らかな質感越しに伝わってきたのは、驚くほど確かな、生きている者の体温だった。
その熱が自分の肌へと流れ込んでくるたびに、周囲の蝉の声が遠のいていく。
腕の中に収まったカレハは、折れてしまいそうなほど華奢だった。
密着した胸元は、彼女が呼吸をするたびに上下し、想太の胸を優しく押す。柔らかな髪が想太の首筋をくすぐった。
(……この距離、やばい)
自分の鼓動が、もはや自分ひとりのものではないような気がした。あまりの激しさに、密着した彼女にまで響いているのではないかと気が気でない。
沈黙の中、カレハが想太の肩に顔を寄せたまま、吐息のように囁いた。
「想太さんの心臓、速いです……。私のより、ずっと」
「……いや、だって……」
声が掠れ、まともな言葉にならない。恥ずかしさと、名前のつかない温かな感情が胸の中で解け合い、思考を麻痺させていく。
しばしの間、境内に流れるのは、渡る風の音と、重なり合う二つの鼓動だけだった。
時間が永遠の一瞬となって世界を止めているかのようだった。
やがて、カレハが胸元で小さく安堵の息を吐いた。
「……ありがとうございます。これが、人間さん
の"愛"なのですね」
想太は何も答えられなかった。ただ、腕の中の小さな体温を、消えないように抱きしめていることしかできなかった。その温もりは、腕を離してもずっと胸の奥に居座り続けるだろうという予感があった。
夏の風が吹き抜け、遠くで鳥が鋭く一声鳴いた。
その音が、魔法を解く合図のように響く。
カレハはゆっくりと顔を上げ、花が綻ぶように微笑んだ。
「想太さんといると、世界が静かになります」
その言葉に、想太の心臓が不規則に跳ねた。
自分も全く同じことを考えていた。鏡合わせのような感情がそこにあることに、目眩を覚える。
彼女の金の瞳が、傾き始めた陽の光を吸い込んで、万華鏡のようにきらめいた。
言葉はもう必要なかった。
照れくささと、慈しみのようなものが入り混じった、優しい沈黙がふたりの間に流れる。
もっと、この子のことが知りたい。
想太の胸に、明確な肯定の感情が根を下ろした。
二人は並んで石段に腰を下ろし、波打つ夏の木々を眺めていたが、想太は意を決して、隣の少女へと向き直った。
「あのさ」
「はい……」
「その猫耳としっぽ、取ったら?」
「猫耳としっぽ?」
カレハはきょとんとした表情で、想太の言葉をなぞるように首を傾げた。
「猫耳としっぽ」
想太が、その精巧な作り物を確かめようと、後ろに回る尻尾へ手を伸ばす。すると、尻尾は生き物のような意志を持って、するりと想太の指先を避けた。
「あ、そこ触られるのは少し苦手です」
「えっ?」
「……耳もあまり……付け根ならいいですよ」
カレハは無防備に、その頭を想太の方へと差し出した。
「えっ? えっ?」
混乱しながらも、想太は恐る恐るその耳の付け根に触れた。
指先に伝わったのは、カチューシャの硬い感触ではなかった。
頭蓋と皮膚が滑らかに繋がり、隆起した、確かな肉の感触。そして、そこからはドクドクと血の通った、熱い拍動が伝わってくる。
「えっ!? は!?」
指を這わせ、その接合部を必死に探る。探れば探るほど、それは紛れもなく「彼女の体の一部」であった。想太の指先が当たるたび、カレハはうっとりと目を細めた。
「ふぁ〜気持ちいいです〜」
「待って! 待って! 君は何? なんなの!?」
得体の知れない恐怖と驚愕に、想太は弾かれたように体を引いた。極上のナデナデを急に中断され、カレハは不満げに眉を寄せる。
「えーと……はい、稲荷神です。昔はたくさんの人が、お米が美味しく実りますようにって私にお祈りしてたんですよ。それと、私は猫ではなく狐です」
平然と言ってのける彼女を前に、想太の視線は泳ぎ、呼吸が荒くなる。カレハはそんな彼を気にする様子もなく、再び自分の頭を差し出し、控えめに指を差した。
「あの、よろしければ……もう一度、ここを……」
「わあ、わぁあ! わぁぁーーーー!!」
限界だった。想太は立ち上がると、もつれる足で石段を転がり落ちるように駆け下りた。途中で派手に転倒するが、痛みを感じる余裕すらない。
「想太さん……?」
背後から届く怪訝そうな声を振り返ることもせず、想太は無我夢中で境内を脱し、逃げ去った。
残されたカレハは、差し出した手の行き場を失い、目をぱちくりとさせて立ち尽くす。
「想太さん……」
一方、逃げる想太の頭の中は、巨大な濁流のようなパニックに飲み込まれていた。
喉を焼く熱い息。脳を酸欠が襲い、視界が真っ赤に燃える。何も考えられない。
まさか、本物の――。
冗談でもコスプレでもなく本物の神様だったなんて!