この恋、人間説明書に書いてますか?   作:浮月 愁

3 / 3
第3話 デート

翌朝、微睡の中で想太が最初に思い浮かべたのは、カレハの柔らかな微笑みだった。

昨日のパニック。叫び声を上げ、無様に逃げ去った自分。

人智を超えた存在への恐怖は事実だった。けれど、それ以上に、彼女を一人残して背を向けた後悔が、じりじりと胸の奥を焦がしている。

 

傷ついていないだろうか。

 

指先に残る、あの熱い拍動。

手を繋ぎ、抱きしめた。あんなふうに誰かと心を通わせるように触れ合ったのは、人生で初めてだった。

そして――あんなにも神秘的な存在が、ただの人間である自分をまっすぐに見つめ、求めてくれたことが、何よりも誇らしく、嬉しかったのだ。

 

カレハの髪が纏っていた清廉な香りと、腕の中にあった確かな温もりが、まだ残っている。

まぶたの裏に焼きついた、あの愛らしい耳。感情に合わせて揺れる尻尾。震えていた肩。

思い出すたび、心臓が熱を帯びて大きく跳ねる。

 

けれど、今日は、帰る日だ。

静かな部屋に、母親からの電話が鳴り響いた。

『夕方、駅まで迎えに行くから。忘れ物しないように支度してね』

受話器越しに聞いた日常の声。

けれど。

 

(あの子に、もう一度会いたい。会って……謝らなきゃ)

 

焦燥に駆られながら荷物を詰め込み、弾かれたように神社へ向かった。

昨日よりも空は高く、突き抜けるような青。蝉の声は、まるで命を燃やし尽くすような音で鳴り響いている。

夏の光が、零れ落ちる時間を急かすように、想太の背中を無慈悲に照りつけていた。

石段を息を切らして登りきると、そこに彼女はいた。

昨日と同じ朱色の着物が、木漏れ日の中で幻想的なコントラストを描いている。

 

「想太さん……」

 

彼女がゆっくりと立ち上がる。いつもの控えめな笑顔を浮かべてはいるが、その瞳の奥には、薄い緊張を張り詰めていた。

 

「今日も来てくれたんですね」

「うん、どうしても……もう一度、会いたくて」

 

想太の言葉に、カレハの耳がぴくんと反応した。

思わず口をついて出た本音に、想太自身も驚く。けれど、さらけ出した素直な気持ちが追い風となり、わだかまりを今なら越えていける気がした。

二人は一瞬、吸い寄せられるように視線を交わし、同じタイミングで言葉を発した。

 

「昨日は……!」

「昨日の……ハグのことなんですけど!」

 

言葉が重なる。

カレハの予期せぬ勢いに、想太はたじろいで身を引いた。

 

「え? な、なに?」

「順番、間違えちゃってたんです!」

 

カレハは顔を真っ赤に染め、『人間説明書』のページを激しくめくった。

 

「本当は、『デート』が先で……『ハグ』はそのあとなんです! 何度も読んだのに! 間違えてしまうなんて……」

「え……」

「だ、だから今日は、わ、私と、デートしてくれませんかっ!」

 

必死の形相で、カレハが深く頭を下げる。その拍子に獣耳が前に垂れ、尻尾が地面を叩く。

想太は思わず吹き出しそうになった。昨日、自分が叫んで逃げたことなど、彼女の中ではこの「順番のミス」という重大事態に比べれば些細なことなのだろうか。

その懸命さが愛おしくて、想太の胸にじんわりと温もりが広がった。

 

「いいよ。デート、しよう」

 

想太の承諾に、カレハの耳がぴょんと跳ね、その顔がぱあっと輝いた。

 

「や、やった……! じゃなくて……あ、ありがとうございます!」

 

想太は、カレハの弾むような足取りに導かれ、森の奥へと分け入っていった。

鳥のさえずりと葉擦れの音に包まれ、やがて、巨木の根元にぽっかりと口を開けた洞窟へと辿り着いた。

 

「ここ、私の秘密の場所です」

 

カレハの声に誇らしげな色が混じる。足を踏み入れると、外界の騒がしさが一瞬で消えた。

暗闇の中、壁に埋まった鉱石が青白い光を放ち、まるで地下に星空が閉じ込められたような、息を呑む光景が広がっていた。

 

「うわ……すごい」

「きれいです。夜の光が眠ってるんです」

 

