翌朝、微睡の中で想太が最初に思い浮かべたのは、カレハの柔らかな微笑みだった。
昨日のパニック。叫び声を上げ、無様に逃げ去った自分。
人智を超えた存在への恐怖は事実だった。けれど、それ以上に、彼女を一人残して背を向けた後悔が、じりじりと胸の奥を焦がしている。
傷ついていないだろうか。
指先に残る、あの熱い拍動。
手を繋ぎ、抱きしめた。あんなふうに誰かと心を通わせるように触れ合ったのは、人生で初めてだった。
そして――あんなにも神秘的な存在が、ただの人間である自分をまっすぐに見つめ、求めてくれたことが、何よりも誇らしく、嬉しかったのだ。
カレハの髪が纏っていた清廉な香りと、腕の中にあった確かな温もりが、まだ残っている。
まぶたの裏に焼きついた、あの愛らしい耳。感情に合わせて揺れる尻尾。震えていた肩。
思い出すたび、心臓が熱を帯びて大きく跳ねる。
けれど、今日は、帰る日だ。
静かな部屋に、母親からの電話が鳴り響いた。
『夕方、駅まで迎えに行くから。忘れ物しないように支度してね』
受話器越しに聞いた日常の声。
けれど。
(あの子に、もう一度会いたい。会って……謝らなきゃ)
焦燥に駆られながら荷物を詰め込み、弾かれたように神社へ向かった。
昨日よりも空は高く、突き抜けるような青。蝉の声は、まるで命を燃やし尽くすような音で鳴り響いている。
夏の光が、零れ落ちる時間を急かすように、想太の背中を無慈悲に照りつけていた。
石段を息を切らして登りきると、そこに彼女はいた。
昨日と同じ朱色の着物が、木漏れ日の中で幻想的なコントラストを描いている。
「想太さん……」
彼女がゆっくりと立ち上がる。いつもの控えめな笑顔を浮かべてはいるが、その瞳の奥には、薄い緊張を張り詰めていた。
「今日も来てくれたんですね」
「うん、どうしても……もう一度、会いたくて」
想太の言葉に、カレハの耳がぴくんと反応した。
思わず口をついて出た本音に、想太自身も驚く。けれど、さらけ出した素直な気持ちが追い風となり、わだかまりを今なら越えていける気がした。
二人は一瞬、吸い寄せられるように視線を交わし、同じタイミングで言葉を発した。
「昨日は……!」
「昨日の……ハグのことなんですけど!」
言葉が重なる。
カレハの予期せぬ勢いに、想太はたじろいで身を引いた。
「え? な、なに?」
「順番、間違えちゃってたんです!」
カレハは顔を真っ赤に染め、『人間説明書』のページを激しくめくった。
「本当は、『デート』が先で……『ハグ』はそのあとなんです! 何度も読んだのに! 間違えてしまうなんて……」
「え……」
「だ、だから今日は、わ、私と、デートしてくれませんかっ!」
必死の形相で、カレハが深く頭を下げる。その拍子に獣耳が前に垂れ、尻尾が地面を叩く。
想太は思わず吹き出しそうになった。昨日、自分が叫んで逃げたことなど、彼女の中ではこの「順番のミス」という重大事態に比べれば些細なことなのだろうか。
その懸命さが愛おしくて、想太の胸にじんわりと温もりが広がった。
「いいよ。デート、しよう」
想太の承諾に、カレハの耳がぴょんと跳ね、その顔がぱあっと輝いた。
「や、やった……! じゃなくて……あ、ありがとうございます!」
想太は、カレハの弾むような足取りに導かれ、森の奥へと分け入っていった。
鳥のさえずりと葉擦れの音に包まれ、やがて、巨木の根元にぽっかりと口を開けた洞窟へと辿り着いた。
「ここ、私の秘密の場所です」
カレハの声に誇らしげな色が混じる。足を踏み入れると、外界の騒がしさが一瞬で消えた。
暗闇の中、壁に埋まった鉱石が青白い光を放ち、まるで地下に星空が閉じ込められたような、息を呑む光景が広がっていた。
「うわ……すごい」
「きれいです。夜の光が眠ってるんです」
洞窟の最奥。ひんやりとした静寂の中で、二人は肩を並べて座った。真夏だというのに、そこには秋の夜のような涼気が満ちていた。
鉱石の淡い反射が、カレハの横顔を照らし出す。