洞窟の最奥。ひんやりとした静寂の中で、二人は肩を並べて座った。真夏だというのに、そこには秋の夜のような涼気が満ちていた。

鉱石の淡い反射が、カレハの横顔を照らし出す。

金色の瞳が、その光を宿して静かに揺れていた。

 

「カレハ、さん」

「はい」

「僕、今日……帰るんだ。都会に」

 

想太の告白が、水面に落ちた石のように波紋を広げ、静寂を落とす。

カレハの小さな肩が、目に見えて震えた。

 

「そう、なんですね……。もう、来ないんですか?」

「来るよ。また、来る。約束する」

 

想太の強い決意に、カレハは寂しげに微かな微笑を浮かべた。

 

「実は……今日は、もう来ていただけないと思ってたんです……」

「えっ」

「昨日、私の耳に触れてひどく驚いてらしたので」

 

やはり、彼女は傷ついていた。それを隠し、必死に「人間説明書」を盾にしてデートに誘ってくれたのだ。カレハの声が、微かな震えを帯びて上ずる。

 

「私が神様だと……人間さんは怖いのでしょうか」

「そんな……」

「神社に誰も来なくなったのは、人間さんが神様を嫌いになったからなのでしょうか」

「ちが……」

「また誰も来なくなると思って……とても……怖かった……」

 

堰を切ったように溢れ出した彼女の心。その瞳から、大粒の涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。

 

「……今日来てくれて、嬉しかったです……ありがとう……ございます……」

 

潤んだ瞳で笑おうとするカレハ。

想太の胸は、千切れるような罪悪感といじらしさで締め付けられた。どんな言葉を尽くして言い訳をするよりも、今の彼女には――。

 

「絶対来るから。また! 絶対!」

 

カレハは嬉しそうに鼻をすすり、着物の袖で涙を拭った。そして、ふいに、想太の袖を震える指先でそっとつまんだ。

 

「人間説明書には……"デートの終わりには、約束を交わす儀式をする"って」

「え……」

「"キス"です。」

 

カレハの頬が、みるみるうちに赤く染まる。その熱が伝染するように、想太の顔も火照っていく。

彼女の耳は細かく震え、視線は地面を這ったままだ。

そのあまりに純粋な恥じらいが、胸が苦しくなるほど愛おしかった。

想太は緊張で震える手を固く握りしめ、そっと彼女の頬に掌を添えた。

 

「キ、キス……約束」

 

囁きとともに、想太は彼女の頬へとゆっくり顔を寄せた。

柔らかな肌に、自分の唇が触れる。

ほんの一瞬。

けれど、その一瞬は、想太にとって永遠の一瞬だった。

想太は弾かれたように顔を引くと、真っ赤になった顔を背けて視線を泳がせる。

 

「これが……キスですか?」

 

カレハは、想太の唇が触れた場所を指先でなぞり、不思議そうに首を傾げた。

 

「想太さん、"人間説明書"に書かれているキスはここに……」

 

彼女が、自らの淡い桜色の唇を指さす。

しかし、度重なる緊張と、汗が引いた後の冷えが混ざり合い、想太の体はガクガクと小刻みに震えていた。

 

「か、勘弁してよ……これ以上は恥ずかしいよ」

 

情けない声を上げる想太を見て、カレハはふふと小さく笑った。

 

「確かに、少し恥ずかしいです……でも、胸の奥が、ぽかぽかして……幸せな気持ちです」

 

カレハは想太の震える手を取り、その指先を自身の口元へと引き寄せた。

 

「では、次に会った時は、ここに……」

「……っ」

「……これも、約束です」

 

上目遣いで、射抜くように見つめてくるカレハ。想太は息を呑み、喉を鳴らした。

全身を熱い血が駆け巡り、心臓が爆音を立てる。

指先に伝わる、吸い付くような柔らかさと温もり。

 

「あ……」

 

たまらず手を引くと、カレハは満足げに、ゆっくりと立ち上がった。

 

「行きましょう。想太さん」

 

洞窟を抜けると、夕暮れの風が凪ぎ、木々を優しく揺らした。

カレハの黒髪が、沈みゆく黄金の光を浴びて、神々しいほどにきらめいている。

 

「想太さん。私、ずっとここで待っています」

「う、うん。また来年、絶対に会いに来る」

 

想太は何度も振り返りながら、夕闇に溶けゆく影を、消えない刻印のように胸の奥へと焼きつけた。

 

夏の終わりの空が、優しく彼らの恋を見守っていた。

 

(完)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。