金色の瞳が、その光を宿して静かに揺れていた。
「カレハ、さん」
「はい」
「僕、今日……帰るんだ。都会に」
想太の告白が、水面に落ちた石のように波紋を広げ、静寂を落とす。
カレハの小さな肩が、目に見えて震えた。
「そう、なんですね……。もう、来ないんですか?」
「来るよ。また、来る。約束する」
想太の強い決意に、カレハは寂しげに微かな微笑を浮かべた。
「実は……今日は、もう来ていただけないと思ってたんです……」
「えっ」
「昨日、私の耳に触れてひどく驚いてらしたので」
やはり、彼女は傷ついていた。それを隠し、必死に「人間説明書」を盾にしてデートに誘ってくれたのだ。カレハの声が、微かな震えを帯びて上ずる。
「私が神様だと……人間さんは怖いのでしょうか」
「そんな……」
「神社に誰も来なくなったのは、人間さんが神様を嫌いになったからなのでしょうか」
「ちが……」
「また誰も来なくなると思って……とても……怖かった……」
堰を切ったように溢れ出した彼女の心。その瞳から、大粒の涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。
「……今日来てくれて、嬉しかったです……ありがとう……ございます……」
潤んだ瞳で笑おうとするカレハ。
想太の胸は、千切れるような罪悪感といじらしさで締め付けられた。どんな言葉を尽くして言い訳をするよりも、今の彼女には――。
「絶対来るから。また! 絶対!」
カレハは嬉しそうに鼻をすすり、着物の袖で涙を拭った。そして、ふいに、想太の袖を震える指先でそっとつまんだ。
「人間説明書には……"デートの終わりには、約束を交わす儀式をする"って」
「え……」
「"キス"です。」
カレハの頬が、みるみるうちに赤く染まる。その熱が伝染するように、想太の顔も火照っていく。
彼女の耳は細かく震え、視線は地面を這ったままだ。
そのあまりに純粋な恥じらいが、胸が苦しくなるほど愛おしかった。
想太は緊張で震える手を固く握りしめ、そっと彼女の頬に掌を添えた。
「キ、キス……約束」
囁きとともに、想太は彼女の頬へとゆっくり顔を寄せた。
柔らかな肌に、自分の唇が触れる。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬は、想太にとって永遠の一瞬だった。
想太は弾かれたように顔を引くと、真っ赤になった顔を背けて視線を泳がせる。
「これが……キスですか?」
カレハは、想太の唇が触れた場所を指先でなぞり、不思議そうに首を傾げた。
「想太さん、"人間説明書"に書かれているキスはここに……」
彼女が、自らの淡い桜色の唇を指さす。
しかし、度重なる緊張と、汗が引いた後の冷えが混ざり合い、想太の体はガクガクと小刻みに震えていた。
「か、勘弁してよ……これ以上は恥ずかしいよ」
情けない声を上げる想太を見て、カレハはふふと小さく笑った。
「確かに、少し恥ずかしいです……でも、胸の奥が、ぽかぽかして……幸せな気持ちです」
カレハは想太の震える手を取り、その指先を自身の口元へと引き寄せた。
「では、次に会った時は、ここに……」
「……っ」
「……これも、約束です」
上目遣いで、射抜くように見つめてくるカレハ。想太は息を呑み、喉を鳴らした。
全身を熱い血が駆け巡り、心臓が爆音を立てる。
指先に伝わる、吸い付くような柔らかさと温もり。
「あ……」
たまらず手を引くと、カレハは満足げに、ゆっくりと立ち上がった。
「行きましょう。想太さん」
洞窟を抜けると、夕暮れの風が凪ぎ、木々を優しく揺らした。
カレハの黒髪が、沈みゆく黄金の光を浴びて、神々しいほどにきらめいている。
「想太さん。私、ずっとここで待っています」
「う、うん。また来年、絶対に会いに来る」
想太は何度も振り返りながら、夕闇に溶けゆく影を、消えない刻印のように胸の奥へと焼きつけた。
夏の終わりの空が、優しく彼らの恋を見守っていた。
(完)